1795年ライン 後退1

 久しぶりに1795年のライン戦役について。前回の最後に記した通り、ジュールダンはクレルフェの攻撃を受けてマイン河畔からの退却を決めたのだが、この時点で興味深いのは両軍の戦力差だ。クレルフェが率いる主力部隊は計4万2000人弱、対してジュールダンがすぐに展開できる4個師団の兵力は4万5000人弱とほぼ拮抗していた。これは少し前に両軍の格差が大きく広がっていたのと比べると、実に印象的な違いだ。
 9月上旬、フランス軍がライン渡河を始める直前の時点でジュールダンの主力と向き合っていたクレルフェの右翼は合わせて3万4000人強だった。一方のジュールダンがこの地域に投入した戦力は実に7万人。ほぼ倍の戦力差があったわけで、それが1ヶ月ちょっと後にここまで兵力差が縮小したのはなぜだろうか。なお、この期間中に両軍はいろいろと機動を行ってはいたものの、戦闘はほぼ小競り合いのみしか行われず、会戦で大きな被害が出たわけでも包囲されて多数の兵が降伏したわけでもない。
 答えは「要塞」だ。フランス軍はマイン河畔へと進軍した過程でマルソー師団1万1000人強をエーレンブライトシュタインの封鎖に、そしてシャンピオネとベルナドットの師団計1万8000人強をライン右岸でのマインツ封鎖にそれぞれ投入した。さらにデュッセルドルフとケルンの渡河点を守るために1個師団を配置した結果、ジュールダンの戦力はほぼ半減した。一方のクレルフェは右翼に加えてマイン左岸に展開していた部隊もかき集め、当初より多くの兵を戦場に投入することができた。
 もちろんオーストリア軍も要塞に守備隊を置いていた。だがそれらの兵力は取り囲んだフランス軍に比べると微々たるものだ。エーレンブライトシュタインにいたのは2600人弱、マインツは1万5000人強で、両方合わせても1万8000人ほどにとどまる。一方のフランス軍は、ライン左岸でマインツを取り囲んでいたラン=エ=モーゼル軍の3万人も含めればこの2地点に5万9000人強を投じていた格好であり、つまり連合軍の3倍以上の兵が要塞を前に足止めされていたことになる。
 こちらでも紹介した通り、ルネサンス式要塞は数多くの兵を長期にわたって足止めする能力を持つと言われていたし、実際に16世紀に誕生して以降、そうした効果を幾度となく発揮していた。だが一方で前年(1794年)には他ならぬジュールダンが要塞を置き去りにして野戦軍を追撃するという戦い方を見せていた。なぜ彼は同じことを行わず、大軍を要塞に割り当てたのだろうか。
 この時点での彼の判断を評価するにはもっと詳しく調べる必要がある。とはいえジュールダンの対応を見ると、長年にわたって欧州の軍人たちに染み付いた「要塞こそ攻防の中心」という観念を変えるのは簡単ではなかったのだろうと思いたくなる。彼らはまだ火薬革命の移行期に生きており、本当は定着期が既に始まっていたことに気づいていなかった。

 と振り返ったところで、SchelsのDie Operazionen des Feldmarschalls Grafen Clerfayt am Rheine vom Main bis an die Sieg, und General Jourdans Rückzug über den Rhein, im Oktober 1795(p3-35)に話を戻そう。引き続き地図はこちらのReymann's Special-Karte(20万分の1)と、Old Map OnlineにあるMesstischeblattの2万5000分の1地図を参照。
 フランス軍の退却は日没直後から急いで実行された。11日から12日にかけてマインとラーンの間で大慌てで馬匹の徴用が行われていたが、それでも運搬用としては不十分であるうえに道の状況も悪かったため、装備のいくらかは失われる見通しだった。ルノー師団は10月12日の時点でライン渡河を終えるか終えないかというタイミングだったが、午後8時にはクレベールから急いで左岸に戻るよう命令を受けた。彼らはニーダー=ヴァラウフ、エアバッハ(エルトヴィレ=アム=ライン西)あるいはビンゲンで渡河を行い、それが不可能な場合はラインを下り、ゴアースハウゼン(ザンクト=ゴアースハウゼン)経由でベルナドットと合流することになった。
 10月13日、カッセル砦の守備隊が送り込んだ偵察隊とナウエンドルフの哨戒線がフランス軍の退却に気が付いた。マインツ総督のノイはすぐ敵の追撃を命じ、自身も騎兵を率いてアーベンハイムに向かい、そこで輸送されていたフランスの負傷兵といくつかの荷物を積んだ馬車を奪った。ザルム将軍が歩兵3個大隊を率いてその後に続き、別に1個大隊はモスバッハに向かった。ノイはアーベンハイムに1個大隊を残して残りとともにヴィースバーデンへ進み、そこからいくつかの分遣隊を出してランゲンシュヴァルバッハ街道のシュヴェデンシャンツェ(古くから残っている山中の砦跡がそう呼ばれていた)まで敵を追撃した。メルカンタン将軍もモスバッハに向かい、ウィリアムズ少佐のライン艦隊はラインを下ってエルフェルト(エルトヴィレ)付近で3つの舟橋などを奪った。
 ナウエンドルフはフランス軍撤退の知らせを受けるやケルスターバッハとヘーヒストの間で騎兵を渡河させ、さらにボートに乗せた歩兵にもマインを渡らせた。それからイドシュタイン方面へとフランス軍を追撃し、ニーダー=ハウゼンでポンセとグルニエ師団の後衛部隊を務めていたクライン将軍の騎兵に追いついた。フランス軍の移動は悪路のためにゆっくりとしたもので、素早く襲撃を受けたクラインの騎兵は300人以上の兵と大砲3門、馬車31両を奪われた。
 その間、ボロス将軍はニッダを渡ってナウエンドルフが通り過ぎた地域に到達した。ナウエンドルフは左翼に転じてヴィースバーデンに向かい、そこでノイと交代して後者はマインツへ引き上げた。ボロスは2つの縦隊を組み、右翼はズルツバッハ経由でケーニヒシュタインへ、左翼はニーダー=ホフハイムからエプシュタインへと進んだ。夕方にはボロスは左翼へと動いてヴァラウとブレッケンハイムの間に宿営し、100人以上の捕虜と大砲2門、弾薬車80両を奪った。クライはボナメスでニッダを渡り、オーバー=ウアセルで宿営した。彼の部隊はさらに前進し、クローネンブルクとケーニヒシュタインの砦が撤収されているのを確認し、さらにフランス軍後衛がいたグラスヒュッテまで進んだ。
 ハディックはウシンゲンに向けて進んだ。ヴァ―ネックの予備部隊が支援のため後に続き、ホンブルク付近に布陣した。クレルフェは主力2部隊とともに同じ方面にヴァイルミュンスターまで進み、ヴェッツラー方面から敵が背後に行動しても対応できるようにする方針を決めた。だがジュールダンはもはや攻勢を考えてなどいなかった。彼の軍はラーンに向けて全面退却に転じており、いくつかの弱体な哨戒線をあちこちに置いて追撃を弱めることしかしていなかった。
 ライン左岸に戻るよう言われた時、ルノー師団には少数の船と30人の水兵しかいなかった。彼らはいったんラインを下り、敵に追撃されていない様々なところで少しずつ兵を対岸に渡し、15日には左岸の封鎖軍の戦線に戻ることができた。シャンピオネ師団はヴィースバーデンからノイホフ(ヴィースバーデン北方)経由でディーツに、ベルナドット師団はランゲンシュヴァルバッハ経由でナッサウへと後退を続けた。グルニエとポンセは12日夜7時半にマイン河畔を出立し、前者はマッセンハイム、ヴァラウ、ランゲンハイン、メデバッハ(メデンバッハ)へ、他方はホフハイムとエプシュタインを経由して後退した。彼らはニーダーハウゼンで合流するとリンブルクへ退却を続けた。既に述べた後衛戦闘の後、この2個師団はイドシュタインを経由して午後8時にヴァルラーベンシュタインの背後に到着した。
 夜を徹して酷い悪路を行軍し続けたハディックは14日午前5時までウシンゲンに到着できなかった。ここでクレルフェからの命令が彼に追いつき、この日は可能な限りヴァイルミュンスター方面に進み、遅くとも15日にはミュンスター(フィルマー南東)からヴァイルブルクをへてライエン(ロイン)までのラーン河畔を押さえるよう指示した。兵を少し休ませた後でハディックは行軍を再開。ギューライ少佐がヴァイルミュンスターに残されていたフランス軍を排除し、ハディックは同日のうちに命じられた地域を占領した。
 クライは午前10時にオーバー=ウアセルを発し、騎兵のみでケーニヒシュタインを経由してカムベルクまで進んだ。その途上、ヴァルスドルフとヴィルゲス(ヴュルゲス)の間でグルニエ師団とポンセ師団の後衛と遭遇した。クライは騎兵15個大隊を緩やかな高地に広げて追撃し、峡谷を行軍するフランス歩兵に騎馬砲兵で砲撃を浴びせた。フランスの後衛だったボイエ将軍も騎兵を展開させて追撃を食い止めようとしたが、彼らは砲兵を持たなかったためすぐに退却を強いられた。
 さらに追撃を続けたオーストリア軍騎兵のうち、右翼を進んだ部隊はオーバー=ゼルタースとニーダー=ゼルタースの間まで進出したところで、ボイエが森の中に隠してきた騎兵に背後から奇襲を受けた。彼らは道の左側を通っていた味方騎兵とは峡谷で隔てられており、そこを流れる川の水量が増していたため橋はすべて落ちていた。ただ峡谷を通る道の上も騎兵が砲兵とともに移動しており、その部隊が右側の斜面を駆け上って奇襲をかけてフランス騎兵に襲い掛かり、これを蹴散らした。
 フランス軍はもはや抵抗せず、リンブルクとディーツへの退却を急いだ。クライはニーダー=ブレッヒェンへと進んだが、そこであたりが暗くなり追撃は難しくなった。クライはニーダー=ブレッヒェンに騎兵を、支援部隊をニーダー=ゼルタースに配置し、歩兵はカムベルクにとどまった。グルニエ師団とポンセ師団は午後10時にリンブルクとディーツ正面のラーン左岸に宿営した。ボイエ将軍がリントホルツハウゼン(リンデンホルツハウゼン)近くの高地に後衛部隊とともに残った。以下次回。
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