無職ブオナパルテ

 軍人としてのナポレオンのキャリアにおいて1794年戦役ほど無視されているものはないと前に述べた。より正確に言うなら1795年のヴァンデミエール13日(10月5日)より前の時期についても、知られていない部類に入る。たとえばこちらの動画ではトゥーロンの後についてはテルミドールの際にナポレオンが逮捕されたことと、その後で予備役に編入されたことくらいしか触れていない。
 もちろん日本語wikipediaも同様で、動画とほぼ同じ内容に言及している程度だ(動画の方がwikipediaを参照した可能性もある)。フランス語wikipediaも内容の乏しさはさして変わらず、追加情報としてはテルミドールの直前である1794年の7月27日にナポレオンがパリに戻ったと書かれている話だとか、8月9日に南仏アンティーブで逮捕された後にまたパリに戻ったこと、さらに1795年にトルコへの派遣を希望したことなどがあるくらい。
 しかし困ったことにこれらの記述は正確性に欠けているし、そもそも明白に間違っている内容も含まれている。これらの文言を額面通りに受け取るなら、ナポレオンはテルミドール後は現役から外され、翌年秋に復帰するまでパリでずっと無聊をかこっていたかのように読めてしまうが、実際はそんなことはない。wikipediaが当てにならないという実例をまた増やすことになるが、いくつか確認しておこう。

 まず1794年7月にナポレオン(当時はブオナパルテ准将)がパリに戻ったというフランス語wikipediaの言及だが、これは単純に嘘だろう。彼はその2週間前にイタリア方面軍の派遣議員の命令でジェノヴァへ送り込まれており、そこでの任務を果たした後に7月27日に司令部のあったニースへと戻っている。パリへ、ではない。派遣議員の命令についてはBiographie des premières années de Napoléon Bonaparte, Tome Secondのp278-280に採録されているし、その前後に彼がどこにいたかはItinéraire général de Napoléon Ierのp279に載っている。それによれば7月16~21日にジェノヴァにいた彼は、23日から4日間は前線に近いガレッシオにいて、27日にニースへ戻ってきたそうだ。
 ナポレオンがこの時期、南仏にとどまってパリにいた様子がないのは、ニースに戻った1週間ほど後の8月4日に彼がジークの宿営地から手紙を書いていたことからもわかる(Biographie des premières années de Napoléon Bonaparte, Tome Premier, p328-329)。そんなに短期間で南仏からパリへの往復はできない。ナポレオンがパリに戻ってきたとでたらめを述べているのは、wikipediaの脚注を見る限りOctave Aubryのようだ。彼がナポレオンに関する本を出版したのは、こちらで調べた時は1889年だった。何度も書いている通り、当時はナポレオン戦争研究華やかりし時代であったが、研究が盛んにおこなわれていたということは玉もあるとともに石も多かった時代と見るべきだろう。
 また彼がテルミドール後、8月の12~20日にかけて南仏アンティーブにあるキャレ砦に投獄されていたのは事実だが(Itinéraire... p279)、同月24日は解放されてニースに戻っているし、続いて9月に行われたデゴ方面での作戦を彼が立案したと見られることも前に述べた通りで、実際に彼は軍についてロアーノからカイロまで移動している(Itinéraire... p280)。予備役に放り込まれて現場から外されたどころか、最前線で活動していたわけで、wikipediaの記述が雑すぎることがよくわかる。
 デゴの戦い終了後もしばらくブオナパルテはイタリア方面軍砲兵指揮官として活動を続けており、10月には前進してきたオーストリア軍に対処すべくボルミダ川沿いに改めて部隊を動かしている。彼の仕事が変わったのは同年12月になってからだが、ここでも別に予備役に移されたわけではなくコルシカ遠征のための砲兵の準備を任されていたことがわかる(Itinéraire... p281)。
 コルシカは1794年に英軍の攻撃を受けた。守備隊の指揮を執っていたラコンブ=サン=ミシェルは、1794年春に英軍の隙を見て救援を求めるために本土へと戻ったのだが、その際に彼はサリセッティやブオナパルテ将軍とも顔を合わせたようだ。コルシカ出身である彼らはコルシカに残った愛国者(フランス派)からはどうやら憎悪の対象になっていたようで、自分たちが苦労しているのにあいつらは本国でのうのうとしていると思われていたらしい(Bonaparte et son temps, Tome Deuxième, p464)。
 結局、フランス軍の救援は間に合わず、コルシカの拠点は次々と陥落していった。イタリア方面軍はピエモンテやオーストリアとの対決に同年秋まで手を取られ、その後になってようやくコルシカ遠征に向けた準備を始めたのは上に述べた通りだ。12月には派遣議員が遠征の準備が整ったとの手紙を書いているが(p469-470)、実際には制海権を確保していない状態ですぐに遠征を始めるわけにはいかなかった。ようやく1795年2月に兵が乗船し、3月3日にはブオナパルテや幕僚たちも船に乗り込んだが(p474)、その後になってフランス艦隊が英艦隊に敗北し、遠征は中断された。
 そしてこの後、3月27日になって、ようやくナポレオンの処遇に関する新しい話が出てくる。以前コルシカの指揮を執り、この時には公安委員会のメンバーになっていたラコンブ=サン=ミシェルが、ブオナパルテ将軍を西方軍の砲兵指揮官に転任させるよう命令を記している(p475)。この時期、フランス南部の軍にはコルシカ出身者が数多くいてそのことに不満を抱く声があったこと、ブオナパルテ自身は序列で言うと139番目の将官であり、多すぎる将官を減らす際に「野心的過ぎるし昇進のためのたくらみが目立つ」(p476-477)といった理由でターゲットにされたそうだ。
 ただし、このあたりの細かい日付は文献によって違いがある。Bonaparte et son tempsにはこの命令がマルセイユに到着したのは4月5日とされている(p475)のに対し、Itinéraire...はフロレアル18日(5月7日)という日付を示している。Biographie... Tome Premierでは4月21日にそうした命令を受け取り、22日にパリへと向けて出発したことになっている(p363-365)。正直これらのうちどれが正解なのかはわからないが、いずれにせよブオナパルテが1795年の春までは南仏にとどまり、その大半の期間において軍の実務に携わっていたのは間違いないだろう。
 ブオナパルテがパリに到着した時期についても、5月10日説(Bonaparte et son temps, Tome Troisième, p1-2)、5月20~27日の間説(Biographie... Tome Premier, p375)、5月25日説(Itinéraire... p283)などがあり、詳細は不明だ。Itinéraire...によれば彼は6月13日に西方軍の歩兵旅団長に任命されたが赴任せず、8月18日からは地理局に配属されでそこで作戦立案などを手伝っていたことになる(p284-285)。彼を予備役に編入する命令が出されたのはようやく9月15日だったそうで、つまり彼が無職に追い込まれていたのはそこからヴァンデミエールまでの20日ほどしかなかったわけだ。

 以上、テルミドールからヴァンデミエールまでにナポレオンが何をしていたかを簡単にまとめた。彼はその期間の多くを南仏で軍務に就いており、予備役に編入された時期は極めて短かったことが分かる。しかしながら多くのwikipediaではそうした基本的な流れさえ把握できない状態であり、これほどの有名人でもこの時期については史料がろくに見当たらない状態であることがわかる。とはいえそれは各wikipediaの雑さの言い訳にはならない。少なくとも英語wikipediaではコルシカ遠征の話や地理局への配属には触れられているのだから、そちらを参照する手もあったはずだ。
 ナポレオンの人生全体から見ると、この時期はちょっと踊り場にいた程度の意味しか感じられないのは仕方ない。でもそれはやはり後知恵に基づく分析であり、学校の授業で軽く流すのは当然だとしても、やたら詳細に書き込まれているようなネット媒体ではもう少しきちんとした情報をまとめてもらいたい気もする。いや別に日本語wikipediaにはそこまで期待はしていないが、フランス語の方はもうちょっと何とかならなかったんだろうか。マイナーな人物ならともかく、世界史上でも屈指の著名人でこの状態というのは残念至極。歴史学については予測可能な仮説を作れとの声があり、「再現性問題」を指摘している人もいるが、世間一般における歴史認識の(悲惨な)現状を見る限り、それ以前に「何が起きたのか」をきちんと見定める方が重要ではないかと思う。
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