C・クロファードの報告 8

 皇弟殿下オーストリアのカール大公の司令部
 シュトゥットガルト近くのフェルバッハ、1796年7月19日
 閣下、
 敵が殿下とフレーリヒ将軍及びコンデ公との直接の連絡を絶つ目的でシュトゥットガルトに向かって行軍しているとの情報を得た大公が今月14日、プフォルツハイム近くの宿営地からエンツ川沿いのファーリンゲンへ移動し、15及び16日もそこにとどまったことを閣下に謹んでお知らせします。17日も敵がシュトゥットガルトへの行軍を続けていたため殿下はシュヴェベルティゲンへ移動しました。そして18日にはルートヴィヒスベルクへ行き、左側面を守るためネッカー川にかかるカンシュタット、ウンター=トゥルネン、そしてエスリンゲンの橋を占拠するべく2つの小規模な軍団を派出し、彼の主な補給拠点との連絡線が通っているシュトゥットガルトからウルムへの道を確保しました。
 18日午後、敵はシュトゥットガルトに到着し、その市からルートヴィヒスベルクとカンシュタットへ向かう道路を見下ろすように布陣したオーストリア軍の前哨線を除去しようと試みました。
 攻撃は4時から始まり、はっきり異なる2つの軍団に対して猛烈に振り向けられました。そのうち左翼はバイユ将軍麾下でカンシュタット近くに、そして右翼はリヒテンシュタイン公ヨハン麾下でカンシュタットとファイエルバッハ間に布陣していました。カンシュタットの高地で敵は3回撃退されましたが、リヒテンシュタイン公がそこを占領するのに十分な兵力を持ち合わせていなかったため、敵は彼の右側面にある見晴らしのよい土地の確保に成功しました。
 しかし殿下は、軍の前哨線を構成しているもう一つの師団とともに彼を支援すべく行軍しているドゥヴェイ将軍が到着する最後の瞬間まで待つことを決意しました。その間、敵は多くの地を得たため、彼らの正面からと右側面からの射撃がリヒテンシュタイン公の兵がいるところで交錯し、彼らが後方へ退却しないようにするのに多くの困難が伴いました。この危機的な瞬間にドゥヴェイ将軍が姿を現し、敵兵のうちリヒテンシュタイン公の右翼にある高地に布陣しているものを撃ち破りました。これで殿下が正面から攻撃する機会が与えられ、彼は成功裏にそれを実行して、彼自身と彼の小さな軍団によって戦闘の間ずっと示された賞賛すべき断固とした態度は完全に報いられました。バイユ将軍は彼を排除すべく繰り返された努力にもかかわらず左翼にある彼の陣地を維持し、夜9時には戦闘はオーストリア軍有利で終わりました。
 彼らの損害は約900人にのぼりました。敵の損害は確実により多かった筈です。
 19日、殿下はネッカー川を渡り、ウルムとの連絡線をより効率的に守るためフェルバッハに宿営しました。
 シュヴァーベン・クライスの分遣隊はネッカー川を去ってネッキンゲンの背後に退却し、フィリンゲンで合流したコンデ公とフレーリヒ将軍は17日時点でもそこにいましたが、現時点ではほぼ間違いなく後退を強いられたでしょう。
 ヴァルテンスレーベン将軍は今月14日に、その地の防衛が不可能なためフランクフルトから守備隊を引き上げました。彼はジュールダン将軍と2日間の部分的な休戦を結び、そこに残っているオーストリア軍所属のものを運び出す時間を稼ぎました。26日[16日?]、フルダ司教領を通って敵が彼の右翼を迂回するよう部隊を派出したのに気付き、閣下はヴュルツブルクへの退却を続け、彼からの最後の連絡が送られた時点では彼はその周辺に全部隊とともにいました。それゆえにマイン河のヴュルツブルク、ネッカー川のコンシュタット[カンシュタット?]とエスリンゲン、そしてドナウ河のジグマリンゲンが、現時点でオーストリア軍の主な陣地になっていると思われます。
 敬具
(サイン) C・クロファード
A Collection of State Papers Relative to the War Against France "http://books.google.com/books?id=OZ4BAAAAMAAJ" p62-63

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