話いくつか

 今回はバラバラな話をいくつか述べたい。

 既に7月についてもグローバルに見て「1880年以降で最も暑い1カ月だった」とNASAが発表しており、日本でも8月が終わったところで「2023年の夏は過去最高を大きく上回る圧倒的な暑さ」であったことが判明している。おまけに10月にかけても異例の残暑が続くそうで、冗談抜きで今年の異様さが際立つ。
 以前、シュミルの「エネルギーの人類史」について書いたことがあったが、その中で彼が「化石燃料枯渇の懸念よりも環境の悪化による生活への脅威の方が将来においては重要な問題になる」と予想していることを紹介した。現状、化石燃料がすぐに枯渇するという話は注目を集めていない(減産によるコスト上昇は懸念されている)が、気候の方はほとんどの人が危機感を持っている状態。シュミルの指摘はおそらく正確なんだろう。
 温暖化と直接関係するわけではないが、モロッコでは地震のために数千人の死者が発生。リビアでは嵐による豪雨でダムが決壊し、死者数が万単位にのぼっている。つまり自然災害を前にした人間の無力さがあちこちで示されているわけで、本来ならこういうときほど互いの協力が必要なはず。残念ながらヒトは気候やウイルスと言ったものを相手に団結するのは難しい生き物のように見える。

 実際、足元の「不和の時代」においては団結どころか様々な形の対立がよく話題になる。こちらで触れた狩猟に関する男女の差に関するいささか党派的な査読付き論文も、男女関係の在り方を巡るイデオロギー的対立が原因になったものと言えるが、そこで査読付き論文を批判していた人物が筆者の1人となってプレプリントを書いている。
 The ecological and social context of women's hunting in small-scale societiesというやつがそのプレプリントで、それによると子育てをしながらも小さな獲物を大勢で狩る際には参加している女性も珍しくないこと、半数くらいの社会では女性の狩猟に関して制限があること、女性はリスクの低い獲物を宿営地付近で、かつ仲間や犬の助けを借りて狩るのが多いこと、一方で獲物を宿営地に運んだり獲物の情報を男性に伝えるといった形でカギになる役割を果たしていることなどが記されている。
 現代の狩猟採集民族ではなく、過去の事例であればもう少し狩猟参加比率が高かった可能性があることは否定していないが、それでもアブストに書かれているように狩猟における女性のやり方は男性とは基本的に異なっており、子育て世代でない女性のみが参加するような狩猟の証拠はほとんどないそうだ。女性の狩猟に対する制限の中に文化的なものがあることは事実だが、それだけが理由で狩猟の格差が生じているようには見えない。狩猟について必要以上に男女の対立とか差別という切り口で論じるのは適切ではなさそうであり、逆にそういう論文が目立ってしまうのは現代という不和の時代ならではの現象に見える。
 同じ印象を受けたのが「先鋭化する大富豪の白人男性たち、警告する女性たち」という記事。一部の(全部ではない)「テックブロ」が逆張り主義を暴走させているのはその通りだが、それは単なるチェリーピックに基づく指摘に過ぎず、そういう連中は別にテック業界でなくても一定数存在する。またそれに反論しているのも女性ばかりではなく、そもそも文中でクルーグマンが逆張り主義への批判派として紹介されているくらい。
 だがこの文章では「AIの倫理面などの問題を最初に警鐘を鳴らしたのは全員女性だった」という話を紹介し、テクノロジーを巡る意見の相違をいきなり男女の対決につなげてしまう。しかもこの議論を成立させるためか、AIについて警告を発している女性が批判対象としているAI終末論者について「多くが構造的不平等に苦しんだことがない、早い話が白人男性」と決めつけている。実は前半部分のテックブロ批判の文脈で出てきた「AI研究の第一人者であるエリーザー・ユドコウスキー」も、まさにAI終末論者と言われている張本人(ファーストネームで女性と思う人もいるかもしれないが、実物は髭を生やした白人男性)。テックブロの男性批判のために「第一人者」と持ち上げた後で、今度は「AI破滅派」を叩かれるべき「白人男性」としてしまうあたり、かなり支離滅裂な文章に見える。
 「AIによる人類絶滅」は現時点では夢想の域を出ず、それよりもAIの持つ倫理的問題(学習データが白人に偏る点)や雇用への影響の方がよほど重要だ、という論旨には異論はない。むしろ大賛成だ。だが前者を男性に、後者を女性に結びつけるのは、あまりに議論として雑だし、狩猟に関する議論同様「イデオロギー的な願望」が明け透けすぎてむしろ鼻白んでしまうレベル。せめてもう少しオブラートに包んでほしい。

 とまあ現代の人間たちが絡む話はどうしても「不和」につながるものになってしまいがちなので、最後はそれ以外を。まずは野生のゾウが互いに名前で呼び合っているという話だ。ゾウは超低周波の鳴き声で遠方にいる仲間に呼びかけるそうだが、その音響特性からどのゾウに向けて呼びかけたか判断できることが分かったという。イルカやオウムのように相手の声をまねて誰に呼びかけているか分かるようにする動物もいるが、ゾウの場合はそうではなくあくまで「個々のゾウに振り当てられた特定の発音」を採用しているのだという。
 わざわざ名前を呼ぶのは、家族であっても数キロ単位まで離れて活動するゾウの群れならではの適応ではないか、というのがこちらの記事の説明。遠くにいる家族と連絡を取り合う方法として、遠方まで届く超低周波の鳴き声で、なおかつ呼びかけた相手が音だけで分かるようにしている、という推測なんだろう。
 続いて進化の背景に「数論」があったという記事。突然変異は進化のために必要だが、その発生頻度が高すぎると適応した形質が定着する前に新たな変異が起きてむしろ生存に不利に働くため、生物は突然変異に対する堅牢性を持っている。この堅牢性の最大値が「目立った影響をおよぼす変異の割合(中立突然変異でない割合)の対数(log)に比例する」ことが分かった、のだそうだ。ここから「進化が数論的な現象である」と結論づけることに何の意味があるのかは正直よくわからないが、進化のメカニズムが合理的に働くものであることを示しているとしたら、まあ当然の結果だろう。Turchinの構造的人口動態理論との関連でも言及しているが、歴史であれ進化であれ、長期にわたってゆっくりと変化するものを取り上げる際には数学は割と相性がいいのだと思う。
 最後に取り上げるのは、ネアンデルタール人が遺体と一緒に花を埋葬した痕跡とされているものが、実は「ミツバチの気まぐれ」によって作り出された可能性がある、という記事だ。ネアンデルタール人の遺体とともに花粉が発見されていたことからネアンデルタール人は葬送儀礼を行っていたのではないかとの主張がなされていたが、実際には穴を掘るタイプのミツバチが集めてきた花粉がたまたま蓄積したかもしれない、という指摘である。
 ネアンデルタール人の葬儀の話は、彼らがある程度の「行動的現代性」を備えていたことをうかがわせる話だった。だがそうでないとすると、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の間に何らかの質的な違いがあり、それが理由でホモ・サピエンスがネアンデルタール人を絶滅に追い込んだという仮説のもっともらしさが増す。ネアンデルタール人が滅んだのはホモ・サピエンスと行動の質的な差があったわけではなく、両者の遭遇時の人口差が理由という説にとってはマイナスの影響を及ぼす研究に思える。
 個人的にはネアンデルタール人とホモ・サピエンスの差が単なる量の違いだけだったとは思っていない。もしネアンデルタール人がホモ・サピエンス並みの「行動的現代性」を備えていたのなら、ユーラシアにいた彼らの方がホモ・サピエンスより先に海を渡ってオーストラリアに到着し、ベーリンジアを経てアメリカ大陸にたどり着いていたと考えてもおかしくないだろう。そうした痕跡が見つからない限り、彼らとホモ・サピエンスとの間には何らかの質的違いがあったのだと考えられる。
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