1795年ライン マインツ1

 今回からSchelsがこちらに掲載したDie Erstürmung der französischen Linien vor Mainz durch die kaiserliche Hauptarmee unter Feldmarschall Graf Clerfayt am 29 Oktober 1795(p145-197)に話を移そう。地図は引き続きこちらのReymann's Special-Karte(20万分の1)と、Old Map OnlineにあるMesstischeblattの2万5000分の1地図を参照、するのに加えてこちらこちらこちら、そして地図というよりは絵図だがこちらも参考になるだろう。
 クレルフェはダルムシュタットとナッサウ付近で冬営に入ろうとしている、という噂を流した。少なくともヴルムザーがマンハイムを奪うまで新たな作戦は進めないだろう、というのが一般的な見解になるところまで、こうした工作が行われたようだ。一方で彼は10月27日に秘密裏にマインツを訪れ、フランスの封鎖部隊がいる左岸の陣地を気づかれることなく偵察した。そして夜の間にヴィースバーデンに戻ると、28日に攻撃計画を書き上げた。この攻撃が成功すればマインツは完全に解放され、さらにマンハイムをライン左岸から攻撃するのも可能になる。
 フランス軍がライン左岸でマインツ封鎖のための塹壕を掘り始めたのは、1794年の10月後半まで遡る。この封鎖線の右端はラインから少し離れたラウベンハイム高地の東端にあり、それから稜線に沿ってほぼ真西、ヘーヒツハイムからマリエンボルンの先まで延び、そこから北向きに転じてドライスとフィントハイム(フィンテン)の近くをゴンセンハイマー川へと達していた。さらにそこから塹壕を掘られたゴンセンハイムの村を経て左翼はモンバッハ前の丘まで延び、そことブーデンハイム村の間をラインまで下っていた。封鎖線は湾曲も含めて長さ2ドイツマイルに達していた。
 この主要封鎖線には右翼にも中央にも独立した防御施設はなく、背後に柵も敷かれていなかった。以前はゴンセンハイマー川に沿って敷かれていた防衛線は、4月のオーストリア軍の攻撃に奪われていたため、ゴンセンハイムの背後からモンバッハの上を通ってブーデンハイム方面に延びる伐採された高地にはつながっていない2つの堡塁が建造され、一部は落とし穴で守られていた。右翼と中央の正面には多くの個別の堡塁が建造され、それらは3列の落とし穴によって守られていた。
 特にラウベンハイムとヘーヒツハイムの中間にある最も高い地点の前には強力な塹壕が掘られ、ヴァイセナウや廃墟となった聖十字架教会跡方面からの攻撃に対して守られていた。中央の正面、ブレッツェンハイムに面したマリエンボルンとゴンセンハイムの間にも新たな防衛施設が建造中だったが、攻撃が行われた時にはまだ完成しておらず、防衛もなされていなかった。この封鎖線の間には多くの小さな堡塁があり、マインツ要塞に対する哨戒線を支援する役目を果たしていた。
 この陣地は防御側に有利で、正面からの攻撃が難しかった。またフランス軍はあちこちに堡塁や落とし穴を配置し、一部には地雷も埋めていた。また多くの大砲も配備されており、その半数は重砲兵だったという。一方、フランス軍はこの長い封鎖線を守るには兵力が不十分だと考えており、そのため兵力の全てを全砲台に配置して予備の歩兵は置かず、騎兵のみが予備として使える状態だった。加えて主要な封鎖線の背後には強力な抵抗が可能な全方位からの攻撃に備えた防御拠点がなく、攻撃側にとっては1ヶ所でも突破すれば大きな抵抗はないと予想できた。どこであれ強力な縦隊が主要線を越えた時点で、フランス軍は全戦線を放棄せざるを得なかった。
 封鎖線を占領していたのはラン=エ=モーゼル軍の左翼、クルト、グーヴィオン=サン=シール、マンゴー、ルノーの4個師団だった。当初この封鎖部隊の指揮官はシャールで、彼が10月初旬に呼び戻された後は暫定的にサン=シールが指揮を執っていたが、17日にはピシュグリュが再びシャールを指揮官に戻した。しかし彼は辞任を申し出ており、この任にはサン=シールが適任だとしていた。攻撃前日の28日にも彼はサン=シールに対して可能な限り早く辞任したいと伝えていた。一方で彼は防衛線はきちんと武装されており、敵が成功を収めるのは難しいとも指摘していた。
 4個師団のうちクルト師団はラウベンハイムからヘーヒツハイムまでの戦線を担当し、その司令部はボーデンハイムにあった。グーヴィオン=サン=シール師団はヘーヒツハイムからマリエンボルンまでを担当し、司令部はニーダー=ウルムに、マンゴー師団はマリエンボルンからゴンセンハイムまで、そしてルノー師団は左翼でモンバッハを越えラインまでを担当していた。また増援に来ていたポンセ師団のうち27日に到着した1個半旅団は左翼のルノー師団に、28日に到着した1個半旅団はクルト師団に配属され、後者はヘーヒツハイム村の左に配置された。これらの兵力はおよそ5000人であり、残る2個半旅団は29日にもまだ到着していなかった。
 このポンセ師団についてSchelsは脚注でサン=シールやジョミニが記した文献を紹介し、ポンセ師団がおよそ1万人の戦力を持っており、そのうち半数が戦場に到着していたと記している。ただジョミニはポンセ師団がまったく戦闘に参加しなかったと書いているのに対し、サン=シールはこの部隊が両翼に配置されたと述べているそうで、Schelsの記述はこちらに従ったものであることが分かる。実際に戦闘前後に書かれた史料ではなく回想録に頼っているあたり、Schelsがこの文章を書いた当時はまだ十分な史料が集められない状態にあったことが分かる。
 戦闘後に奪われた派遣議員の書類内にあった史料によると、封鎖軍は歩兵52個大隊、騎兵5個連隊などから成っていた。さらに砲兵や工兵などを含めるとその戦力は3万1000人弱に達したようだ。ただしサン=シールはこれらの戦力のうち戦闘員として機能していたのは2万5000人としている。ジョミニによれば10月末時点での戦力は2万8000人だそうで、Schelsはこの数字にポンセ師団の増援である5000人を合わせ、会戦当日である29日朝時点のフランス軍の戦力は3万3000人と見積もっている。
 兵力を最前線に配置して予備を残さなかったという失敗に加え、辞任を望んでいたシャールの低い活動などが原因で、フランスの各将軍たちのうち何人かは封鎖線から離れた後方に宿営する状態になっていた。既にクルトとサン=シールについては上に述べたが、他にシャールも前線から2時間の距離にあるオーバー=インゲルハイムに司令部を置いていた。唯一の予備である騎兵も遠く離れたゼルツ河畔におり、宿営地に分散していた。
 フランス軍は1年もマインツ正面に布陣していたにもかかわらず、自陣の弱点に気づかなかった、もしくはそれへの対処を怠っていた。その弱点は右翼の先端にあった。封鎖線はラウベンハイムの村までしか伸びておらず、そこからラインまでの隘路はヴァイセナウ方面からの攻撃に対して開かれたままだった。マインツからヴァイセナウ、オッペンハイムを経てヴォルムスへ向かう街道はラウベンハイムの高地の下を通っており、ユングフェルダー・アウという中州の深い牧草の中を通っていた。ラウベンハイムと川岸の間には1500歩の空間があり、そこには何の防衛施設もなくクルト師団の兵もいなかった。
 オッペンハイムにはボーピュイの第5師団分遣隊がおり、マンハイムからマインツまでの川岸を守っていた。だがこれらの部隊はマインツ封鎖線の右翼を守るにはあまりに遠くにいた。オーストリア軍はここからフランス軍の右翼を迂回し、ヘーヒツハイムや聖十字架教会を背後から襲撃することが可能だった。後にこの封鎖線の建設にあたった工兵士官たちはその失敗を酷く責められた。そしてクレルフェはこの失敗を利用することにした。彼はその計画をごく一部の者のみにしか知らせず、マインツへ向かうよう命じられた兵士たちですら、どこへ向かうか分かっていなかったという。
 28日夜にかけ、ヴィッカートに宿営していた主力2個部隊と、この日の朝にヴィースバーデンに到着したばかりの予備部隊、そしてライン峡谷に展開していたエアバッハの監視部隊に対し、7時にマインツ対岸のカッセルへと行軍をするよう命令が出された。重騎兵の一部はもっと夜遅くに移動することになった。既に午後2時には砲兵予備と騎馬砲兵もそちらに移動を行っており、同時に野戦砲兵予備の部隊にも移動が命じられた。
 ツェーントナーはヴィッカートに残った兵ととどまり、予備部隊の中ではコロヴラットの擲弾兵旅団がヴィースバーデン近くの宿営地に残った。監視部隊の多くは引き続きライン沿いに、守備隊は攻撃が始まる前に防御施設に布陣することになり、モンバッハ近くにある中州インゲルハイマー・アウにはフランケン・クライスの兵と砲台が陣を敷いた。
 計画の中心は、まず29日夜明けに敵左翼に注意を引き付けるべく、モンバッハとゴンセンハイムに陽動をかける。右翼に対する主攻撃はその直後に実施する。小規模な部隊がラインを渡ってラウベンハイムを迂回し、主力はヴァイセナウの隘路から進んでラウベンハイムで右側面を攻撃する一方、ヘーヒツハイムと聖十字架教会には正面から襲撃が行われる。特に右翼からの迂回と背後への攻撃が重要だった。
 以下次回
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