1806年再訪 その1

 Napoleon Series"http://www.napoleon-series.org/"の掲示板でPierre Charrierの書いたLe Marechal Davout"http://www.nouveau-monde.net/livre/?GCOI=84736100680440"が話題になっていた。どうやらアウエルシュタットの戦いにおけるベルナドットの行動について色々と書いてあるらしい。興味深いのでチェックしてみよう。
 まずベルナドットがダヴーと面会した後でドルンブルクへ向かった決断については、ケーゼンの隘路を避けるという意味で合理的な判断だったと記しているらしい。そしてベルナドットの伝記作家たちがそうした点から彼の行動を正当化せず、命令が曖昧だったという理由のみを強調している点に驚きを感じている、と記しているのだとか。少なくともMaudeは命令の曖昧さではなく主戦場に戦力を集めるという判断を背景にベルナドットが行動したと指摘している筈だが、フランスの伝記作家はそうした切り口で書いていないのかもしれない。
 またCharrierはベルナドットがドルンブルク経由の行軍に時間をかけた理由として、暗さ、霧、悪路、そしてドルンブルクでイエナに向かうミュラの部隊が引き起こした渋滞に巻き込まれたことなどを上げている。早朝4時に出発したのに、ベルナドット師団の先導部隊がアポルダに到着したのはようやく午後2時になってからだったとか。どのような史料に基づいた指摘なのかは不明だ。

 ここまではベルナドットに同情的だが、ここからCharrierは批判に転じる。まずベルナドットは午後4時にアポルダに到着しており、そこからアウエルシュタットまでは8マイルの距離だったのに、その日はそれ以上行軍しようとしなかった。アポルダ高地からはモランが占拠していたゾンネンクラッペを肉眼で見ることができたにもかかわらず、である。
 この批判は妥当なのだろうか。Hourtoulleなどによると午後3時にはプロイセン軍は一部の後衛部隊を除いてほぼ退却を始めている。ゾンネンクラッペにいたフランス軍は既にそこから最後の攻撃と追撃に移っていたと見ていいだろう。ダヴー自身の報告書によれば戦闘が終結したのは午後4時半("Napoleon's Finest" p75)。肉眼で見えたからといって、8マイル離れた場所にいた軍隊が役に立ったとは思えない。
 もう一つ、ベルナドットの部隊のうち、日没前にアポルダに到着したのはほんの一部であったことも忘れてはならない。こちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/dornburg.html"に書いたように、ベルナドット軍団の歩兵3個師団のうち2個師団がアポルダに到着したのは夜になってからである。午後4時から動き出すということは、いまだ追いついてこない2個師団を置き去りにすることを意味する。10月ともなれば次第に日中の時間は短くなっていただろう。限られた時間で味方部隊を後方に放置したまま進むべきだったと言うのは、それほど妥当な指摘とは思えない。

 次の問題点は、ベルナドットがダヴー救援を助言されたのにもかかわらずそれを無視したという話だ。Charrierはデュポンとサユークがアウエルシュタットの砲声に向かって行軍しようとしたのに、ベルナドットが妨げたとしている。これは本当に史実なのだろうか。
 デュポンについては正直分からない。デュポン師団の記録には「右翼方向からの強力な砲声」が聞こえてきたことと、デュポンが「カムブルクの橋を通って進出し高地の上での戦いに参加する」可能性を検討したことについて触れている。しかし、ベルナドットがそれを妨げたという話は見当たらない。他に何かの一次史料があるのかもしれないが、現時点では不明というしかない。
 サユークについてはサヴァリーの回想録が論拠になっている可能性がある。サヴァリーは以下のように記している。

「彼[ダヴー]の副官たちはベルナドットに進軍を求めてあらゆる方向からやってきた。しかし無駄だった。彼はどこにも見つけられなかった出口を求めて終日道路上におり、ダヴー元帥が[敵と]衝突しているのを放っておいた。元帥は騎兵についても同様の障害に直面していた。彼の副官たちは、脅威が切迫しているとして騎兵師団に合流するよう命令を運んできた。ベルナドットは騎兵を持ち続け、彼らが戦闘に参加しようとするのを妨げた」
Memoires du Duc de Rovigo, Tome Deuxieme"http://books.google.com/books?id=XoEvAAAAMAAJ" p286-287

 よく読むと分かるように、これはサユーク(ベルナドットに同行していた騎兵師団の指揮官)が自発的に「砲声に向かって行軍」しようとした話ではなく、ダヴーから受けた命令の遂行をベルナドットが妨げたという話である。ここで重要なのは何よりまずベルナドットに同行していなかったサヴァリー発言の信頼度であるが、それ以外にサユーク師団がこの時点で誰の麾下にあったかということも調べておかなければならない。
 こちら"http://www.napoleon-series.org/military/battles/c_davout1.html"によると帝国司令部は10月12日のダヴー宛命令書の中でサユーク将軍の竜騎兵師団をダヴー元帥麾下に入れると記している。サユーク自身への同日付命令書にも同じことが書かれており、12日時点でサユーク師団がダヴーの命令下にあったことは間違いないだろう。
 だが、こちら"http://www.wtj.com/archives/davout/dav170.htm"に書かれた10月14日の皇帝への報告書では、ダヴーは「私が持っていた少ない騎兵では(中略)歩兵の成功から利益を引き出すには十分ではありませんでした。ベルク大公は前日、サユークの竜騎兵師団を引き上げました」と記している。14日時点でサユークの師団がダヴーの指揮下になかったのはサヴァリーの指摘と一致しているが、ダヴーはその理由をベルク大公、つまりミュラに帰している。現場に居合わせたとは思えないサヴァリーと、当事者の一方であるダヴーのどちらの言い分を信じるかとなれば、私はダヴーを選ぶ。
 結論として、Charrierが論じている「砲声に向かって行軍」しようとしたとの話は、論拠が分からないままだった。これ以上詳しく調べるにはCharrierの本を購入して脚注をひっくり返すしか手がないだろう。

 長くなったので以下次回。

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コメント

No title

シェヘラザード
すでにチェックされているかもしれませんが、英語による書評があるみたいです。ベルナドットの行動については、一次資料を丹念にあたっていると書いてありますね。
http://www.h-france.net/vol6reviews/schneid.html
まるで自明の理のごとくに言われていることでも、もとをたどればせいぜい三十年ほど前に提唱されたことだったり、大昔からの伝統とされていることが実は十年ほど前に誰かが始めたことだったりというのは、よくあることだと思います。google bookでダヴー情報を探していたら、19世紀にはほとんど獣あつかい(?)だったのに、世紀の変わり目あたりから絶賛する記事も出てくるようです。第一次大戦でドイツがイギリスの敵国になったことも関係あるのかなぁ、などとも思うのですが、即断はできないですね。アウエルシュタットでのベルナドットの評価がダヴー評価と連動している可能性はあると思いますが。

No title

desaixjp
ご指摘ありがとうございます。その書評はまだ読んでいませんでした。ざっと見たところ、Charrierは第3軍団の幕僚たちの回想録に基づいた指摘をしており、なおかつ彼らの回想録を出版しているとか。それが事実ならむしろそちらの方を読んで調べてみたいものです。サヴァリーやセギュールより、彼らの発言の方がよほど参考になりそうですし。
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