承前
4)1806年戦役
イエナの戦いでミュラが戦闘に参加したのはほとんど最終局面。彼は敵の敗残兵に対してかき集めた軽騎兵部隊を率いて攻撃を行ったという(F. Loraine Petre "Napoleon's Conquest of Prussia 1806" p140)。しかし、戦場で活躍できなかったミュラも、その後の追撃では大いに活躍している。追撃もまた前衛部隊としての仕事だが、ここでは久しぶりにいい仕事をしたと言えるだろう。
特に大きいのはプレンツラウでホーエンローエの部隊(1万人強)を降伏に追い込んだこと。タボールの時と同様、彼の演技力がものを言ったらしい。実際にはミュラの騎兵部隊とランヌ軍団しかいないのにプロイセンの士官を相手に地図を指差しながら「ここにランヌ元帥、ここにはスールト元帥、こちらにはベルナドット元帥の軍団がおり、ここにいる私の部隊はそちらより何千人も多い」とはったりをかましてついに武器を置かせたのだとか(Petre "Napoleon's Conquest of Prussia 1806" p247-248)。
リューベックへの追撃にもベルナドット、スールトとともに参加し、ブリュッヒャーを降伏させている。前衛指揮官としてのミュラが一番輝いたのはこの戦役と言ってもいい。残念ながらこの後、ミュラが前衛指揮官として華々しい活躍を見せる場面はなくなる。
5)1807年戦役
ここで注目するのはアイラウの戦い。この戦いにおけるミュラの突撃は、彼の評価の最も根底にあるものだ。戦史に残るといわれたこの苛烈な突撃があったからこそ、ミュラを同時代でも最高の騎兵指揮官だとする意見にそれなりの説得力が付与されたのだ。だが、このアイラウの戦いほど実態のよく分からないものもあまりない。
フランス側の言い分に対してロシア側の言い分がかなり異なることは前にも指摘している。ロシア側の記録にはフランス親衛騎兵が戦線の隙間から侵入してきたという話は載っているものの、ミュラが率いたとされる1万騎の突撃に関する記述は見当たらない。この突撃でロシア側の大砲や軍旗が奪われたという話もなく、フランス騎兵が大勢の捕虜を得たという話もない"http://www.battlefieldanomalies.com/eylau/06_the_russians.htm"。本当にそんなに大成功に終わった突撃なのかと疑いたくなる条件は揃っている。
たとえ戦果らしい戦果がなくても、オージュロー軍団の敗走で崩壊しかけたフランス軍の戦線を建て直す時間を与えたのだから戦局に大きな影響を与えた重要な突撃だ、と考えることも可能だろう。しかし、この突撃がそれほど戦局を変えたのかどうか、疑問がある。
以前、アイラウについて記した大陸軍公報の英訳には内容の異なる2種類のものがあると指摘した。一つは英語圏で一般的なアイラウの戦いの流れに従った記述となっているMarkham版"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/eylau_mar.html"、もう一つはそれと異なる流れを記したGorsuch版"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/eylau_gor.html"だ。前者は戦闘の順番が「オージュローの敗退→ミュラの突撃→ダヴーの到着」となっており、後者は「ダヴーの到着→オージュローの前進と敗退→ミュラの突撃」という順序だ。
ナポレオンの書簡集、Correspondance de Napoleon Ier, Tome Quatorzieme"http://books.google.co.jp/books?id=hbgwq9ybATwC"のp293-296に載っている公報を見ると、どうやら正しいのはGorsuch版である。ダヴー自身の報告書も、彼が早朝の時点からロシア軍左翼と戦闘を交えていたことを裏付けている点も既に指摘済み。そして、戦闘がこのような経過を辿ったのが事実だとすれば、ミュラの騎兵突撃が持つ意味は一段と弱まる。
もしダヴーの到着前にオージュロー軍団が敗北し、フランス軍戦線が危機に晒されていたのだとしたら、その時点で時間稼ぎを行ったミュラの騎兵突撃は大成功だったと見なすこともできるだろう。だが、ダヴーが既に到着しロシア軍がそちらに予備兵力を振り向けていたのだとしたら、ミュラが突撃した時点でフランス軍戦線が晒されていた危機の度合いも実は大したことがなかった、という結論になる。ミュラの攻撃がもたらした意味は、オージュローが失敗した行動、即ち「ロシア軍がダヴー軍団へ予備を振り向けるのを妨害する」という程度のものだったことになる。
この突撃が一種の「牽制」としてなされたのだと考えれば、ロシア側の記録に明白な痕跡が残っていないのも納得できるのだ。もちろん、それだとフランス側がこの突撃を大成功だと考えている理由が説明できないのも事実。ナポレオンが公報を書く際に無理やり盛り上げたのか、それともある程度裏付けとなる成果が存在したのか、今となってはよく分からない。
結論として言うなら、おそらくこの突撃は一定の成果を上げたと考えていいのだろう。ただしその成果は世に喧伝されているほどのものだとは思えない。つまり、これを論拠にミュラがナポレオン戦争期における最高の騎兵指揮官だと主張するには、いささか根拠が薄弱だと考えるべきだろう。
6)1812年戦役
ロシア遠征初期におけるミュラの活動は大きな批判を浴びている。第16猟騎兵連隊のある士官は「ナポリ王は個人的にはとても勇敢だが、軍事的才能は僅かしかない。彼は敵の正面でどう騎兵を使うかについてはよく知っているものの、騎兵を保存する技術については無知であった」(Paul Britten Austin "1812: The March on Moscow" p123)と指摘。フランス騎兵の馬匹は馬勒も鞍も外さずに絶えず臨戦状態に置かれた結果、飼料不足も影響して急激に数を減らした。侵攻一ヶ月後には騎兵の4分の1が失われ、特に前衛を務める軽騎兵は半数に落ち込んでいたという。
「敵の正面でどう騎兵を使うか」についても、彼が本当に知っていたかどうか疑わしい。オストロヴノの戦いでは歩兵の増援が到着する前に騎兵に突撃を行わせて被害を出している(Austin "1812: The March on Moscow" p131)し、クラスノエではロシア軍後衛部隊を相手に「ミュラは全体的な指揮をほとんど執ろうとした様子は見られず、軍団長というより連隊長のように行動した。彼は荒れ狂って馬を乗り回し、彼の全部隊を再統合して単独の強固な襲撃を行おうとはせず、孤立した突撃ばかりを命令した」(George F. Nafziger "Napoleon's Invasion of Russia" p184)。ミュラの突撃に邪魔されてネイの歩兵はロシア軍を攻撃することができなかったという。
前衛部隊指揮官としても、ロシア側の奇襲を許すという致命的な失敗を複数回している。7月14日には前衛の騎兵旅団が丸ごと降伏を強いられ、8月8日にはスモレンスクから前進してきたロシア軍の前衛部隊であるコサックの攻撃で600人の損害を受けた。10月18日にはモスクワ南方でやはり大陸軍前衛が奇襲を蒙っている。いずれもミュラというよりはその部下(具体的にはセバスティアニ)の方が責任が重いと見られるが、ミュラの評価を定める上でプラス材料にはならない。
ボロディノの戦いでは最前線で勇敢に戦うミュラの姿が見られた。個人的な危険に身を晒す場面も多々あったようで、バグラチオン突角堡では危うく捕虜になりかかったところをヴュルテンベルク歩兵に救出された"http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Murat-borodino1812.jpg"。アブキールと同様、ミュラの個人的勇気についてはここでも証明されている。ただし、フランス騎兵が大堡塁を落とした場面においてミュラが果たした役割はほとんど何もないようだ。彼は突撃の時点でセミョノフスカヤ村にいたため、突撃には参加していないという(Digby Smith "Borodino" p118)。
ロシア遠征の最終局面で彼はナポレオンから大陸軍の指揮を引き継いだが、単に退却を続けただけでやがて指揮権をウジェーヌに渡してナポリへ引き上げた。全軍の指揮は騎兵指揮官としてのミュラの能力を測る上ではほとんど参考にならないが、彼が大規模な軍勢を指揮する能力に欠けていること、及び逆境にある際の指揮能力に疑問があることは否定できない。
以下次回。
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