1795年ライン 後退3

 SchelsのDie Operazionen des Feldmarschalls Grafen Clerfayt am Rheine vom Main bis an die Sieg, und General Jourdans Rückzug über den Rhein, im Oktober 1795(p3-35)の続き。今回も地図はこちらのReymann's Special-Karte(20万分の1)と、Old Map OnlineにあるMesstischeblattの2万5000分の1地図を参照。
 ハディックと直面したルフェーブルは、17日にレネロートとエメリヒェンハイン(レネロート北方)間でティリー師団と合流し、2万人を超える戦力を集めた。これに対抗しつつヴェッツラー街道をカバーするため、ハディックはノインキルヒェンとヴァルト=ダーンバッハ(ヴァルダーンバッハ)の間に布陣し、右翼ではメンガースキルヒェンを占領したうえで、ギューライが左側にいるくらいとの連絡を保持した。哨戒線はヒュブリンゲンに配置された。同じ17日、予備部隊はルンケルとエメリッヒ(エネリッヒ)の間にあるラーン河畔の宿営地まで前進した。
 10月18日、ルフェーブルは夜明けに戦力の大半とともに西方ハッヒェンブルク方面へと向かい、同時に左翼のディル河方面、ドリードルフとディレンブルクへ騎兵を派出し、ジーゲン方面に連合軍が動くかどうかを調べた。ハディックはレネロート付近に進み、哨戒線をシェーネベルク(シェーンベルク)とマリーンベルク(バート=マリーンベルク)へと押し出した。またドリードルフとディレンブルクにもオドネル中佐を送り出し、フランス騎兵はその接近を受けてすぐ退却した。クレルフェは主力の中からハディックに向け3個大隊を支援のためメーレンベルクに送り出した。リンブルク近くでラーンを渡り、そこからエルゼ河(エルプバッハ?)の背後にある宿営地へ向かった。
 前日はハーンにいたフランス軍中央の後衛部隊は夜の間にアルテンキルヒェンに後退しており、その背後のビアバッハ(ビアンバッハ)近くでグルニエは宿営した。同じく右翼の後衛を担っていたマルソー師団も夜の間にヘーア(不明)、ファレンダーを経由してノイヴィートへ後退。18日朝にクライはキーンマイアーを左翼でマルソー追撃に、ゼッケンドルフとエルスニッツを右翼でグルニエ及びポンセ追撃に充てた。彼自身はモンタバウアーに進んでボロスと連絡を開いた。そしてローテンハーンで集めた兵にエーレンブライトシュタインからの増援を加え、夕方にかけファレンダーからヴァイダースブルク(ヴァイタースブルク)を占領した。
 クレベール将軍は舟橋を使ってフランス軍の右翼、つまりマルソー、ベルナドット、シャンピオネ師団をノイヴィートで渡河させるよう命じられていた。だが彼らの渡河は意外な出来事によって遅らされていた。マルソーはエーレンブライトシュタインの囲みを解く際に、右翼の渡河が終わったころにラインのボートに火をつけて下流へ流し、舟橋を破壊するよう命じられていた。だがこの役目を与えられた工兵大尉はタイミングを間違え、右翼がまだ渡河する前にあらゆるボートに火をつけて流してしまった。かくして17日にラインの舟橋は破壊されてしまった。
 このミスにより左岸から切り離されてしまった2万5000人のフランス軍右翼だったが、幸運にも連合軍の主力は既に前進を止めており、彼らの前には前衛部隊のボロス師団約6000人しかいなかった。ベルナドット師団とシャンピオネ師団はベンドルフ近くの高地に布陣して架橋作業をカバーし、18日夕方には30時間に及ぶ作業の末に舟橋が再建された。夜の間に対岸へ渡河したこの両師団は、引き続きクレベールの指揮下にあり、コブレンツから下流のツィンツィヒ(ジンツィヒ)までの左岸を占領した。
 10月19日朝、大半のフランス軍右翼がノイヴィートでライン左岸を渡り終えた後で、ボロスはザインバッハ(ベンドルフの西でラインに流れ込む川)へと前進し、偵察をノイヴィートへ送った。直後にクライがキーンマイアーの部隊とともに到着。彼らはノイヴィートに駆け付け、略奪をしているフランス軍の落伍兵を蹴散らし、町を占領した。その上流、中洲近くにある橋頭堡にはフランス軍の守備隊がとどまり、そこの中州と、またファレンダー近くのニーダーヴァートの中州も、フランス軍が占領して塹壕を構えていた。
 ジュールダンは中央の3個師団、つまりグルニエ、ポンセ、ダルヴィユとともに、アルテンキルヒェンからウケラトとジーク河畔に向けて退却を続けていた。左翼のルフェーブルとティリーは午前10時に行軍中の中央と合流。グルニエとポンセ師団はヘンネフ付近で左に進路を変え、ボンでラインを渡ると即座に橋を破壊した。ボイエ将軍とクライン将軍は騎兵とともに右岸に残った。20日にはグルニエがボンからコブレンツまでのライン左岸を占領するよう命じられ、ポンセに対しては左岸のマインツ封鎖部隊に合流するよう命令が出された。ルフェーブルは夜の間ウケラト近くの宿営地にとどまった。
 これら5個師団の追撃に当たったのは連合軍の前衛第1及び第3師団だった。第1師団の主力を率いていたゼッケンドルフは、ノイヴィートに到着していたクライに対し、ジュールダンがアルテンキルヒェンからノイヴィートへの街道上に兵力を送る可能性があると伝えた。クライはノイヴィートの橋頭堡をボロスに囲ませ、自身は北東のグラトバッハに兵を配置してアルテンキルヒェンやウケラトからの街道を塞いだ。一部の部隊はジーク左岸のライン合流点まで送り込まれ、フランス軍を牽制した。ゼッケンドルフの前衛部隊は午前中にアルテンキルヒェンに到着して大砲1門、弾薬車20両などを奪い、そこに布陣したうえでヴァイアーバッハを前哨線に占拠させた。
 ハディックは夜明け前にレネロートから前進し、前衛部隊は夜明けにハッヒェンブルクで敵の後衛を攻撃した。ハディックはこの地に宿営した。ヴァ―ネックは予備とともにモンタバウアーに前進し、ヴァルテンスレーベンは主力の第1部隊とともにリンブルクを経てエルゼに移動。第2部隊と司令部はヴァイルミュンスターにとどまった。食糧は既に敵を追う前衛の分遣隊にのみ苦労して提供されるところまで不足しており、主力によるこれ以上の前進は難しかった。
 10月20日、ハディックはアルテンキルヒェンでゼッケンドルフと合流した。ルフェーブルがウケラトからジークベルク(ジークブルク)へと朝のうちに後退していたため、連合軍は急いで追撃した。だが彼らがウケラトに到着した時にはルフェーブルは既にジークを渡り、橋を燃やして対岸を占領していた。連合軍は左岸沿いに哨戒線を敷いて日没まで対岸のフランス軍と小競り合いを行った。
 クライは正午にグラトバッハから少し北方のレングスドルフ(アルトヴィート近く)まで進んだ。ボロスは前衛第2師団とともにノイヴィートにとどまり、ヴァ―ネックは予備とともにモンタバウアーに、ヴァルテンスレーベンは主力第1部隊とともにエルゼ背後にそれぞれとどまり、クレルフェと第2部隊はヴァイルミュンスターから動かなかった。
 21日、クライはジーク下流でゼッケンドルフと合流し、彼の前衛第1師団はそこにとどまった。ハディックは第3師団とともにジークを渡り、自身はジークベルクにとどまり、哨戒線をケルン方面のウアバッハまで押し出した。ボロスは引き続きノイヴィートの橋頭堡を封鎖。ヴァ―ネックはコロヴラットの部隊をボロス支援のためノイヴィートへ送り出した。他の部隊は前日と同じ位置にとどまっていた。そしてジュールダンは日中と夜にティリー及びダルヴィユ師団とともにケルンで左岸に渡り、ルフェーブル師団はライン渡河点を守るためドイツとミュールハイムに駐屯した。
 22日朝、ルフェーブル師団はデュッセルドルフへと移動した。ハディックはそれをミュールハイムまで追撃し、前衛部隊はランゲンフェルトへ進んだ。クライはジークベルク近くの宿営地に向かい、そこから3個大隊をノイヴィートのボロス増援のため送り出した。予備と主力第1部隊は動かず、第2部隊はエルゼ背後の第1部隊のところに到着した。クレルフェは司令部をリンブルクに移動した。
 かくしてサンブル=エ=ムーズ軍の退却と連合軍によるその追撃は終わった。マインからデュッセルドルフまでの行軍に費やした11日間にフランス軍が被った損害は大きかった。正確には分からないが、連合軍は捕虜1000人、大砲6門、弾薬車100両、荷車43両、架橋装備20本分、多くの武器などを手に入れた。一方、連合軍の死傷者と行方不明者は700人弱で、馬匹の損耗は280頭だった。

 間違えない方がいいのは、連合軍は9月以降に退却した地域の全てを取り戻したわけでない点だろう。フランス軍はノイヴィート、ケルンなどで対岸に橋頭堡を確保していたし、ボンでも対岸に騎兵部隊を残している。そもそもデュッセルドルフ周辺に至っては追撃した連合軍の前衛部隊も到達すらできておらず、9月頭の時点でエアバッハが占拠していた地域についてはいまだフランス軍の支配下にあったままと考えていい。
 それでもこの1ヶ月半ほどの間にライン下流の戦況が目まぐるしく変化した結果として、開戦前とあまり変わらないところまで戦線が戻ったのは事実。途中から明らかに連合軍の追撃が追い付いていなくなっていたにもかかわらずフランス軍が退却を続けたのを見ても、ジュールダンがライン右岸でこれ以上、長期にわたる戦闘を続けたくないと判断していたのは確かだろう。両軍は結果として本格的な交戦をほとんどしておらず、どちらも機動と他の戦線での動向のみに従って派手に動いた。ある意味、実に位置取り戦争らしい戦いだったと言える。
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