カスティリオーネの戦いについて追加を少々。まずフィオレラ麾下のセリュリエ師団到着より前にメドラノ攻撃が行われたというVoykowitschの記述を裏付ける史料を発見した。マルモンの回想録だ。
「うまく振り向けられた激しい砲撃によって僅かの時間で敵の大砲の半分以上は破壊された。砲撃の一部を向けられた敵歩兵も我々の大砲で損害を蒙った。最後にマルカリアからやって来たセリュリエ師団が到着し、敵の左翼背後に布陣した。この時点で会戦の勝利は決まり、敵は大慌てでミンチオ川へ退却しそこを再渡河した」
Memoires du duc de Raguse de 1792 a 1832, Tome Premier"http://books.google.com/books?id=9Y2Zs5DabrgC" 210
彼の認識ではセリュリエ師団は自分たちが攻撃を始めた後に到着したことになっているようだ。これは前にも紹介したボナパルトの報告書で「フィオレラ将軍が指揮するセリュリエ師団が敵の左翼を攻撃するのを見た時点で、私は平野の真ん中にある敵の堡塁[メドラノ丘]を攻撃するようヴェルディエ参謀副官に命じました」(Correspondance de Napoleon Ier"http://books.google.com/books?id=uFYuAAAAMAAJ" p524)とあるのとは前後関係が異なる。
一方、Martin Boycott-Brownはセリュリエ師団の到着の方が早かったと見ているようだ。彼によると、フランス軍の左翼にいたジュベールは「9時に我々の右方でマスケット銃の銃声と砲声が聞こえた。ボナパルトが私のところに走ってきて『到着したセリュリエが攻撃しているのが見えるか? そなたはもう交戦していなければいけない。猟兵とともに敵の中央へ向かえ』と言った」(Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p400)と記している。
また、命令を受けたヴェルディエは「[攻撃は]2ヶ所で始まった。左翼では第51半旅団に支援された第17軽半旅団が、そして右翼では第4半旅団と軽砲兵、さらにボーモン将軍麾下の騎兵によって行われた」(p400)と記しているそうだ。左翼のジュベールと右翼のヴェルディエの攻撃タイミングが同じだとしたら、フランス軍の攻撃はセリュリエ師団が到着した後と考えてもおかしくはない。Boycott-Brownは攻撃開始を午前10時だとしている。
結局のところ答えはよく分からない。当事者の発言が矛盾するのはこの手の話では珍しくないし、どの時点をもってセリュリエ師団が到着したと見なすのかによっても違いが生じそう。時間を置いて書かれたマルモンの回想録より、戦闘から間もない時期に書いたボナパルトの報告書の方が正確だと考えることもできる。もっと多くの史料がないと判断を下すのは難しいだろう。
で、これからが本題。ボナパルトの報告書に出てきた「2人のルクレール」のうち、どちらが後にポーリーヌと結婚するのか、という質問の回答を記しておこう。答えは「参謀副官の方」である。
確認しよう。まずボナパルトは報告書の中で、マセナが敵の右翼を攻撃した時「第5半旅団の先頭に立ったルクレール参謀副官が第4半旅団を助けるため行軍しました」(Correspondance de Napoleon Ier, p524)と記している。一方、騎兵を率いていたルクレールについては「第10猟騎兵連隊と、同連隊の大佐である市民ルクレールも同様に、その名を上げました」(Correspondance de Napoleon Ier, p525)としている。
最も手っ取り早いのは、この時点で第10猟騎兵連隊の大佐(つまり連隊長)だったのが誰かを調べることだ。こちら"http://www.napoleon-series.org/military/organization/c_chasseurs.html"を見ると1796年8月時点で同連隊を率いていた人物の名はピエール=ジャン=バティスト・ルクレール=ドステン。1741年生まれで94年7月に同連隊の大佐となり、96年9月に准将へ昇進している。カスティリオーネの戦い当時は54歳であり、さすがにポーリーヌの夫になるには無理がありそうな年齢だ。
Georges SixのDictionnaire Biographique des Generaux & Amiraux Francais de la Revolution et de l'Empireによるとルクレール=ドステンは革命前からずっと騎兵一筋だった生粋の軍人で、カスティリオーネ後もイタリア各地を転戦し、さらにボナパルトについてエジプトまで行ってそこで1800年に病死したらしい。ポーリーヌと結婚したルクレールも死因は病死だったが、死んだのはエジプトではなくサン=ドマング。つまり、カスティリオーネで騎兵を率いていたルクレールは、「あのルクレール」ではなく別人である。
となるともう一人のルクレール、つまり第5半旅団の先頭にいた参謀副官の方が我々の探している人物である可能性が高い。Sixの本によると、ヴィクトール=エマニュエル・ルクレールは1794年に参謀副官大佐になっており、96年8月5日のカスティリオーネの戦いにも参加していた。階級も同じだし、戦場にいたことも分かっている人物。つまり、騎兵ではなく歩兵部隊を率いていたルクレールこそ「あのルクレール」だったのである。
そもそもルクレールの戦歴を見ると、騎兵であった期間は極めて短い。1772年生まれの彼は91年に志願兵大隊に参加したのが最初の軍歴。92年12月1日に第12騎兵連隊に転属しているが、そこにいたのはほんの2ヶ月ちょっとで、93年2月5日にはイタリア方面軍の参謀副官になっている。漫画ではいつもユサールの制服を着用しているが、実際に彼がユサールであったことは一度もない筈だ。マルソーのようにやはり歩兵出身のくせにユサールの制服を着ていた人物がいることは確かだが、ルクレールはこちら"http://fr.wikipedia.org/wiki/Charles_Victor_Emmanuel_Leclerc"を見てもそうした服は着用していない。ルクレール=騎兵というのは、漫画ならではのフィクションと思っておいた方がいいだろう。
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