ラグーサする

 マルモンは1814年にナポレオンを裏切ったとされている。それに関連して時々語られているのが、彼の称号であったラグーサという言葉がフランス語で裏切りの意味を持つようになったという話。この件は例えば英語wikipediaでも「この時[マルモンがフランスからウィーンへと亡命していた時]までに、『ラグーサ』という動詞は『裏切り』を意味するフランスでもよく知られた言葉になっていた」と触れられている。
 さらにフランス語wikipediaにも1814年の裏切りを紹介した後に「1世紀近くにわたって『ラグーサ』という言葉は(中略)裏切りを意味するようになる」と記されている。もちろんwikipediaの言うことであり、またどちらも具体的にそのような動詞が使われている例を一切載せておらず、その意味では丸ごと信じられる話ではない。もっと他に証拠はないのだろうか。
 ネット上の辞書を見ると、例えばこちらでraguserの英訳としてbetrayが紹介されている。あるいは2001年出版のHistorical Dictionary of the Napoleonic Eraには「raguserは裏切りを意味するスラングとしてフランス語に入った」(p185)と書かれている。もっと古いものとしては1938年の本に「19世紀初めにはraguserという動詞はマルモンの行為に従い『欺く、裏切る』という意味になった」(p163)と書かれている。さらに最も古い文献としては1839年出版のFrench Practical Teacherに「彼[マルモン]の名は人々によってフランス語化され、trahir(裏切り)の代わりにraguserと使われるようになった」(p163)との文章がある。
 とりあえず私が見つけ出した最も古い例はこの最後の本なんだが、いかんせん英語の文献であり、フランス語で本当にraguserという言葉が使われていたのかどうかわからない。それより新しい事例として1854年出版のAusgewählte Schriftenに「マルモンは皇帝にラグーサ公に任命されていたため、ほぼあらゆるリベラル系の新聞はraguserという言葉を裏切りの意味で使った」(p115)とも書かれているが、こちらも見ればわかる通りドイツ語文献。なぜかフランス語以外の方が古い使用例が見つかるわけだ。
 私がフランス語で見つけ出した最も古い事例は19世紀もかなり後半、1873年に出版されたGrand dictionnaire universel du XIXe siècleにある「街中ではラグーサの名から1つの言葉が作られた、欺くを意味するraguserだ」(p1228)というやつ。ただしこちらはマルモンの伝記を記した項目内に登場する文章であり、実際にraguserという言葉が使われていたことを示す辞書とは言い難い。一体このraguserという言葉は本当にフランス語の動詞として使われていたのかどうか、いくつか調べてみてもなかなかわからないのだ。

 このあたりについてヒントらしきものが載っているのがwikitionnaire。こちらにあるraguserに関する項目を見ると、裏切りの意味だとしたうえで4つの使用例が紹介されている。1つはHistoire du XIXe siècle, depuis les traités de Vienne, Tome Vingtièmeに載っているもので、こちらは1868年出版とフランス語の中で最も古い文献と言えそう。ただここで紹介されているのは1830年の七月革命時におけるマルモンの行動で、それに関連して「裏切り(raguser)」(p239)という言葉が使われている点には注意が必要だろう。マルモンが出てこない場面でこの言葉が利用されているわけではない。
 次が1903年に初版の出たAu soleil de juillet: (1829-1830)。「ラグーサしたものたちは恥を知れ、裏切り者をやっつけろ」というのがそのセリフだが、その前にナポレオンの戦場と並んでマルモンが敗北したアラピレス(サラマンカ)が登場しているため、これもマルモンを連想する場面での言葉と言える。さらにわからない読者のためにその後に裏切り者traitresという言葉も付け加えられているのを見るに、正直それほど人口に膾炙していた言葉には見えない。
 続いて1910年出版の戯曲L’Aiglonでの使用例を見ると、そこには「そなたがラグーサしたのを見逃すはずがない!」(p90)というセリフが出てくる。実はこれはナポレオンの息子であるライヒシュタット公がマルモンに向けて話している場面でのセリフ。つまりここでもマルモン個人に対して使われている言葉と見なせる。
 最後に紹介されているのがLa Revue hebdomadaireという雑誌に収録されているA Traverse l'Histoireという記事。そこには「少なくとも大臣たち、昨日までの顧問官たち、そしてラグーサしなかった将軍たち」(p706)という言い回しが登場する。ただしこれまた舞台は1814年の、まさにマルモンが裏切った直後のナポレオンについて語った文章であり、しかもragusaientという言葉はわざわざ太字で書かれている。一般的な言い回しではなかったからこそ、このような処理をした可能性がある。
 もう一つ注意してほしいのは、ここで紹介されている事例はどれ一つとして上に述べた英語やドイツ語の事例より古くない点だ。なぜか最初はフランス語以外で語られた「伝説」が、その後になってフランス語でも採用されるという事例は、ナポレオンがらみで他にも見かける。もちろん私が見つけられていないだけで、本当はもっと古いフランス語での使用例もあるのかもしれないが、他の言語で最初に広まった伝説が、後からフランス語に輸入された可能性も考えておいた方がよさそうだ。

 以上を踏まえて現時点で結論を出すのなら、「ラグーサする」raguserという言葉は実際にはめったに使われるものではなかった可能性がある。少なくとも19世紀の前半にはほとんど見つからず、後半になって増えてくるもののそれでも使用例はマルモンと直接間接に関連する場面にほぼ限られている。またその活用形を載せる場合には、あまりに一般的でない用語のためにわざわざ太字にするといった方法も使われている。要するにフランス人が日常的に使ったり見かけたりする言い回しではなかったのだ。
 とはいえ全く使用例がないわけでないところは興味深い。マルモンの裏切りに関連しそうな文章を書く際に、raguserという動詞を思い浮かべた人がそれほど多くはないものの一定数はいたことが示されている。日常会話で使うような用語ではないが、歴史について解説する際にちょっと触れてみたくなる「トリビア」の一種、という程度の位置づけだったのではなかろうか。
 例えば既に死語と化していると思うが、2019年に「タピる」という言葉が流行語大賞のトップ10に入っていた。あるいは2016年の流行語大賞である「神ってる」を思い浮かべてもいい。名詞を動詞的に使うのは「ググる」(英語でもgooglingなどと言われる)という言葉に代表されるように、ごくありふれた事象。問題はそれがどこまで広く使われているかであり、その意味では辞書に採用されているかどうかは参考になるだろう。
 ただし21世紀のネット辞書は簡単に更新できるため、そこに載っていても言葉として定着したと安易に判断は下せない。実際、「神ってる」「タピる」も簡単に採用例を見つけることができるわけで、後世の人間がこれを見たら「これらの言い回しは日本語に採用され定着した」と断言してしまうかもしれない。実際にはそうとも言い切れないはずなのに。
 一方、19世紀の新語・流行語はそう簡単に辞書には載らなかっただろう。それが定着し、多くの人が言葉として発するようになってから一定の時間をおいてようやく掲載されるに至るという手順が普通だったと思われる。残念ながらraguserはそういう扱いにはならなかったようだ。もしかしたら私が見つけた事例以外にも使用例があるのかもしれないが、全体の印象としては「新語や流行語と同じレベルの使われ方」に過ぎなかったのではないかという気がする。
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コメント

つね
思いついたのが、日本だと「本能寺する」という感じなんでしょうか。一般的ではないですが(というか今作ったので見たこともないですが)、意味は分かるというレベルで。

desaixjp
そんなイメージですかね。フランスでラグーサ公がどれほど有名かによるんでしょうけど、当時はそれなりに知られていたのではないかと。今だとそこまで有名かはわかりませんが。
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