始祖の作物

 農業の故地に関する話を色々と取り上げてきたが、中でも最も古くに農業が始まったと見られる肥沃な三日月地帯には「始祖の作物」と呼ばれる8種類の作物があったと言われている。英語圏ではよく見かける言葉だし、日本語wikipediaの「農業の歴史」でも「8種類の初期作物」という格好で言及されている。だがこの8種類の作物は、本当に初期の農耕民が栽培していたものなのか、について調べた論文が出てきた。
 「始祖の作物」とされるのはエンマーコムギヒトツブコムギオオムギという3種の穀物、レンズマメエンドウヒヨコマメビターヴェッチという4種の豆類、そして亜麻だ。しかし最近はclub-rush tubersと呼ばれるイモ類や、ティモフィエフコムギの一種と見られる作物など、これまで知られていなかった作物が初期農耕民によって栽培されていることが分かってきたという。要するに「始祖の作物」なるものが本当に最初に栽培された植物であるかどうかについてきちんと調べ直す必要が出てきたわけだ。
 そうした取り組みをしたのがRevisiting the concept of the ‘Neolithic Founder Crops’ in southwest Asia。上に述べた始祖の作物なるものは1988年に書かれた文章内で初めて提示されたものだそう。しかしそれから30年以上が経過し、肥沃な三日月地帯における新たな発掘などが進んだ段階で、そうしたデータを反映して見直す必要が生じたこと、及び当時は農業の発展が急速に進んだと考えられていたため、栽培植物化(domestication)や農業(agriculture)、植物栽培(plant cultivation)といった言葉があまり区別されずに使われていたことを踏まえ、改めて始祖の作物が本当にそう呼べるものだったかを調べ直している。
 結論を見ると、まず初期に最もよく収穫されていたのはイネ科の植物だったという(平均でおよそ41%)。ただし時代によってかなり数値は変化しており(Fig. 2)、前半よりは後半にかけて比率が高まっている。豆類は割と一定の量が常に出てくるが、一方でかなり大きな比重を占めていたのが野生種。つまりこれらは品種改良をせず、普通に採集だけしていた可能性を示している。また特に前半になると果実や木の実の割合も高かったことが分かる。
 それぞれの中身もまた時代によって変動しており(Fig. 3)、例えばイネ科の場合、最初の1000年ほどはオオムギが中心で、その後にヒトツブコムギやエンマーコムギの比重が増えていった。豆類だとレンズマメが新石器時代を通じてずっと収穫されていたが、初期の頃は他に始祖の作物に入っていない豆が多く出土しており、エンドウが増えたのは時間がかなり経過した後だった。野生種としてはウキヤガラ類アブラナ科ムラサキ科などがあり、果物と木の実としてはPistaciaイチジクが広く収穫され、前半はアーモンドサクラ属などが、後半になるとブドウオリーブ属が収穫対象となったようだ。
 メタアナリシスの対象とした件数のうち「始祖の作物」8種がすべて揃っていた事例はたった1.25%しかなく、実際にはそれ以外の作物がかなり多かったようだ。Fig. 4では時期ごとに始祖の作物がどのくらいで揃っていたかをグラフ化しているが、序盤では2種類以上出てくる地域は半分未満しかなく、多い時期でも5種類以上が揃っているのは半分未満にとどまっている。初期段階で収穫されていたのはオオムギ、2種類のコムギ、及びレンズマメくらいで、亜麻は中盤から、エンドウとビターヴェッチは後半からの登場となっており、ヒヨコマメに至っては分析対象の時期を通じてほとんど収穫された形跡すらない。
 Fig. 5には作物の種類ごとに最も普遍的に見られるものをグラフ化しているが、イネ科のオオムギ、コムギと豆類のレンズマメを除くと始祖の作物が必ずしもそこまで普遍的ではなかったことが分かる。そもそも始祖の作物よりもイチジクやスズメノチャヒキ属ドクムギ属ソラマメ属、ウキヤガラ類、ゼニアオイ属などの方が普遍的に見つかっているそうで、始祖の作物が4分の1以上を占める遺跡は全体の5%以下しかなかったそうだ。
 最も早く栽培されたものを見ても、決して始祖の作物が優勢だったとは言い難い。オオムギの野生種とレンズマメあたりは初期から栽培されていたと見られるが、それ以外ではむしろライムギの野生種の方が古い栽培の証拠が見つかっており、他の「始祖の作物」については後の時代にならないと登場してこない。栽培植物化された時期についても始祖の作物は現在から1万700~9600年前とされており、これは例えばソラマメ(1万700~1万200年前)、デュラムコムギのような穀物類(1万400年前)、あるいはグラスピーなどの豆類(1万200~9600年前)などと比べても決して真っ先に栽培植物化されたとは言い難い。特に上にも述べたようにヒヨコマメに至ってはそもそも収穫された形跡がほとんどなく、なぜこれが「始祖の作物」扱いされているのかという疑問が浮かぶとしている。
 また始祖の作物には入っていないが、果実や木の実についても既存の説に対する見直しが行われている。その説によれば、最初に南西アジア及びヨーロッパで始まった栽培果実はオリーブ、ブドウ、イチジク、ナツメヤシザクロの5種類となっているが、1万1500年前の遺跡から見つかっているイチジクを除くとそうした証拠はなく、むしろ果実の成る木の栽培はイネ科や豆類での農業が広まった後、一部は青銅器時代に入ってからではないかとも見られるそうだ。もちろん証拠が見つかっていないだけで実際にはいくつかの果実や木の実が栽培されていた可能性はあるが、明白な証拠はないのが現状らしい。

 最初に紹介したツイートでは、新石器時代の経済はこれまで思われていたよりも多様だったと指摘している。つまり少数の作物が圧倒的な主役を演じていたわけではなく、人々は地域によって異なる様々な食料源を使って色々な栄養を手に入れようとしていたと考えた方がいいんだろう。それでも新石器時代を通じて次第にコムギが必需品と化していった様子はFig. 4の下のグラフからも窺える。となるとむしろ注目すべきは、色々な食料源の候補がある中でなぜコムギが勝ち上がっていったのかという理由の方かもしれない。
 ツイート主は初期の農業について作物のパッケージで考える意味はもはやないと指摘している。農業の始まりについて学ぶうえではこういったパッケージでの把握は割と楽でいいんだが、話を簡単にした結果として重要な細部を見落としやすくなっているのは確かなんだろう。こちらでも火器の伝播について単純な説明が実態にそぐわない事例をいくつか示したが、同じことは農業についても当てはまるわけだ。
 となると今度は細かいことについて知りたくなる。まずは肥沃な三日月地帯で、かつては栽培されていたが今や絶滅してしまった種、あるいはかつて主力だったのに今ではそうでなくなった作物が、なぜそうなったのかが問題だ。コムギがここまで圧倒的な覇権を握ったのと逆の関心であるが、コムギに何らかのメリットがあり、逆にそうでない作物には何らかのマイナス要因があったと考えるのが妥当なんだろう。以前紹介した分析では、栽培が始まった紀元前1万年から6000年までの期間にコムギの収穫量が増えたと指摘されていたが、他の作物はこのペースについていけなかったのかもしれない。
 そしてもう1つ、肥沃な三日月以外の故地ではどのくらい多様な作物が栽培され、それがどのようにして一部の穀物に集中していったのかも知りたいところだ。中国であれば黄河流域が(もしかしたら西遼河も)雑穀、長江流域がコメの故地と見られているが、それ以外の作物にはどんなものがあったのか、それらは時系列にともなって収穫量がどう変わっていったのかなど、興味は尽きない。さらに農業社会から産業社会に変わった前後でどういう違いがあるかについても気になる。もちろんメソアメリカやアンデス、ニューギニアについても同様である。
 直近60年を見ても特定の農作物に生産が集中していく印象はある。コストなのか生産効率なのかは分からないが、もしかしたらヒトの社会は放っておくと特定のリソースに偏るようになる傾向があるのかもしれない。
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