ミュラ その3

 承前。


7)1813年戦役
 この年、ミュラは秋季戦役になってから戦線に復帰した。彼が最初に活躍したのはドレスデンの戦い。そしておそらく、ミュラの突撃が最も成功したのはアイラウではなくこの戦場である。会戦2日目の8月27日、ミュラが連合軍左翼に対して行った騎兵突撃は大成功を収めた。降り続く雨のためにマスケット銃の火打石が使い物にならず、銃を撃てない歩兵の方陣は騎兵の衝撃に耐えることはできなかった(F.N. Maude "The Leipzig Campaign" p188)。
 ミュラの報告によると「陛下の騎兵は1万5000人を捕虜とし、大砲12門、軍旗12旒、中将1人、他の将軍2人、多くの高級士官と他の階級の者が我らの手に落ちました」(George Nafziger "Napoleon at Dresden" p190)ということになる。ミュラがあげた数字は実際よりは大げさで、捕虜の数はヴィクトールの第2軍団によるものなども含めてようやく1万5000人強に達した程度だったらしいが、それでも凄まじい戦果には違いない。大砲も軍旗も奪えず、多数の捕虜を得た証拠も見当たらないアイラウよりは明らかに成功した突撃だと言える。
 もっとも雨の中で騎兵が圧倒的な強さを発揮するのは珍しいことではない。8月26日のカッツバハの戦いでは、騎兵で勝る連合軍が雨にも味方されてフランス軍を潰走させるのに成功した。マスケット銃を使えない歩兵は、たとえ方陣を組んでもそれだけ騎兵に対しては無力になる。この時代、雨天においても砲兵や騎兵はそれなりに活動できるが、歩兵の能力は大幅に低下するのが珍しくなかった。雨はカッツバハでは連合軍に、ドレスデンではフランス軍に利をもたらしたのである。
 ドレスデンの戦い後もミュラはナポレオンに従い、ライプツィヒの戦いに至る局面ではフランス軍の南部戦線の指揮官として活動した。ライプツィヒ会戦の前、10月14日に行われたリーベルトヴォルクヴィッツの戦いではフランス側は死傷者1500人、捕虜1000人の損害を出したが、その多くは騎兵が蒙ったという。「この失敗はミュラにのみ負うものである。密集した大きな騎兵縦隊を敵砲兵4個中隊の至近距離からの砲撃に面したところで使ったことは(中略)犠牲の大きな敗北をもたらした」(Digby Smith "1813: Leipzig" p51)。ロシア遠征と同様、ここでも彼が騎兵をうまく使いこなせていなかったことが分かる。
 ミュラは16日の戦闘でも大規模な騎兵突撃を実施したが、「予備を残すことを考えていなかった」(Smith "1813: Leipzig" p94)。1813年戦役においてフランス軍の決定的な弱点は騎兵の数で劣っていることであり、それが何度もフランス軍にマイナスの影響を及ぼした。ミュラはその貴重な騎兵を安易な突撃を繰り返すことですり潰していったのである。ロシア遠征から1813年戦役に至る過程でフランス軍の大きな敗因となった騎兵の損耗について、彼はかなり大きな責任を負っている。

8)評価
 戦場における騎兵指揮官としてミュラが成功した事例を取り上げるなら、まずドレスデンの戦いが上げられる。騎兵に有利な条件をいかんなく活用し、連合軍左翼を壊滅させて勝利に貢献した。アウステルリッツもなかなかいい戦いぶりだ。ランヌの騎兵とうまく連携して連合軍右翼に圧力をかけ、これを撃退するのに成功している。会戦全体の行方は連合軍左翼の方で決まってしまったため彼が及ぼした影響は限定的だが、役割は果たしたと言えるだろう。
 アイラウの評価は難しい。具体的な戦果に乏しいうえに、危機的な戦局を救った突撃だと主張するのも無理がある(逆に早い段階からロシア軍と交戦していたダヴーの評価はもっと高めるべきかもしれない)。むしろアブキールの方がうまく戦ったと言えるが、部隊の規模が小さすぎるうえに相手がオスマン帝国軍であるため、あまり高く評価しすぎるのも禁物だろう。
 騎兵指揮官としての拙い戦いぶりが目立つのは、彼の戦歴後半に多い。ロシア遠征時のオストロヴノやクラスノエでは早まった突撃を繰り返して他の兵科との連携を無視した。リーベルトヴォルクヴィッツやライプツィヒでも同様に無闇な突撃を行って騎兵の損害を増やすことに貢献。相手に損害を与え戦局を有利に傾けるという、期待された役割は果たしていない。結論として、戦場の騎兵指揮官としては成功もあるが失敗も多いという、割と平凡な評価になる。少なくとも「最も優秀な騎兵指揮官」というのは言いすぎだろう。
 前衛部隊指揮官としての評価はさらに厳しめだ。成功例はイエナ後の追撃戦くらいで、1805年戦役では成功と失敗があい半ばする微妙な評価。ロシア遠征においては、何度も相手の奇襲を受けるなど散々な有様である。タボール橋やプレンツラウなど相手の士気が低迷している局面においてはミュラの積極性も大きな効果を挙げることができるが、抵抗する力の残っている相手に対してはその積極性がただの無謀に転じてしまうようだ。いつもいつも積極的すぎるくらいの積極策を採用するのは、結局のところ彼に戦況の有利不利を読み取る能力がないためではないだろうか。前衛指揮官としては必要な能力の一部が欠如しているように思えてならない。
 軍といえども組織であり、そのトップは管理職としての仕事を果たさなければならない。この分野においてミュラはおそらく失格だろう。騎兵にとって大切な馬匹を無駄に消耗させ、それをフランス軍全体の弱点にまでしてしまった責任は大きい。ミュラの管理能力欠如については、彼があまりに急速に出世したのでそうした管理業務を学ぶ期間が限られていたのが理由だとの説明がある。連隊長としてきちんと連隊を世話する仕事に追われた経験があれば、ここまで安直に突撃を繰り返すことはなかったかもしれない。

9)IF 1815年戦役
 ワーテルローの戦場にミュラがいれば歴史は変わっていたかもしれない、との意見もある。言い出したのは他ならぬナポレオンだ。「私は彼をワーテルローへ連れて行くべきだった(中略)。彼は我々が勝利を得ることを可能にしてくれたに違いない。戦闘のある局面で彼がどれほど役に立ったと思う? その日その局面で勝利を確実にするため、何が求められていたか? 3つか4つのイギリス軍方陣を打ち破ることだ。そしてミュラはそうした仕事に関しては立派なものだった」(The Life, Exile, and Conversations of the Emperor Napoleon"http://books.google.com/books?id=kLAaAAAAMAAJ" Vol. I. Part II. p225)。
 しかし、これまでのミュラの実績を見る限り、話がそう簡単でないことは分かる。ミュラの突撃が成功するのは、悪天候(ドレスデン、アイラウ)か他の兵科との連携がうまくいった時(アウステルリッツ、アブキール)である。ワーテルローの戦いは悪天候ではなかった。空は晴れ、地面はぬかるんでいるという騎兵にとって最悪のコンディションだ。他の兵科との連携についても、晩年のミュラはそれを無視して騎兵のみで突撃することが多かった。ネイの代わりに彼がいたからと言って、果たして英国軍の方陣を崩すことができただろうか。
 確かにナポレオンが言う通り「多数の騎兵の先頭に立った時、彼ほど断固としており、勇敢で、華々しい人物はいなかった」かもしれない。だが、勇気や華々しさだけではきちんと準備を整えた方陣は崩せないことは、1812年から13年にかけてミュラ麾下のフランス軍騎兵が散々経験してきたことである。ワーテルローの戦場にネイではなくミュラがいたとしても、状況は変わらなかっただろう。

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