この大砲は1941年、当時はドイツ領だったカウアーニックで発見され、マリーンヴァーダーの博物館に置かれていた。ソ連軍の接近を受けて一時期近くの村に隠匿されたが、1950年に再発見されて現在はマルボルク博物館の出張所に置かれているそうだ。この論文では大砲からサンプルを取ってその組成を分析した部分が話の中心だと思うが、それ以外の説明が非常に長く書かれている。
外見的な特徴はFig. 1の通りで、短く口径の大きい砲身部と、眺めで少し細くなっている薬室部に分かれている。また縄のような形をした取っ手がつけられており、実は発掘時にはこの取っ手にさらにリングがついていた(Fig. 3、戦後の混乱時にリングは失われている)。重さは42キロちょっと、長さは50.7センチで、砲腔の長さは22.5センチ、薬室の長さは23センチ。砲口の口径は13.5センチ、薬室の内径は4センチ、タッチホールの口径は5ミリとなっている。想定される石弾の重量は3.5キロほどだ。
砲口の上部には赤子を抱えたマリアのレリーフが刻印されており(Fig. 5)、この図像がドイツ騎士団の使っていたものである点から彼らの製造したものだと推測されている(
マリア像が戦争に使われるのは昔からであることが分かる)。タッチホールの部分だけは鋼を素材としているようで、他の素材とは異なっている様子が分かる(Fig. 2)。当時の鋳造技術の欠陥か、表面をみると鋳造時に含まれていたガスによる小さな穴がいくつも残されている(Fig. 8)。砲腔内を見るといかにも後の臼砲のような造りをしているが(Fig. 9)、製造されたと見られる15世紀前半には臼砲といったカテゴリーは明確には存在していなかった。
この論文では大砲のカテゴリーとして、初期の石弾を撃ち出す大砲という意味の「ボンバルド」、当時の城塞のテラスに配置された小型砲を意味する「テラスガン」、さらにフス戦争で有名になった野戦砲である
「ホーフニツェ」のいずれかではないかと指摘。それぞれ他の事例(Fig. 10~14)を紹介したうえで、条件に最もよく適合するのはホーフニツェであると指摘。また形状の似ている鋳鉄砲なども紹介し(Fig. 16)、クルツェトニクの大砲も砲車のようなものに載せられていたのではないかと記している。またついでに当時の大砲の装填法も紹介している(Fig. 25)。
で、ここからはドイツ騎士団の火薬兵器に関する細かい紹介が始まる。騎士団自身の文章記録によると、最も古い大砲の使用例は1374年に遡るという。前に書いたポーランドでの使用例よりは古いが、時期的には西欧に遅れての事例だ。年代記によればさらに前の1362年、コヴノ攻囲の際に軽砲lothebuchszenが使われたというのが最古の登場例になるそうだ。また1380年代から90年代のこととして、火器でsagittare、つまり矢を撃ち出していたという記述も出てくるという。このあたりは
西欧や
中国と同じだ。
騎士団の記録には様々なものへの支払いが記されており、それらは大砲そのものやそれに関連する素材、砲弾、火薬、それ以外の装備といったものに分けられる(Tab. 1)。騎士団はマリーンブルクで自前で大砲を鋳造していたため、素材の金額だけでは門数は分からないが、戦争が近づくとやはり増える傾向はあったようだ。1409~1411年の
大戦争の直前には特にそれが目立っており、1400年時点では支出全体のうち火器関連が占めていたのはたったの0.02%に過ぎなかったのが、1408年には6.94%、1409年には4.1%とかなり高い割合まで増えている(p170)。
支払いは各種の材料だけでなく、その製造に当たる職人たちにも支払われていた。それどころか騎士団の中には砲兵親方と呼ばれる者たちも何人がいたようで、彼らは同時に鐘の鋳造にも当たっていた。最も有名なのはハインリヒ・ドゥメヒェンという人物だそうで、彼は1409年には妻も参加させて火薬の製造にも携わったそうだ。また鍛鉄製の火器も製造されていたようで、鍛冶職人に対する支払いの話も出てきている。
製造された大砲の種類も色々だ。矢を撃ち出すボルトガン、拳サイズの石弾を撃ち出す軽砲、頭サイズの石弾を撃ち出す大砲、鍛鉄製大砲、鍛鉄製の鉛弾を撃ち出す大砲、小さな真鍮製の鉛弾を撃ち出す大砲などなど。テラス・ガンや後装式のヴグレールについての言及もある。中でも1408年にマリーンブルクで製造された大型砲は、材料に13トンも使われていたという推測があるそうで、同じ15世紀に製造されていた各種の大型砲ボンバルドと同じようなものがドイツ騎士団でも作られていたと見ていいだろう。他にもそれより少し小型の「城壁破壊者」という名で呼ばれた大砲もあったようだ。もちろん小さい方、つまりハンドゴンやハックブートなども存在していた。
最後の方ではクルツェトニクの大砲についての成分分析が紹介されている。要は青銅や真鍮ではなく、不純物を除けばほぼ銅製の大砲であったのが最大の特徴だったようだ。騎士団の文献史料にはそういう大砲が製造されていると記されていたが、研究者の間ではこれは青銅を意味するのではないかとの見解もあったようで、そうした問題にケリをつけたという意味でも興味深い研究だったのだろう。個人的にはドイツ騎士団の火薬兵器についての知見の方が面白かったけど。
素材のうち銅は主に上ハンガリーから、鉄はスウェーデンから騎士団が組織的に買い取っていたようだが、地元の職人から購入する場面もあった。火器の製造は基本的に騎士団内部で行われていたことは上にも指摘した通りだが、後期になってその生産能力が低下した時期には出来合いのものを購入する動きも出てきたようだ。騎士団ではなくプロイセンの諸都市になると、外部から仕入れる動きはより多かったという。
製造の中心は上にも述べた通りマリーンブルクの騎士団本部だったが、他にもダンツィヒ、エルビンク、トルンなどが製造を担うことがあり、騎士団の末期にはむしろケーニヒスベルクが中心的役割を担った。砲弾の製造はそれよりは分散されており、ケーニヒスベルク、ダンツィヒ、トルン、ラビアウ(ポレスク)、シェーンゼー(コヴァレヴォ・ポモルスキエ)などが製造拠点となっていた。火薬の製造になるとさらに色々なところで行われていたようだ。火薬の材料のうち、木炭は騎士団領内で調達された。
火器に関する専門家については、上にも述べたように騎士団員の中にも存在した。彼らは単に製造に携わるだけでなく戦場での使用にも関わったようで、この辺りは
西欧のギルドメンバーたちと通じる役割を果たしていたのだろう。マリーンブルクには大工、大砲、鍛冶、攻城兵器、さらに鋳造といった機能を持つ工房があったようで、そうした現場で働く職人たちはドイツ騎士団領だけでなく外国から来た者たちもいた。他に石工、車大工、金細工師、縄づくり、大工、カート職人、木挽きといった職人たちも仕事をしていた。
騎士団ではなくプロイセンの都市についても、彼らのために大砲を製造する職人に関する言及がある。彼らの一部は騎士団領で製造拠点となっている町から来たようだが、中には地元の職人がその仕事を担う場面もあったようだ。やはり石工や鐘職人、鍛冶師といった面々がそうした作業を委ねられた。それらも含めるとドイツ騎士団領で火器を手に入れるルートはかなり多様だった。
ドイツ騎士団は可能な限り武器を自給しようとしたが、完全な自給はどうしても無理だった。地元では手に入らない金属などの素材に加えて製造を手掛ける職人は欠かせず、それらを集権的に手掛けようとすると高価で複雑な工房を自ら維持しなければならない。それでも彼らはその状態をしばらくは続けたわけで、結果として東欧に火薬兵器を広げる役割を彼らが担うような形になったのは興味深い。もちろん彼らがいなくてもいずれ火薬兵器は東へと伝播したと思うが、軍事技術の広がり方の一例として見るとなかなか面白い話だ。
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