ウイルスの特徴

 すっかり過去の話と思われているCovid-19だが、今年になって公表されたA Critical Analysis of the Evidence for the SARS-CoV-2 Origin Hypothesesがなかなか面白かったのでちょっとまとめておこう。といっても私はこの分野は素人であり細かいところでは間違っている可能性があるので、あくまでその程度のものと思っておいてほしい。
 基本的にマニアックな指摘ばかりなのだが、要はウイルスそのものの特徴から考えてCovid-19が武漢のウイルス研究所から流出したという仮説の信頼度は低く、野生動物と人間との接触を通じて感染が始まった(人獣共通感染症)という仮説の方が妥当性が高い、という話だ。もちろん現時点での結論であり、今後の証拠次第では判断が変わると書いてはいるが、ウイルス自体が持つ特徴からそうした推測ができる点はなかなか興味深い。
 文章では研究所からの流出という仮説を2つ、人獣間の感染だったという仮説を2つ提示し、それぞれについて証拠を取り上げ、そこから何が推測できるかについて検討している。まず仮説1はウイルスが研究所で培養されていたというものだが、最初の証拠Aを検討するところからいきなり「フーリン切断部位」なる専門用語が登場。正直これが何なのかは私にも説明できないが、ここで重要なのはこの何たら部位をコードする遺伝子が研究所で培養すると欠失してしまうという指摘だ。ウイルスの培養はパンデミック後に数多くの研究所が取り組んでおり、そこで欠失が起きることが判明しているのなら、最初の新型ウイルスが武漢ウイルス研究所から流出した場合もこの部位は欠失していたと考えられる。ところが初期の分離株を見る限りこの部位は無傷だったそうで、つまり研究所で培養されたものでない可能性が高い。
 証拠Bは同じくウイルス研究の時の手順に絡むもので、一般的にはマウスなどの実験動物にウイルスを適応させる必要があるのに、初期分離株にはそうした適応が見られなかった点だ。これもウイルスが実験室から流出した説とは適合しない証拠となる。
 仮説2はウイルスが研究所で作成されたというもの。今年6月に明らかになった米国の報告書でもほとんどの情報機関が「ウイルスが遺伝子操作されたものでない」と評価していたわけで、元々あまり可能性の高くない仮説だが、ここでも証拠について否定的に言及している。
 証拠Aは遺伝子操作を行った場合に残るDNA組み換え技術の使用を示す証拠が欠如しているというもの。証拠Bは上にもでてきた「フーリン切断部位」に関する指摘で、この部位はウイルスの毒性の重要な決定因子であるという。ところがCovid-19の感染拡大後の研究によってこの部位の有無だけでなく、長さや性質といったものも重要であることが分かってきた。こうした2020年以前にはわかっていなかった情報のないまま、2019年までにフーリン切断部位を操作していたとは考えられない、という評価だ。証拠Cは仮説1の証拠Aと同じで、実験室で培養するウイルスはフーリン切断部位を欠失するのに、実際に感染拡大をもたらしたウイルスにはその部位が欠失していなかったのだから、このウイルスが出現時に研究所で培養されていなかったことが示唆される、というものだ。
 仮説3は流出説ではなく、ウイルスがヒトの集団に持ち込まれたコウモリの人獣共通感染症である、というものだ。まず今回の新型コロナウイルスと類似しているSARSの時は感染源が市場で販売されていた生きたジャコウネコであることが突き止められており、ジャコウネコもおそらくコウモリから感染したと見られている。それに新型コロナウイルスと関連するウイルスは東南アジアのコウモリでも記録されている。
 証拠Bは武漢の研究所で研究されていたコウモリの持つウイルスと、現在流行しているCovid-19のウイルスが近縁ではないというもの。これは流出説にとって否定的な材料だが、人獣感染をもたらした野生感染源を調べるうえでも証拠が不足していることを示しているという。ここでは中国側の透明性欠如も問題とされている。とはいえ野生感染源を特定できなかった点をもって研究所からの流出を裏付ける証拠と見なすのは、「証拠の不在を不在の証拠として使用する」という誤りを犯すことになる。
 証拠Cは自然界でも高い確率でコロナウイルスの組み換えが発生していることだ。つまり遺伝子の組み換えが起きているからといって、それは野生感染説を裏付けるわけでも、逆に研究所流出説を立証するわけでもない。証拠Dは多くの動物がコロナウイルスに感染しやすい点。ここからセンザンコウやヘビが中間宿主であるという推測につながっているが、市場から見つかったのは「動物が飼育されていた檻や小屋から得られた環境サンプル」の証拠だけで、実際に感染している動物そのものは見つけられていない。そして証拠Eはヒトがコウモリのコロナウイルスに曝露した証拠があることで、これは人獣共通感染症の可能性をうかがわせる。
 最後の仮説4は、初期の流行によって新型ウイルスの起源が示唆されるというものだ。証拠Aは既知の感染者が「華南海鮮卸売市場またはその近くに集中」している点で、逆に新型コロナウイルスを研究していた科学者は1人もいなかったという。もちろん感染しても無症状の人が多いウイルスのためにこれだけで断言はできないが、それでも現在手に入る証拠を見る限り発生初期段階では市場との明確な関連が示されていたといえる。
 証拠Bは、初期の段階からウイルスのゲノム配列に2つの系統が含まれていたこと。研究所からの流出という特定1ヶ所からの感染というより、ヒトと生きた動物との恒常的な接触を通じて複数の感染があったと考える方が辻褄が合うし、実際に人獣共通感染症がパンデミックにまで広がるには1回ではなく多くの感染がないと難しいという。最後の証拠Cは、流出を疑われる研究所の研究員について包括的な検査がなされていないこと。2019年秋に彼らが呼吸器疾患を患っていたとの話があるが、呼吸器疾患にはいろいろな種類があるため積極的に新型コロナウイルスであるという証拠にはならない。
 以上を踏まえるなら、流出説と人獣共通感染症説とのもっともらしさが同等とはとても言えないことがわかる。仮説1と2はありそうもないのに対し、仮説3と4は既存の証拠ではそれが正しい可能性を除外できない。1と2は流出説、3と4は人獣共通感染症説と一致しており、だから現状では過去に何度も起きた人獣共通感染症が今回も生じた、と考える方がもっともらしい。

 もちろん科学者が書いているものだけに流出説は間違いとまではっきりと言ってはいない。そもそも断言できるほどの証拠が揃っているとは言えないし、またこれから新しい証拠が出てくる可能性も当然ある。ここで書かれているのはあくまで「現時点で入手可能な最良の証拠」に基づく推測であり、そしてそれは科学的な仮説が常にそうであるようにいつでも「暫定的」なものだ。
 それに流出説と人獣共通感染症説では必要とされる証拠の質がかなり異なる。前者であれば研究所の記録からそこでの研究がコロナウイルスと密接に関連していたことを立証する必要があるが、上にも書いた通り中国の対応が不透明性の高いものであるためできることには限度がある。一方、人獣共通感染症であると立証するには元の動物からヒトへと感染が起きた証拠を見つける必要があるが、新型コロナウイルスのように無症状のケースも多い感染の場合、それを探し出すのは極めて困難。せめて中間宿主が見つかれば大きな証拠になるが、それを探し出すための調査には時間がかかるという。
 だがそういった不確定要素が多い中でも、科学的な手順に従って作業を進めることは重要であり、そこからの逸脱は決して望ましくない。「個人に責任を負わせたい」と考える人間が出てきても不思議はないものの、それに引きずられれば科学的な手法が歪む。科学的な手法が有効であることは、他ならぬ今回のパンデミックにおいてあれだけハイピッチでワクチンが出来上がったことからも明らかであり、だからこそこの手順を歪めるような事態は避けなければならない。
 現状において流出説と人獣共通感染症説が正しい可能性は「同じ確率ではない」。両者をあたかも対等であるかのように並べるのは、科学を歪めることで全員に不利益をもたらし、リソースを誤った方向に向けることになる。だから科学者や公的役割を担う者たちは事実に従い、デマや陰謀論の材料を与えるような憶測を制限しなければならない。以上がこの文章の主張だ。

 私自身は今のところ科学者の唱える人獣共通感染症であるという説に従う方がいいと思っている。正直フーリン切断部位なるものが何かさっぱり理解できないレベルの知識しかないためにこれが正解かどうかは断言できないが、信用するなら専門家だと考えているのが理由。この場合、当たり前だが米国の情報機関は感染症の専門家ではなく、彼らの見方には素人の床屋談義と同じ程度の価値しか置いていない。もちろんメディアやジャーナリスト(例えばこちらの本)も然り。専門家の見解と同等に扱っていいものではない
 おそらく新型コロナの起源に関する議論は次第に社会の表舞台から消えていくだろう。去る者日々に疎し。大半の人間は新しい他の出来事に関心を移し、コロナの起源が実際はどうだったかよく知らないまま忘却していく。みんな毎日忙しいのだから、そうなるのは仕方ない。だからこそ特定分野について常にアップデートを怠らない専門家を頼るのが妥当なのだ。従って最も避けるべきは、専門家を安易に批判する論調ということになる。
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コメント

1dgwa
viralの共著者 Alina chanは分子生物学者で遺伝子治療や細胞工学を専門としていて、少なくとも専門家とは言えると思います。
とはいえ政治的な理由で真相がわからないウイルスの初期感染経路を探求する専門家は誰なのか?というのはなかなか難しい質問です。
最大の問題は専門家が真実の探求を可能ならしめる情報公開が十分されていないことのように思います。

desaixjp
Alina Chanの専門はご指摘の通り、細胞工学や遺伝子治療のようですね。
https://giving.broadinstitute.org/broadignite/team/alina-chan
つまりウイルス学が専門ではないわけです。
一方、サイエンス誌に載った人獣共通感染症説の査読済み論文の筆者には、感染症疫学やウイルス学、系統発生学が専門の研究者が含まれています。
https://www.science.org/doi/10.1126/science.abp8715
どちらが感染症の起源を調べるうえで必要な能力を持った専門家かと聞かれれば、私なら前者は避けて後者を選びます。

1dgwa
問題はSARS-CoV-2の専門家は2019年以前には存在しなかったことですね。
そして彼女がscienceにsecond autherとして乗った論文としては、
https://scholar.google.co.jp/citations?view_op=view_citation&hl=ko&user=uK5VWiYAAAAJ&citation_for_view=uK5VWiYAAAAJ:8k81kl-MbHgC
ウイルスの専門家、コロナウイルスの専門家、免疫を専門とする生化学者、微生物の進化学の専門家、アデノウイルス工学の専門家、疫学・感染症内科を専門とする医師、ウイルスの専門家、免疫学者、疫学の専門家、免疫の専門家、生物物理学者などが名を連ねています。これが示唆するのは彼女がSARS-CoV-2を様々な方面から研究する専門家のネットワークにいることです。
彼女がFirst authorの論文も
https://scholar.google.co.jp/citations?view_op=view_citation&hl=ko&user=uK5VWiYAAAAJ&citation_for_view=uK5VWiYAAAAJ:KlAtU1dfN6UC
感染症を専門とするlast authorとの共著です。

専門家というのが現代では最早個人では十分な仕事が難しい以上、個人の専門よりも、専門家のネットワークにどのくらい組み込まれているのかが重要でないかと私は考えます。

とはいえ新型コロナウイルスの起源は、発症初期に国際的な専門家チームの介入が不可能であったがために、かつ、提供される情報が透明性を欠いているために、真相の追及が困難な事例に思えます。そして提供される情報が恣意的である以上、現在提示された情報からラボリーク仮説と人獣共通感染説のどちらの確率が高いかは、「まだ提供されていない情報にどのようなものが多いと推定できるか」を考慮して解釈する必要があるように思うのです。

desaixjp
であればMatt Ridleyは同じ論文(論文といってもarticleではなくletterなので極めて短く、論拠もはっきりしませんが)筆者のうちウイルス専門家との共著で本を書くべきでしたね。
https://www.science.org/doi/abs/10.1126/science.abj0016
感染症疫学やウイルス学の専門家は2019年以前から存在していたのですから、Chanではなくそうした研究者と一緒に書いて出版すればよかっただけでしょう。
私自身はRidleyのこの本は読んだことがないですし、おそらく時間とお金の無駄なので読む気もないのですが、下のレビューによると彼が焦点を当てているのはRaTG13らしいですね。
https://newrepublic.com/article/164688/viral-lab-leak-theory-covid-19
このエントリーで紹介した仮説3証拠Bによると、RaTG13はヌクレオチド配列で1000以上異なっているため、明らかにSARS-CoV-2の近い先祖ではないそうです。

なお「まだ提供されていない情報にどのようなものが多いと推定できるか」についてですが、その推定を導き出す誰が見ても客観的な方法があるのなら一つの手だと思います。
でもそんな方法があるのでしょうか。提供されていない情報が「隠されている」か「存在しない」かは、それらが表ざたになるまで外部から判断するのは難しいのではないでしょうか。
私に思いつくのは、他に中国が隠している(あるいは隠していた)ウイルス情報と、実際のウイルスに関する知見とを組み合わせることで、「一般的に中国はウイルス関連でこういう内容のデータをこの程度隠している傾向が見られる」といった推計値を出す方法くらいです。
でもこれ、量はともかく「こういう内容」を推計するのはかなり難しんじゃないでしょうか。
ここはぜひ、流出説の可能性が人獣共通感染症説と並ぶくらい高いと考えている学者にそうした取り組みをしてもらいたいところですね。それならChanが書いたものでも読んでみたいと思います。
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