R・クロファードの報告 1

 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 ラウフェン、1796年8月27日
 閣下、
 オーストリアの上ライン軍主力部隊は今月13日にドナウェルトでドナウを渡河し、14日はその近くにとどまったことを閣下に謹んでお知らせします。後衛部隊はいまだノルトリンゲンとホッホシュタットからドナウェルトへ通じる道路、前者においてはハールブルクの隘路を、後者ではブレンハイムから1リーグ東方の村を占拠していました。
 15日、ラ=トゥール将軍を上ライン軍のかなりの部分とともにレッヒ川を守るため残した殿下は、ヴァルテンスレーベン将軍が前進して正面から攻撃する間にジュールダン将軍の右側面に対する作戦を行うため、再度渡河する意図で残りの部隊とともにドナウ右岸を下流へ行軍しました。後衛部隊はもちろん上に述べた場所から後退し、この日のうちにドナウェルトから撤収しました。
 殿下がこの機動を始めた時、ヴァルテンスレーベン将軍はアンベルク近くに陣を敷いていました。この陣の左翼を迂回するためジュールダン将軍はかなり大きな縦隊をニュレムベルクからノイマルクを経由してラティスボンへ至る大街道へ派出しました。この縦隊に対抗するため、ナウエンドルフ少将は新たにオーストリアから到着した4個歩兵大隊といくつかの軽兵から成る軍団とともに後者の地[ラティスボン]から前進していました。
 17日、大公が上ライン軍から連れてきた兵たちは2個縦隊でノイブルクとインゴルシュタットにおいてドナウを再渡河し、その場の近くで宿営しました。後者は防衛することが可能で、河沿いの重要な場所にあるため、守備隊が送り込まれました。ノイブルクで渡った縦隊はホッツェ中将が指揮していました。
 18日、兵は止まっていました。
 企図していたのは右縦隊がインゴルシュタットからバイルグリースへ、ホッツェ中将は左翼側かなり遠くへ進むというものでした。しかし18日から19日にかけての夜、ヴァルテンスレーベン将軍がアンベルクの陣地を立ち退き、ナープ川背後へ戻ることを余儀なくされたとの情報が伝わりました。
 ヴァルテンスレーベン将軍との連絡が極めて覚束なくなったうえ、敗北した場合(おそらくラティスボン街道から切り離される)の退却が非情に困難になったため、上に述べた大公の軍団の計画的な移動は今や極めて危険になりました。そこで殿下は彼の行軍をより右側に振り向け、今月20日に右縦隊はハンマンに到着しました。同日タスヴァンクの高地へ前進したナウエンドルフ少将の軍団は、この時から殿下の前衛を構成することになりました。ホッツェ中将の軍団はバイルグライスへ行軍しました。
 この行軍により大公はラティスボン街道を確保したうえ、ナープへ前進したジュールダン軍団の右側面を[前の計画と]同様に脅かしました。
 激しい砲声が今月20日にシュヴァルツフェルト方面で聞こえたほか、他の理由もあり、ヴァルテンスレーベン将軍の状況に関するより確かな情報が得られるよう前進はゆっくりと行われる必要があり、ようやく攻撃のための共同計画が整いました。上に述べた砲撃は後に全く重要性のないものであることが明らかになりました。
 22日、ノイマルクから前進し、タイニング村の近くで大街道が通過している深い峡谷の背後に陣を敷いた敵の軍団は、ナウエンドルフ将軍麾下の前衛部隊に攻撃され、陣を立ち退くことを余儀なくされ、ノイマルクへ退却しました。
 23日、大公とホッツェ中将の軍団は再合流し、いくつかの縦隊で前進し、ノイマルク背後の陣から敵を追い払いました。ホッツェ将軍は彼らをアルトドルフから1リーグ以内の距離まで追撃し、同時にリヒテンシュタイン公ヨハン少将麾下のかなり大きな騎兵及びいくらかの軽歩兵から成る縦隊はニュレムベルク街道を押し進みました。
 大公軍団の右縦隊はノイマルク近くで宿営しました。
 24日、長く企図されていた共同作戦がジュールダン将軍の軍相手に実施されました。この作戦は7個縦隊で遂行されました。右翼のヴァルテンスレーベン将軍の縦隊はヴェーガーへ前進しました。もう一つの大きな縦隊はシュヴァルツフェルトから進み、3つ目のより小さなものがその左翼を、4つ目はシュヴァンドルフからアンベルクへ前進し、その近くで後者の3個縦隊は合流し、その左翼は大公の右翼と接合します。大公の部隊はノイマルクからカステル経由でアンベルクへ進み、その左翼に2つの強力な軍団を、スタライ中将麾下にある1つはヘルスプリュックへ、ホッツェ中将麾下にあるもう1つはラウフェンへ前進しました。この素晴らしい配置は、大公の軍団の脅威を与える動きに警告を受けた敵がそれを不可能にするため大慌てで退却しなければ、間違いなく決定的な戦いにつながったでしょう。しかし彼らの損害はかなりの数にのぼっているはずです。アンベルクの隘路を可能な限り長く守っていた敵後衛の2個歩兵大隊は、オーストリア騎兵の数個大隊により完全に壊滅されました。夕刻には異なる軍団がアンベルク、ヘルシュプリュック、ラウフェンその他の近くに宿営しました。ジュールダン将軍はフォルヒハイムへの退却を続けています。
 これらの作戦を実行している間、モロー将軍はドナウェルトでドナウを渡り、全軍でラ=トゥール将軍に対して行動したため、彼はレッヒ川の陣地を立ち退くことを余儀なくされ、24日にイーゼル川の背後に陣を敷きました。ラ=トゥール将軍の損害はとても多かったのですが、敵の圧倒的優勢が彼に退却を強いました。
 閣下、以上が私がお伝えしようと試みた最近の出来事と移動に関する正確な記録です。そして深く関係するものとして閣下にお伝えすべきだと結論づけたことですが、私の兄[チャールズ・]クロファード中佐は不幸にも今月25日に負傷し捕虜になりました。
 大公は彼を送り返すよう喜んでジュールダン将軍に手紙を出しました。そして、捕虜になった時に軍事的任務のために雇われていなかった人物を戦争捕虜として拘束することはあらゆるルールに違反しているため、彼らがいずれ彼を返すことは疑いありません。
 大公と、言わせていただければ軍の主要な士官たち全てが、クロファード中佐のことにどれほど関心を抱いている様子を示しているかを閣下に言葉で表現することは私にとって不可能なほどです。また彼が捕虜になったのは何ら不注意によるものではないことも閣下に確言できます。しかしながら彼の行動は、オーストリア軍に同行する名誉を担って以来、たとえ軍事作戦の傍観者に過ぎない時でも示さずにはいられなかった明白な情熱と活気、勇気に特徴づけられていました。
 敬具
 (サイン)ロバート・クロファード
A Collection of State Papers Relative to the War Against France "http://books.google.com/books?id=OZ4BAAAAMAAJ" p83-85

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック