一部の部隊がラーン河までフランス軍を追撃した一方、オーストリアのボロス将軍はヴィースバーデン近くでナウエンドルフの部隊と交代した。ヴァ―ネックの予備はウシンゲンへと行軍し、クレルフェは主力2個部隊とともにヴェーアハイム(ウシンゲン南東)と進むことになった。朝ベルゲンを出発した彼は5個大隊をマイン左岸の監視部隊に送り出し、ナウエンドルフに対してこの部隊と合流するよう命じた。さらにシュターダーに全監視部隊を指揮し、これをグロス=ゲラウ方面のギンズハイムとヴァラーシュテッテン間の宿営地に前進させ、ネッカーからマインの間のライン沿いを守るよう命令した。
10月15日、ボロスはヴィースバーデンからケメルへ進んだ。その前衛はナシュテッテン、ホルツハウゼン(ホルツハウゼン=アン=デア=ハイデ)、カッツェネレンボーゲン(カッツェネルンボーゲン)まで達し、偵察隊はライン河畔のブラウバッハに進んだ。
クライはニーダー=ゼルタースに移動し、そこに一部の兵を残したうえでリントホルツハウゼン付近のグルニエ師団及びポンセ師団の後衛部隊に対する攻撃を準備した。エムスバッハ峡谷経由でエルスニッツが進み、左翼ナウハイム方面、右翼ブラウエンフェルト(不明)高地方面にそれぞれカバーする部隊を派出。しかし後衛のボイエ将軍は歩兵を先にリンブルクとディーツへ下げ、騎兵と砲兵のみを背後に残した。両軍は砲撃を行い、クライが両翼から機動を行ったところ、フランス軍は2つの町へと逃げ出して交戦は終わった。グルニエは改めてシモン将軍の部隊を後衛に置き、ジュールダンはリンブルク北方のハダマーに司令部を置いた。
ハディックはヴァイルブルク付近でラーンを渡り、左翼のルンケル方面にギューライの部隊を派出した後で、主力とともにハダマーへの街道をアレンドルフまで進んだ。そこから今度は右翼をカバーするためローハンの騎兵がメーレンベルクからラーを経由してマイリンゲン(ヒンターマイリンゲン)へ派出された。だがマイリンゲンは強力なフランス軍が占領していたため、ローハンはラーへと引き上げた。ハディック自身はヘックホルツハウゼンを経てオーバー=ディーフェンバッハ(オーバーティーフェンバッハ)へ進み、ルフェーブル師団の背後を攻撃して彼らを逃走させた。だが追撃したハディックは、アールバッハとオーバー=ヴァイアーに強力なフランス軍が集まっているのに気づいた。
帝国軍主力がなお遠方にいたため、ハディックは右翼が到着するまで偵察するにとどめた。それから彼はシュタインバッハ村を占領しているフランス軍に砲撃を行い、これを取り囲んだ。敵は村から押し出されて追撃を受けたが、同時にマイリンゲンとオーバー=ヴァイアー方面から駆け付けたフランス軍がオーストリア軍に反撃し、さらにシュタインバッハ村自体を攻撃して大砲3門と弾薬車2両を奪った。ハディックは残った兵とともに駆け付けて敵の追撃を食い止めたが、夕方には全部隊を率いてメーレンベルクとアレンドルフ方面に退却した。オーバー=ディーフェンバッハには弱体なオーストリア軍が残ったが、この戦いでハディックの部隊は90人ほどの損害を受けた。
予備部隊はアルテンハウゼン(アウレンハウゼン、ヴァイルミュンスター西方)へ前進した。ヴァ―ネックは10月16日にオーバー=ブレッヒェンとフィルマーの間に布陣し、ハディックとルンケル経由で連結する任を負っていた。クレルフェは主力2個部隊をヴァイルミュンスター付近に宿営させ、司令部もそこに置いた。この時点でクレルフェは追撃を前衛3個師団に任せ、主力はヴァイルミュンスターにとどまってエーレンブライトシュタインの解囲を待つと決断した。彼は他の作戦のために主力を温存しようとしていた。
天候は悪く、道路は酷い状態にあった。食糧不足も、この地域に4週間にわたってフランス軍が駐屯していた影響もあって悪化していた。退却中のフランス軍はオーストリア軍の追撃を邪魔するため、略奪や破壊を行っていた。もしこれ以上、主力部隊で追撃を行っても、彼らを食わせていくのはほとんど不可能になっており、彼らが困憊してしまえば戦役の残る期間において使い物にならなくなる恐れもあった。
マインツ方面からは左岸の封鎖部隊が大砲を塹壕から移動させ、封鎖を解くようなそぶりを見せているとの連絡があった。クレルフェはエアバッハをギンズハイムとヴァラーシュテッテンに集めた兵とともにビショフスハイムに配置するようシュターダーに命じた。もし本当に左岸のフランス軍が封鎖を解くのなら、彼らは守備隊と合流してその追撃に当たることになった。またカラクツァイの部隊もマイン右岸のヴィッカートに配置された。
10月16日、ハディックはアレンドルフとメーレンベルク付近の陣地にとどまり、襲撃部隊や偵察部隊を派出して正面の敵を牽制した。ルンケルにいたギューライには、ラーンを渡りホーフェ=ディーフェンバッハ(オーバーティーフェンバッハ)とニーダー=ディーフェンバッハ(ニーダーティーフェンバッハ)を占領するよう命令が出された。彼らと対峙していたフランス軍の一部はレネロートへと後退した。クライ将軍はリントホルツハウゼン付近から前進してディーツやリンブルクのすぐ近くに哨戒線を敷いた。
午前10時、ボロスはケメルからいくつかの縦隊で前進し、ジンクホーフェン(ナッサウ南東)近くに宿営するフランス軍に襲い掛かろうとした。左翼の縦隊はシャウアーン(ナッサウ南西)から敵の背後へ迂回しようと急いだ。ボロス自身はジンクホーフェンとホンツェル(フンツェル)間の森を気づかれないまま占領することに成功。そこから敵宿営地を奇襲した。フランス軍は背後に武器や荷物を残してナッサウ方面へと逃げ出した。そして散弾を浴びながら舟橋を渡ろうとした。
この時、左翼のシャウアーン方面に送り出した部隊が到着して攻撃に加わり、いくつかの落伍兵を分断した。多くのフランス兵が倒れ、50人弱が捕虜となり、数百人は山中へと散り散りになった。後者のうち200人はこれまで酷い目に遭ってきた農民に殺された。しかしボロスは舟橋を越えて前進することはできず、フランス軍は急いでこの橋をラーン右岸に引き揚げることに成功した。戦闘は砲撃で終わり、ボロスの左翼部隊は今度はバート=エムスの敵を牽制するためシュピーセン(シュピース、エムス南東)へと送られた。
10月17日真夜中、フランス軍はナッサウから撤収した。ボロスは舟橋を架け、ラーンを渡った。そしてカッツェネレンボーゲンから到着したばかりのイェラチッチの部隊をモンタバウアー方面に差し向けて追撃に当たった。ボロス自身はバート=エムスに進み、シュピーセンにいた部隊を呼び寄せると、彼らをファッハバッハの先にある高地に送った。ボロスはローテンハーン(ローテ=ハーン、アレンベルク東隣)に向けて行軍したが、マルソー師団の部隊がマウスロッヒャー=ホフ(不明、バート=エムスとアレンベルク間のどこか)に配置した部隊と遭遇し、攻撃を仕掛けたが反撃された。ボロスはこの部隊と対峙するよう、モンタバウアーとコブレンツを結ぶ街道を正面に見下ろす格好で布陣した。
午後2時、フランス軍がこの陣地を攻撃したが撃退された。捕虜の証言によると、マルソーはモンタバウアーから後退してきた部隊と合流し、その後衛として退却するつもりだったという。実際にその直後、モンタバウアーからフランス軍が連合軍の砲撃を受けながら街道を通り、その後でボロスの左翼を攻撃した。エーレンブライトシュタイン守備隊の攻撃で邪魔されていたマルソーはこの攻撃を支援することができず、フランス側の攻撃は失敗した。日没後、フランス軍はノイヴィートへの退却を続けた。
夜9時、これまで32日間にわたってエーレンブライトシュタイン砲撃を続けていたマルソーは、弾薬を残してそこから引き揚げた。彼は9月19日に攻囲壕を開いていたが、守備隊の砲撃と出撃のため作業を進展させられず、周辺地域から多数の梯子を集めさせて強襲をかけようとした。守備隊の指揮官もそれに備えていたが、その時にフランス軍の全面退却が始まったためマルソーの計画は破棄された。
16日、グルニエとポンセの師団は引き続きディーツとリンブルクの正面にとどまっていた。彼らがようやく退却を始めたのは17日の午前3時になってから。後衛部隊を率いるオリヴィエ将軍がそこから撤収したのは同日の午後になった。リンブルクの町は略奪され、郊外は炎上した。オリヴィエはディーツの端を破壊し、船を焼き、リンブルクの石橋のアーチも壊した。しかしクライはこれを素早く修復するとエルスニッツがアルテンキルヒェン街道をヴァルメローデ(ヴァルメロート)へと進んだ。キーンマイアーの部隊はモンタバウアー方面をグロス=ホルバッハへ向かい、ゼッケンドルフをフントザンゲンに置いてエルスニッツを支援し、自身は残る部隊とともにオーバー=ハダマーにとどまった。グルニエはアルテンキルヒェン街道上にあるハーン(ハーン=アム=ゼー)背後の宿営地まで移動した。以下次回。
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