ロシア経済について野村総研のコラムがいくつか触れている。1つは
「歯止めがかからないルーブル安とロシア中銀の大幅金融引き締め」で、足元のルーブル安の背景には経常黒字の縮小と悪化が続く財政収支とがあるそうだ。ロシアからの外資撤退や、インフレを受けてロシア国民が外貨建て資産にシフトしているといった事情も働いている。ロシア政府は中央銀行を批判しているそうで、経済分野でも失敗の責任の押しつけ合いが始まっているのかもしれない。8月中旬にロシア中銀が唐突に政策金利を大幅に引き上げたのも政治的な圧力のせいかもじれず、その場合は「経済、金融の安定回復がより難しくなってしまう」可能性もあるとの見立てだ。
さらに
「労働力不足でスタグフレーションの様相を強めるロシア経済」という分析もある。ルーブル安、物価高、通貨防衛のための利上げにともなう景気抑制という「三重苦」に直面していることに加え、人手不足が深刻になっている可能性を指摘。特に動員逃れのための出国が100万人に達しており、彼らが若く80%は高等教育を受けているために「頭脳流出」がロシアの将来の成長性も奪っているという見方だ。結果、ロシアでは民間の活動は縮小し、財政で支えられている軍事関連の比率が高まっているというのがこの分析となっている。
レポートではまずロシアからの大量出国を100年前のロシア革命当時と比較。すぐに当時の規模を超えるだろうとしたうえで、欧州がそれにどう対処すべきかという視点で分析している。まずは過去にロシアを出た人々について「ロシア系専門家」と「プロのロシア人」に分類。前者は移転先の社会に溶け込んで経済的にも貢献しているのに対し、後者はロシアの言い分を支持する政治勢力を出国先で形成し、特に西欧での極右の勢力増大に寄与しているという。
続いて最近の出国者(移転者と呼ばれている)について、彼らが若く高学歴であること、また人口比では1%に満たない彼らの出国に合わせるようにロシアの預金の11.5%が流出したことなどを紹介。彼らの大半は人口50万人以上の都市で暮らし「グローバルなアッパーミドルクラス」の生活に馴染んでいた人々で、ロシアより経済的には発展していない旧ソ連諸国(カザフスタン、ジョージア、アルメニア)などで生活をしているためそれらの諸国の経済を足元で大きく成長させているという。その大半はあくまで短期間の出国で済むと当初は考えていたそうだ。
だが戦争が始まった直後に出国した者はもとより、昨秋の部分動員の時に逃げ出した者たちも含め、彼らは簡単には帰れなくなっている。少なくとも「プーチンが生きている限り」は難しいのだそうだ。ただしロシア革命時の反革命派(ロシア社会から居場所をなくしていた)とは異なり、彼らはプーチンさえいなくなればまだロシアに帰れると考えているし、ロシアを見捨てているわけでもない。100年前とも、あるいはウクライナ戦争前に出国した「ロシア系専門家」や「プロのロシア人」とも異なる性格の持ち主たちだ。
彼らの出国は、まずロシアの都市部におけるアッパーミドル向けの商売(高級住宅や贅沢品、レストランなどの各種高級サービス)に大きなダメージを与えている。また流通業や編集、映画制作、デザインなどの分野で男性の労働者が姿を消し、人手不足のため女性を雇うか少ない男性に高額な賃金を払う必要が生じてきた。特に深刻なのは10万人が出国したと言われるIT産業で、こちらは2023年初頭から企業側が帰国を命じるようになった結果として帰国しない技術者が労働力として使えなくなってきている。教育者や研究者、あるいは著名な文化人といった人々も国を追われ、そして既に進んでいた少子化もあって今や現在の人口を維持するためだけに毎年100万人以上の移民を受け入れなければならない計算だ。
もちろんクレムリンはあの手この手でこの国外への「移転」を止めようとしている。IT技術者に長期の契約を提示する一方、ロシアにある資産から所得を得ているものにはその所得に高い税率を課すといった行動も取っている。出国者の中には必ずしもグローバルに通用する技術を持っていない人々もおり、そうした者たちが収入源を絶たれると「新たな下層階級」になる恐れもある。どうやらロシア政府は国を出ると決めた者たちをロシア社会から永久に排除するつもりであるらしい。もちろん彼らがいなくなればロシアのGDPはそれだけで1%強ほど減る見通しだが、プーチンは「エネルギー資源、カネ、兵士」以外は必要ないと見なしているそうだ。まさに収奪的権威主義の面目躍如といったところ。
ではプーチンに見捨てられようとしているこの人々はどうなるのだろうか。現時点でEUにとって彼らはあまり大きな問題になっていない。ロシアの活動家によると「移転者」の6〜8%しかEU域内に来ていないうえに、この数字ですら過大評価と思われているそうだ。全体の8割は旧ソ連のジョージア、カザフスタン、アルメニア、キルギスや、後はトルコ、イスラエル、セルビア、モンテネグロといった地域におり、言わば「欧州の門前」で待機している状態にある。しかし事態が長期化すると、これらの国々は彼らにとってあまり望ましい地域ではなくなる。ロシア革命時の亡命者たちも最初はトルコやギリシアにいたが、後にパリ、ベルリン、プラハなどへ移動した。
次にこのレポートは、現時点でEU域内に逃げ込んでいるロシア人たちが基本的にロシア内では少数の反体制派である点を指摘。彼らは民主主義的な活動家であるが、戦争前からずっとそういう活動を続けて結局のところプーチン体制を崩せなかった者たちでもある。今や彼らは親ウクライナ派でありロシア人の多くからは「裏切り者」と見なされている。EUが彼らの言い分に引きずられることは、プーチン体制がなくなることは期待していてもロシアそのものには愛着のある多くの「移転者」たちを切り捨てることにつながりかねないわけだ。
そうではなくEUはむしろ移転者たちこそ域内に迎え入れるべきだ、というのがレポートの主張。彼らはロシア国内では裕福な層であり、IT技術者を始め経済的にも有用な人材が多い。40万~50万人の移転者をEUに迎え入れれば、数年間は毎年200億~300億ドルの資金が流れ込む、というのがこのレポートの試算。また彼らはロシア国内に家族や友人を残しており、彼らが歓迎されていることを自国の知り合いに伝えることでロシア国内でのクレムリンによるプロパガンダを無効化することも期待できる。逆に彼らを迎え入れた国にいる「プロのロシア人」コミュニティにはプーチン政権の実態が情報として伝わり、そうしたコミュニティの右傾化を食い止められる。
EUはウクライナでの戦争が始まって以来、ロシア人全体の入国を食い止めるような手立てを講じている。だがそうではなく自発的にロシアを出た若い世代を迎え入れ、彼らと「欧州の価値」を分かち合うようにすれば、彼らはすぐ「欧州のロシア人」になる。それこそロシアを欧州に、ひいては現代世界に引き戻す唯一の力になる、というのがレポートの結論である。
以前
こちらで紹介した書籍には、研究者の見方としてロシアの方が中国より専制政治から脱する可能性が高いのではないかとの話が載っていた。ロシアは欧州の価値観に触れる機会が多かったからというのが理由の一つで、このあたりはレポートの筆者と似た見方に思える。要するにクレムリンに対しては北風で、しかしロシア人(それも国外に逃げ出している人々)に対しては太陽で臨むべきという議論だろう。
その指摘自体には特に異論はない。しかし実現性はどうだろうか。少数の人間だけなら政府が歓迎することで移転者にいい感情を持ってもらうことも可能だろうが、100万人にも達するような人間を(全部ではないとしても多数)迎え入れる場合、彼らと直に向き合うのは政府関係者ではなくEUの普通の市民たちだ。アラブの春以降、急激になだれ込んだ移民のせいで様々な分断に見舞われた欧州の市民たちが、今度はイスラム移民よりも宗教は近いが数的に大量のロシア移民を受け入れる場合、果たしてレポートが期待するように「欧州の価値を分かち合う」ような態度で彼らを歓迎するだろうか。
移転者たちがEU域内に入れたとしても、そこで地元住民から嫌われた結果として既存の「プロのロシア人」と同じように極右運動に流れ込むような事態になれば、迎え入れた国にとってもむしろマイナスだろう。レポートではプラス効果ばかりを述べているが、EUの政治家は当然ながらそうしたマイナス効果も考えて判断を下すはずだ。結果、旧ソ連などに滞留している「移転者」たちは行き場のないままさまよい、自分たちを拒絶した西側への不信を募らせるかもしれない。
労働者を呼んだが、やってきたのは人間だった。この問題がある限り、たとえ経済的にプラスになり、プーチン体制を掘り崩す効果が期待できるとしても、そうそう安易に「移転者」を呼び寄せるわけにはいかないのではないか。正直ロシアを「欧州に、ひいては現代社会に」引き戻すよりも、当面はロシアが「大きな北朝鮮」化するのを傍観するというのが、ありそうなシナリオに見える。
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