看板の効能

 「ストーリーが世界を滅ぼす」読了。この本についてはこちらの書評でいろいろと紹介されているのだが、それによると陰謀論(作中では陰謀物語とされている)についての言及もあるそうで、そのあたりに実際には何が書かれているのか確認してみようと思ったのが理由だ。だが、こちらの期待したものとは少し違った。
 この本を読んで思ったのは、これは看板がどう描かれているかを説明した本だ、というもの。看板についてはこちらで書いた通り、つまり建前であり、あるいは口実と言ってもいいかもしれない。どういうタイプの看板を掲げれば大勢の人間が集まってくるか、彼ら彼女らを指嗾し、けしかけることができるか、そういう話をまとめたものであって、ではなぜその看板が多くの人を動員できるのかというメカニズムについては実はそれほど詳しく書かれているわけではない。
 いうなれば効能書きはあるが機序まではほとんど説明されていない薬箱、みたいな印象の本である。そういえば法華経については平田篤胤が「効能書きだけで薬がない」と言っているそうだが、この本はさすがに物語が持つ特徴についてはいくつか並べている。例えば広く受け入れられるストーリーには対立構造と道徳主義的な構造があり、またそれを成り立たせるために結末で運が果たす役割は極めて小さくなっている、といった話だ。この指摘自体には異論はない。
 というか、このあたりはむしろ読んでいて別の観点から納得した部分である。こちらでも記しているが、歴史書を読む際に「面白すぎる話」と並んで「筋が通っていてわかりやすい」話については本当かどうか注意した方がいいと私は思っている。前者はある意味で当然なのに対し、後者がなぜ胡散臭い事例になるのかと思っていたが、それが出来の良い物語にとって重要な要素であると言われると頷ける。この本の表現を借りるなら、悪役がクライマックスでバナナの皮に滑って死ぬのはダメな物語なのだが、現実の中にはそういうことも別に珍しくない。歴史が過去の事実を描くのならば、そうした運の要素を視野に入れない書物は歴史書としては失格と考えてもいいのかもしれない。
 閑話休題。この本ではストーリーが力を持つ理由として、それが感情を喚起する効果を持っているからだと述べている。ただし感情なら何でもいいわけではなく、怒り、不安、高揚など「活性化する感情」の方が、満足や絶望のような「不活性化する感情」につながるストーリーよりも、人々を動員する力を持っているのだそうだ。そして活性化する感情を呼び起こすには対立構造があった方がよく、その対立が必然的に道徳主義的な結末に向かうことを示すことで受け手を充足させるようになっているのだそうだ。
 でもこの本で説明されているのはこの辺りまでにとどまっており、これは私が期待していたものとは微妙にずれている。例えばなぜ「活性化する感情」が影響力の強い物語において必要なのかといった点だ。感情はヒトが暮らしてきた環境において進化的に適応的なヒューリスティクスだったのだろう、ということが考えられるのだが、そうした説明はこの本では論理立てて説明されてはいない。どうやらそうした分析は著者らが以前記したGraphing Jane Austinという書籍の方で詳しく説明されているらしいのだが、今作ではそういう部分はほとんどスルーしている。
 もう一つの道徳主義についても、例えば互いに協力し合うようにする一方でフリーライダーを排除することがやはり進化的に適応的だったのではないかと想像することも可能。しかしこの本では「悪い人間とは集団の利益より自分の利益を必ず優先する協調性のない人間」だと記してはいるものの、なぜ利己的で協調性のない人間が悪い人間と見なされるかについて進化心理学的な説明には踏み込まない。
 何より全くといっていいほど説明されていないのが、道徳主義的結末に至る過程でなぜヒトは偶然を排除した物語でなければ受け入れようとしないのかについて。別に悪人がバナナの皮で滑って死んだとしても、ヒトがそれを因果応報だと思って納得すれば問題ないはずだ。だがヒトは単なる運ではなく因果の糸を物語に求める。ヒトの持つ、原因と結果には必ずつながりがあるという思い込みが、一体どのようにして進化の過程で生まれてきたのか、そのあたりについての言及はほとんどない。
 無関係なものにつながりを見つけるのがフレイザーの唱えた呪術であり、それは陰謀論的思考法と共通しているという前提で行われた研究がある。だがこの本では陰謀論(陰謀物語)を呪術ではなく宗教物語と似たものとして紹介している。物語が偶然ではなく因果の「つながり」を重視しているあたり、フレイザー的な呪術や陰謀論的思考法と何か共通する進化的な根っこがあるかもしれないのだが、そうした言及はなされていない。この本がこちらの期待したものと違ったというのはそのあたりだ。

 なぜ違っているのか。それはそもそもこの本自体、ストーリー上のテクニック(例えばレトリックなど)を使って読者に「物語の語り手を絶対に信用するな」という物語を信用させようとしている本だからだ。例えば間接的で微妙なメッセージを示すことで物語の受け手自身に自分で意味を見出だせ、その意味を自分のものにさせるという物語の効果について、この本は「心理的にカッコーの托卵に相当することを行う」という比喩を使っている。なぜこの比喩なのか。「親が用意したクッキー生地を子供に型抜きさせる」という喩えを使ってもいいのに、どうして托卵という言葉を使用したのか。もちろんそうした比喩を使うことで、語り手を信じることに嫌悪感を抱くよう読者を誘導するのが狙いだろう。
 著者がこの本を書いた狙いは読者を感情的に説得する点にある。それを著者は隠そうとしていない。ただそのための方法としてエビデンスに基づいた論理的な説明は放棄し、物語の持つ力をできるだけ活用した方法を採用しようとしている。だからこの本は読みやすくはあるものの話にまとまりはなく、読み終わると何となく「物語って怖いんだね」という感想が出てくるような作りとなっている。私が期待しているような事実とエビデンスに基づいてロジカルに語ろうとしている本ではないのだ。
 もちろんそうした手法はレトリックを楽しむ分には優れているし、さすが人文系の学者だけあって作中で使われている比喩はなかなか面白い(例えばトランプに関する『脂肪だらけでメレンゲが頭に載った菓子』という表現など)。amazonのレビューを見てもかなり多くの評価がついており、つまり著者の狙いはそれなりに達成されているのだろう。だからと言ってこれを読めば物語の影響力から解放されるというわけでもないだろうが(そもそも著者自身、物語から毒を抜くのが不可能だと作中で認めている)。
 さらに勘ぐるなら、実は著者の狙いは物語の危険性を訴える、ように見せかけて本当は人文系の予算を増やすことにあるのかもしれない。これまた作中でも書かれている通り、米国でも予算の大半はSTEM系に投じられるようになっており、著者の属する人文系は足元で微々たる予算しか確保できなくなっている。こうした事態を改善するために、著者は物語の危険性を訴えた。物語が危険であるなら、その物語を研究し分析する人文系のノウハウを生かしてその危険に備えることが可能だ。だから人文系の予算を増やそうじゃないか、という風に物事が進むのを著者は期待しているのかもしれない。
 真面目な話、確かにロジックだけを教えてレトリックを教えないのはリスクがあるかもしれないとは思う。言葉は必ずしもロジカルな目的のためだけに使われるわけではない点は、レトリックを学んでおけば当然の事実として認識されることになるが、ロジックしか学ばない人にとっては意外に落とし穴かもしれない。かつてオウム真理教に多くの理系人材が嵌っていた点も、彼らがロジックには詳しくてもレトリックには初心だったからだとしたら、実は人文系を学ぶ必要性は一般に思われているよりも高いのかもしれない。もちろん今の人文系学者にレトリックの危険性を教える能力があるかどうかは別の問題として存在するが。
 そもそもそれ以前の問題として、学術分野のイデオロギーバイアスがかなり酷いことになっているのは、リベラルを自称する著者も認めている。例えば歴史学者ではリベラルと保守の比率が33.5対1にまで極端に偏っているし、人類学(42対1)、英語学(27対1)、社会学(27対1)も同様だ。ジェンダー研究、平和研究、アフリカーナ研究では共和党支持はゼロだそうで、だとするとそもそも学術分野においても事実とエビデンスに基づくロジカルな研究が行われていないのではという疑問が浮かぶのは避けられない。気候科学者コミュニティも圧倒的に左寄りだそうで、それが温暖化陰謀論をある意味で手助けしている。
 そして困ったことにこの本を読んでいると、著者自身もどうしようもなくストーリーの世界に生きている印象が強く感じられる。足元の「不和の時代」についてSNSの影響を過大評価している部分や、中国がストーリーテリングを通じて国民をかなりコントロールできると見ている点(上有政策、下有対策と言われる国なのに)、そしてディープフェイクの登場による情報の終焉(インフォカリプス)を恐れている部分など、著者は異様なほどに物語の力を恐れている一方、現実(具体的な物の世界)を過小評価しているように見える。
 つまり著者自身が物語を恐れるあまり、足元で物語が及ぼしている影響力を過大に考えているように思えるのだ。それに対し、実際には足元の不和は単に経済的格差がもたらす不満の増大が表に出ているにすぎず、それが収まれば物語の及ぼす影響も限定されるのではないか、というのが私の考え。看板がどんなに効果的でも、店に売っている実際の品物がゴミばかりなら客はやがて来なくなる。看板の悪影響を批判するのは当然だが、必要以上にそれを恐れるのはむしろ人々に向けて看板の重要性を実態以上に過大に見せることにつながるのではないかとも思う。確かに今の時代は看板がやたらと目立つ時代だ。でもやはりそれは看板にすぎない。
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