アッシリア騎兵

 前にちょっと触れたが、アッシリアの騎兵に関してまとめたCavalries In The Neo Assur Army (Pithaillu)という文章が面白かったので簡単に紹介しておこう。オリエントを最初に統一したアッシリアの軍についてはwikipediaにも妙に詳しい記述があったりするように、色々と興味を集めるテーマのようだ。またこの時代が騎兵の時代の始まりを告げた時期であることも踏まえるなら、そこで騎兵がどのように変わってきたかざっくりと知っておいてもいいだろう。

 アッシリアでは紀元前第1千年紀には騎兵が登場していたが、それが常備兵的な部隊として整えられたと見られているのは紀元前9世紀前半のアッシュルナツィルパル2世の時代だ。この時期のレリーフには弓騎兵の隣に青銅製の円盾と剣、槍で武装したもう1騎の騎兵が並んで描かれているのだが、よく見ると弓騎兵が弓矢を構えている一方でもう1人が弓騎兵の乗る馬の手綱を操っているのが分かる(Drawing 1)。このレリーフはWikimedia Commonsにもあるので、そちらの方が判別しやすいかもしれない。
 この2種類の騎兵は彼の時代からその後のシャルマネセル3世を経て8世紀のティグラト・ピレセル3世の頃まで、どうやらペアを組んで戦うのが通例だったらしい。この時期はアッシリアの主力がチャリオットから騎兵へと移り始めた時代のようで、9世紀の国王たちは引き続き「チャリオットと兵士」たちを率いたと記録に残されているが、アッシュルナツィルパル2世の文章には「騎兵」の言葉も使われるようになっていった。
 9世紀の中頃には敵が数百から1000を超える騎兵を投入したという記述が登場するようになり、アッシリアが勝利して数百の騎兵を奪ったという文章も出てくる。シャルマネセル3世はチャリオット用の馬匹2002頭、それ以外の馬匹5542を手に入れたという話もあるし、9世紀後半のシャムシ・アダド5世も200頭の騎兵を捕らえたという。どうやら9世紀前半には山がちな地域でまず騎兵が使われるようになり、同世紀後半には中東の広い地域に伝播したようだ。
 ティグラト・ピレセル3世の時代の記述によれば、騎兵の仕事はチャリオットが活動しにくい地形で行動することのみならず、敵を追撃することもあると書かれるようになった。この時代の騎兵のレリーフを見ると彼らは槍で武装しており、また9世紀のレリーフに比べると膝をあまり曲げていないように描かれているが、一方で鞍らしきものは見当たらす、彼らがそんな騎乗方法を取っていたのかはちょっと判断がつかない。
 さらに後のサルゴン2世時代(8世紀末期)になると騎兵の数は大きく増えたようだ。そしてこの時期になると、簡単な革製の鞍が割と明確に描かれるようになる(Drawing 5-6)。また武器としては槍の他に弓矢も持っており、さらに弓矢の構え方が頭上に持つ方法だけでなく、下手に構える格好で描かれたレリーフが登場するようになる(Drawing 6-7)。
 続くセンナケリブの時代(8世紀末から7世紀初頭)になると、これまで2頭のペアで描かれていた騎兵が単独で描かれるようになる。鞍はよりはっきりと描かれるようになり、鎧を身にまとっていることもわかる(Drawing 8)。またこの時代の騎兵は正面に槍騎兵が展開し、その背後から弓騎兵が矢を射かけるという描き方をされるようになった(Drawing 10)。騎兵の戦い方がより組織的になっていった様子がうかがえる。
 次のエサルハドン(7世紀前半)の時代になると、今度は馬に防具を着せるようになっていった。また弓騎兵と槍騎兵は軍の両翼に展開し、敵の逃走を防ぐ役目を担ったという。騎兵が役に立ったのは山や森といった地形の場所だった。そして最も有名なアッシュールバニパルの時代(7世紀半ば)になると、馬は革製の防具で胸や背中、臀部を守られるようになった。実際には胸の部分の防具が一部だけをカバーしているタイプ(Drawing 11)とほぼすべてを覆っているタイプ(Drawing 12)の2種類があったという。
 アッシュールバニパルが行ったウライの戦いを描いたレリーフ(Figure 1)では、チャリオットと騎兵がエラム軍の左翼を攻撃している様子が描かれている。騎兵は攻城戦に直接使われることはなかったが、連絡線を守ったり敵の奇襲に備えたりといった重要な役割を果たした。会戦に際しては弓矢で敵を悩ませ、その周囲を駆けまわって戦線のほころびを突き、そして敵が逃げた場合にはそれを追撃するのも騎兵の仕事だった。
 全体として、当初は鎧、槍、盾、重いブーツといった武装をした普通の兵を馬に乗せていた初期の騎兵から、より機動力を発揮するために鎧は腰までに、盾は小さくなり、また馬の上でバランスを取るために革製の鞍や毛布、それらを固定するためのストラップも使うようになった。後に彼らは両脚で馬を挟んでコントロールする方法を覚え(Split Seatのことか)、それによって馬上で弓を射ることができる弓騎兵が増えた。
 実際に彼らの戦争に参加していたのはアッシリアの騎兵だけではなかったようだ。付属部隊として小部隊による襲撃用の騎兵、奴隷が乗る牝馬部隊、そして士官たちが監査任務を行なう際に載っていた騎兵もあったという。これらは国王に情報を伝えるという仕事も担っていたようで、もしかしたら偵察を兼ねていたのかもしれない。より騎乗に慣れた遊牧民(キンメリア人など)の傭兵も使われていたという。
 アッシリアの時代に騎兵が重要さを大きく増していったのは間違いないだろう。彼らは偵察だけでなく、国境の守備や見張りという役割も担い、また税を払わない者たちを捕らえるという警察的な仕事も果たしていたそうだ。彼らだけが騎兵を使っていたわけではないが、既に金属製のハミを持ち、裸馬から次第に鞍を発達させていったこの時代に騎兵が時代を画する兵器になっていったのは確かなんだろう。

 あとHorse Ammunition. from the History of a Saddleという文献も紹介しておく。アブストを見ると、馬匹を乗馬目的で使うようになったとの一緒に最も古い形のシートが姿を現わしたと筆者が考えていることが分かる。特に紀元前8~7世紀に西アジアでキンメリアやスキタイの騎兵が生まれたのは、初期の鞍があったからというのがその主張。アッシリアのレリーフにそうしたものが見られるとそこには書かれている。
 よりユーラシア東部に近い紀元前5世紀のパジリク文化になると鞍はより複雑になり、紀元前3世紀の始皇帝兵馬俑に描かれている鞍にもその様式が伝わっているという。そして西方ではスキタイにおいて紀元前4世紀後半には木製の鞍が生まれた、というのがこの文章の結論だ。
 採録されている図で最も興味深いのは、紀元前9世紀のキンメリア騎兵を描いたとされるFig. 5だろう。その座り方はChair Seatっぽい一方、彼らの尻の下には毛布のような簡易型の鞍っぽいものが描かれている。おまけに彼らの中には後ろ向きに矢を射る「パルティアン・ショット」をしている姿も見られ、馬上で安定した姿勢を取れないと難しい行動を取っていたように思える。このレリーフが本当に9世紀のものであるのなら、遊牧民はアッシリアより前に鞍らしきものを生み出していたことになる。一応、Scythian Antiquities in Western Asiaではこのレリーフをアッシュルナツィルパル2世時代のものとしている(p190-191)。
 いずれにせよ紀元前第1千年紀の前半のうちにおそらく西ユーラシアのどこかで初期の鞍が生み出されていたことは間違いないのだろう。アッシリアはそうした技術を後から取り入れたとも考えられる。そしてその技術は紀元前第1千年紀の後半には東ユーラシアにも伝わり、その頃までにはChair Seatよりも馬上で安定した姿勢を取れるSplit Seatも一般化していたのだと思われる。もしかしたらChair Seatでも馬上で弓を射ることができるような器用な人間も遊牧民の中にはいたかもしれないが、弓騎兵が安定した軍勢として使えるようになったのは初期の鞍が生まれたあたりから。そしてその技術を生かして最初の大帝国を作ったのがアッシリアだった、と考えてもいいのかもしれない。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント