1795年ライン 追撃5

 1795年のライン戦役に関するSchelsのDie Operazionen der Oestreicher am linken Rheinufer im Spätherbst 1795(p159-196)の続き。地図は今回もこちらのReymann's Special-Karte(20万分の1)と、Old Map OnlineにあるMesstischeblattの2万5000分の1地図などを参照のこと。
 クレルフェの主力がマンハイム対岸のピシュグリュを押し込んでいた同じ11月14日、クライとナウエンドルフはフランス軍の最左翼、フランケンシュタイン、ホッホシュパイアー、カイザースラウターンに布陣しているラボルドとグーヴィオン=サン=シール師団の陣地を偵察したが、戦闘は行われなかった。14日から15日にかけての夜間に、ピシュグリュはムッターシュタットを経てレーバッハ(シファーシュタットなどを通っている)の背後に下がった。困難な地形やフランス軍による橋の破壊、夜の暗さによって、フランス軍の退却はオーストリア軍に妨げられることなく実行された。この日、フランス軍が被った損害について彼らは公表していない。一方、オーストリア軍は合計して800人近くの死傷者を出した。
 15日と、同日から16日に書けての夜間、ピシュグリュはさらに兵をレーバッハから遠ざけた。ドゼーのみがこの小川沿いにとどまり、第5、第8、第9、第10師団はシュパイアーバッハの背後に布陣し、ピシュグリュはノイシュタット(ノイシュタット=アン=デア=ヴァインシュトラーセ)に司令部を置いた。フランス軍の退却によってマンハイムの左岸は完全に孤立した。
 マンハイムの指揮を執っていたモンテギュは14日夜のうちに左岸の橋頭堡から兵を引き揚げた。ラトゥールは15日にこの橋頭堡を占拠し、オット将軍はレーバッハとラインの合流点からムンデンハイム、ラインゲンハイムを経てダンシュタット(ムッターシュタット西)まで哨戒線を敷いた。この前衛部隊を支援する部隊がムッターシュタットとホッホドルフ(ホッホドルフ=アセンハイム)に配置された。クレルフェはクライに対し、ダンシュタットからテュルクハイムまでを占領するよう命令。オットとクライはしばしばレーバッハを越えて偵察部隊を派出した。
 15日、クレルフェはナウエンドルフに対し、攻撃部隊の右側面を守るため監視部隊の第2前衛部隊でカイザースラウターンを占領するよう命令した。クライの部隊の分遣隊を率いるエルスニッツがテュルクハイムからカイザースラウターン方面に向かった。同日、ナウエンドルフの部隊はオッターベルク(カイザースラウターン北方)から、エルスニッツはフランケンシュタインからトリップシュタット方面へ、それぞれフランス軍の前衛を追い払った。この2つの部隊は16日にホッホシュパイアーで合流。サン=シールとラボルドはカイザースラウターン地域から撤収し、ナウエンドルフがそこを占領。敵を追撃し、グラン(カイザースラウターン西方を北へ向かうナーエ支流)とエアバッハ(ホンブルクを経てブリースへ流れ込む川)の線に哨戒線を敷いた。
 カイザースラウターン喪失によってシュパイアーバッハの背後に布陣しているフランス軍の左側面が危うくなった。そのためピシュグリュは16日から17日にかけての夜間にそこから撤収し、クヴァイヒ河(ランダウからガーマースハイムへ流れる川)の背後に下がった。ここにはタポニエの第4師団と、第5、第8、第9師団が並び、ラボルドはアルバースヴァイラー(ランダウ北西)からアンヴァイラーを経てヴィース=ラウター(ラウター河支流でダーンなどを流れている)までに布陣。サン=シールはロートアルベン(ピルマーゼン北東)からタルフレッシェン(タライシュヴァイラー=フレッシェン)、デルフェルトを経てツヴァイブリュッケンまで戦線を敷いた。左翼をカバーしたのはピルマーゼンの要塞で、サン=シールはここに司令部を置いた。中央にはランダウ要塞があり、右翼は多くの水路、溝、堤防が入り乱れている地形にドゼーの部隊を前衛として配置し、防衛に当たった。
 クライの前衛部隊は17日夜明けにフランス軍を追撃し、37両の弾薬車、7両の砲車を奪い、150人の捕虜を得た。プフリムからクヴァイヒに至る一連の戦闘(11月10~17日)におけるピシュグリュの損害は、合計8000人、大砲22門、弾薬車100両に及んだ。

 続いてSchelsが書いた1795年のライン戦役最終章に当たるのが、こちらに掲載されたDie Operazionen der Oestreicher am linken Rheinufer im Spätherbst 1795(p145-179)だ。冒頭でまずクレルフェが16日までに行った攻撃軍の再編に伴う新たな戦闘序列が紹介されている(p146)。それによると前衛部隊はクライ、主力は右翼がヴァ―ネック、左翼がツェーントナーとリリエン、中央をシュターダーとコロレードが指揮しており、ラトゥールは予備となっている。この時点でクライはノイシュタットへ、オットはシュパイアーへ前進するよう命令を受けていた。
 ピシュグリュが11日にフランケンタールで行った戦いに関する報告は、18日にパリに到着した。総裁政府はマンハイムを救うため、ジュールダンに対して遅滞なくピシュグリュを支援するよう急ぎの命令を送った。だがサンブル=エ=ムーズ軍は彼らを十分に早く助けられるほど近くにはおらず、クレルフェがピシュグリュに対する作戦を進めることを彼らは止められなかった。
 17日、シュパイアー河沿いでのオーストリア軍の攻撃は以下のように進んだ。シュパイアーにいたオットの旅団は左翼の前衛を形成し、クライの前衛はノイシュタットに到着した。左翼ではラトゥールがラインゲンハイムへすすみ、右翼ではヴァ―ネックがマーラッハバッハのルパーツベルク高地に向かった。連合軍の哨戒線はシュパイアーバッハの南方、ライン近くのハイリゲンシュタインからシュヴァイゲンハイム(シュヴェゲンハイム)、ゴマースハイム、アルトドルフ、エデンコーベン、ザンクト=マルティンを経てザンクト=ランブレヒト(ランブレヒト)まで伸びていた。
 同日、ナウエンドルフはグラン左岸にある小さな町マイゼンハイム(バート=ソバーンハイム南方?)を占領し、強力な分遣隊をカイザースラウターンからツヴァイブリュッケン方面とアンヴァイラー峡谷方面に押し出した。ラントシュトゥール(カイザースラウターン西方)やホンブルク、オトヴァイラー(ホンブルク北西)あたりの町は抵抗なしに占領でき、偵察部隊はツヴァイブリュッケン、グラン左岸のクーゼル、さらにはブリース対岸まで進出した。一部はノイ=ホーンバッハ(ツヴァイブリュッケン南方)、ブリースカステル(ツヴァイブリュッケン西方)、ザールブリュッケン、ザールルイにまで接近し、フランス軍の2つの軍を一段と分断しようとした。左側面を脅かされたサン=シールは左翼をブリース河とザーレ河まで延ばし、ホーンバッハ、ブリースカステル、ザールブリュッケンにも兵を配置しなければならなくなった。
 連合軍の偵察隊は18日、ピシュグリュからジュールダンへの手紙を運んでいた士官を捕らえた。そこにはピシュグリュが12日間ずっとジュールダンからの知らせを受け取っておらず、サンブル=エ=ムーズ軍の動きについて知らないと記されていた。またピシュグリュは兵力が不十分なためクヴァイヒ河の線を長く守れるかどうか疑わしいとも書かれていた。連合軍はアンヴァイラー峡谷へ向かうホッホシュテッテン(ホフシュテッテン、アンヴァイラー北西)も占領しており、ピシュグリュの左側面を脅かせる位置にいたため、クレルフェはさらに攻勢を続ける決断をした。彼はフランス軍をラウター河の背後に追いやり、ランダウ要塞を砲撃しようと考え、そのための様々な準備移動を即座に開始した。
 11月19日、ヴァ―ネックが前衛部隊の一部を率いてホッホシュテッテンに移動した。彼はナウエンドルフと合流し、アンヴァイラー(アンヴァイラー=アム=トリフェルス)を奪い、さらに前進してピシュグリュの陣地を背後から脅かすよう命じられていた。クレルフェはこの移動を支援するため、クライと主力軍にランダウとクヴァイヒ河畔での示威行動を行なうよう指示した。彼はこれらの部隊とともにホッホドルフ近く、マーラッハバッハの正面にある宿営地を出発。午後には兵を休ませるため、レーバッハとフランケンタールの間にある宿営地に3分の2の兵を移動させ、3分の1ずつ交代させるようにした。ラトゥールはオガースハイムとシュパイアの間に予備を宿営させ、さらにクレルフェはヴルムザーに対しラインを越えてピシュグリュの背後に陽動をかけるよう要請した。
 20日、オットがシュパイアーからラインに沿ってリンゲンフェルトまで偵察を実施した。彼はフランス軍をこの村から追い払い、ガーマースハイム近くの森まで追撃し、大砲を2門奪った。だがかなりの数の敵兵がリンゲンフェルト奪回のため向かってきたため、オットは後退し、邪魔されることなくシュパイアーまで下がった。同日、クレルフェはヴァルテンスレーベンに対し、監視部隊の左翼をできるだけ延伸することでナウエンドルフが安全な状態でアンヴァイラー方面で作戦できるよう命じた。同時にヴァルテンスレーベンは残る兵とともにナーエを越えてクロイツナッハからキルンへ、ビンゲンからシュトロムベルクへ前進し、この地に到着したジュールダンの兵を邪魔し、クヴァイヒ河畔での作戦が成功するまで彼らを遠ざけたままにするよう試みることになった。
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