1795年ライン マインツ2

 SchelsのDie Erstürmung der französischen Linien vor Mainz durch die kaiserliche Hauptarmee unter Feldmarschall Graf Clerfayt am 29 Oktober 1795(p145-197)の続きだ。地図は今回もこちらのReymann's Special-Karte(20万分の1)と、Old Map OnlineにあるMesstischeblattの2万5000分の1地図、あとは前回紹介した地図などを参照。
 攻撃に当たるオーストリア軍の戦力は主力3個縦隊、予備1個縦隊、そしていくつかの小規模な縦隊で構成されていた。これらの部隊の戦闘序列はp157-165に載っている。まずウィリアムズ少佐が指揮する砲艦部隊。全部でユサール20騎を含む1000人弱の戦力で、彼らはライン右岸ギンズハイム付近に集まった。7隻の砲艦といくつかの他の艦船がこれらの兵を乗せてラインを遡り、ラウベンハイムより上流で上陸させる。彼らは上陸地点を確保し、工兵が塹壕を掘り始め、それからボーデンハイム村を攻撃して占領することになっていた。
 第1主力縦隊はマインツ総督のノイが指揮を執った。前衛部隊はクネーゼヴィッチが率い、第1分遣隊と第2分遣隊に分かれていた。主力部隊は3つの部隊に分かれており、第1部隊をヴォルケンシュタイン、第2部隊をザルム、第3部隊をナウエンドルフがそれぞれ指揮した。合計戦力は9200人ほどで、900騎の騎兵が含まれていた。この部隊には砲兵予備から3個中隊が配属され、前衛部隊は哨戒線の背後ヴァイセナウ村に、主力はヴァイセナウ堡塁の背後に集められた。前衛部隊の第1分遣隊は道沿いに、第2分遣隊は丘の境に沿って前進する予定で、彼らの任務はラウベンハイム村と村の隣にある塹壕を掘られた丘を奪うことにあった。
 第2主力縦隊の指揮はシュターダーとブルクラッハが担った。こちらの前衛部隊はクネーゼヴィッチが指揮を執り、主力の第1部隊はシェレンベルク、第2部隊はリーゼ、第3部隊はグルーバーが率いた。総戦力は7900人強で、900騎強の騎兵がおり、2つの砲兵中隊が配属されていた。前衛部隊はマリエンボルン正面の塹壕に配置され、聖十字架教会の高地を攻撃することになった。主力はエリザベート堡塁からツァールバッハ堡塁までに布陣し、前衛部隊が聖十字架教会のある堡塁を奪うや否や前方へ突進してヘーヒツハイムの丘を強襲する予定だった。第1主力部隊の幕僚にはツァッハ、第2主力部隊にはシャステラーという、後に各所で活躍する参謀士官が配属されていた。
 第3主力縦隊はコロレードが指揮しており、前衛部隊はメルカンダンが率いた。主力の第1部隊はシュペヒト、第2部隊はシュメルツィンクが指揮を執り、兵力は7400人強、騎兵を3100騎以上含んでいた。こちらには砲兵2個中隊と騎馬砲兵1個中隊が付属。前衛部隊は夜の間にツァールバッハに集まり、それからブレッツェンハイムを奪って敵中央に示威行動を行なうことになっていた。主力第1部隊の一部はその右翼に、別の一部と第2部隊の騎兵は左翼に展開し、後者はフランス軍の哨戒線を攻撃する予定だった。シュメルツィンクが率いる残りの騎兵18個大隊はライン右岸にとどまり、命令が来るまでそこで待つ予定だった。
 他の小規模縦隊の1つはクラインが指揮を執る800人で構成され、ハートベルゲに集まってゴンスハイムに陽動をかける。モンバッハ少佐の縦隊は1000人弱で、ハートミューレの背後にいてモンバッハに対する陽動を担当する。ホーエンローエ=インゲルフィンゲンの部隊1300人弱は当初、右岸のニーダー=ヴァラウフからビンゲンの間に配置されていたが、それから渡河をして敵最左翼に当たるブーデンハイムへの陽動攻撃を仕掛けることになったため攻撃部隊の中に入った、とSchelsは記している。
 予備部隊の中からはヴァ―ネックとヴェルシュ率いる約2000人が要塞に入り、必要ならすぐ支援に前進できるよう準備を整えた。これらの兵力の合計は3万300人で、5100騎強の騎兵が含まれていたという。クレルフェは全軍の指揮を自ら執ることになり、ヴァルテンスレーベンが準備段階も戦いの最中も彼の傍にいて彼を助けた。またコロヴラットが砲兵を任せられた。
 10月28日から29日にかけての夜間、全兵士が動き出し、攻撃開始地点に布陣した。各連隊は橋を渡って町を通り抜けた。夜間だがかなり明るかったようで、この移動はそれに大いに助けられたという。一方で彼らの姿は町によって敵からは隠されていた。兵たちはできるだけ静かにするよう命じられており、また敵陣から吹き付ける強い西風のおかげで彼らの音は消された。フランス軍は攻撃が迫っているとは全く思わず、結果として完全に奇襲を受けた。
 夜の間にいくつかの新しい命令が下された。各主力縦隊の第1部隊は前衛と一緒に前進し、残る部隊はその後に予備として続くことになり、第1部隊は作戦の成功がかかっている迅速さを邪魔するだけの予備砲兵については背後に残すよう命じられた。さらに改めて火器に弾薬を装填しないよう命令も下され、主力第1縦隊の主力第1部隊に属していた槍騎兵4個大隊は前衛部隊を増援することになった。
 10月29日午前1時、クレルフェはヴァイセナウ堡塁に到着し、各縦隊の編成に必要な最後の命令を下した。午前5時頃、主力部隊の前衛は哨戒線へと前進し、そこから適当な距離の背後にいた各縦隊は合図があり次第行動できるよう準備をした。モンバッハへの砲撃の音が、移動を始める合図となっていた。以後Schelsは会戦中のタイミングごとに各縦隊がどう動いたかについて描写している。

 まず最初の行動だ。ウィリアムズの砲艦部隊は28日夕方に7隻の砲艦と7隻の輸送艦をマインツ背後のライン左岸に集めた。彼らは夜10時に極力静かに右岸に向かい、ノンネン・アウの中州の背後を通ってギンズハイムに遡った。そこで歩兵7個中隊とユサール20騎を乗せ、さらにモルツベルガー・アウ、ヤコブスベルガー・アウと2つの中州を通り過ぎ、ベンツェルス・アウの付近に到着したところで、ヤコブスベルガー・アウの先端を回り込んで河を渡った。
 29日午前4時、彼らはマークホフ(不明)とナッケンハイムの間、ラインの堤防の背後に上陸した。フランス軍の哨兵はライン河畔を監視しておらず、上陸は邪魔されることも、見つかることすらなかった。それから7隻の砲艦はラインを横切るように並び、遠方からだと連合軍が夜の間にラインを渡る橋を架けたように見せかけた。連合軍が邪魔されることなく大軍を彼らの右側面に突入させたと勘違いさせるのが狙いだった。砲艦はその位置で錨を下ろし、一方で輸送船は下流の上陸地点近くに停泊した。
 主力第1縦隊はクネーゼヴィッチの前衛がヴァイセナウを経てラウベンハイムへと行軍し、それを縦隊の全騎兵が支援した。ノイは自ら主力部隊を率いてマインツから出撃し、彼らをヴァイセナウの塹壕前方で3つの隊列に組ませた。主力第2縦隊ではシュターダーがマインツとマリエンボルン塹壕から出撃し、塹壕とエリザベート堡塁、聖十字架教会の廃墟の間に布陣させた。その右翼はヘーヒツハイムからツァールバッハまで流れる小川にまで延伸していた。
 主力第3縦隊のコロレードは前衛部隊に対し、ツァールバッハを経てブレッツェンハイム方面へ前進するよう命じた。主力は複数の門を通ってマインツから出撃。歩兵の一部は要塞とツァールバッハ村の間にある高地の右側をツァールバッハ堡塁へ、別の一部はマリエンボルン街道の左を進み、後者には騎兵の一部も追随した。他の部隊はヘーヒツハイムからツァールバッハを経てハートベルクの麓まで伸びる峡谷のうち、アウエルスホフとダールハイムの修道院に布陣した。
 クラインの縦隊はマインツを出てハートベルクに布陣。モンバッハの縦隊のうち1個大隊は同じ門から出てハートベルクの右翼、ハートミューレの背後に配置され、2個中隊はさらに右翼のライン左岸に向かった。
 午前5時過ぎ、インゲルハイマー・アウの砲台から攻撃の合図となる砲声が鳴らされた。彼らはモンバッハを激しく砲撃し、直後にはハートベルゲの大砲もその村に向けて砲撃を始めた。モンバッハは彼の部隊とともに前進し、村にこもるフランス軍を3方向から攻撃してそこを奪った。彼らが村に近づくや否や、ハートベルゲとインゲルハイマー・アウからの砲撃は完全に止まった。味方の兵を傷つけないためであり、同時にその静寂もこれまた味方への合図となっていた。
 この最初の陽動攻撃は限定的な成功であったが、期待したような効果をフランス軍にもたらした。モンバッハへの砲撃が始まった時、彼らの注意はそちらに引き付けられ、右翼からの6個大隊と予備騎兵の分遣隊がすぐさま支援のためこの地へと送られた。左翼ではルノーがライン左岸のブーデンハイムからビンゲンまで展開していたコルドンの兵の大半を急いで呼び寄せ、川沿いには弱体な哨戒線のみが残された。
 午前6時の鐘が鳴った時、インゲルハイマー・アウから立て続けに3発の砲声が鳴り響いた。この2つ目の合図はモンバッハの奪取を知らせ、全部隊に対して主要攻撃を始めるよう告げていた。
 以下次回。
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