リニーとキャトル=ブラ 5

 リニーとキャトル=ブラの戦いについて、de WitのThe Campaign of 1815の第3及び第4巻では「後知恵」を排したうえでなお両軍にあったと考えられる判断ミスを指摘している。例えばフランス軍については朝方の動きの鈍さだ。
 ナポレオンは午前4時前には起きており、ケレルマンへの命令と、ネイに対して第1及び第2軍団の位置を知らせるようにとの命令が5時前に出されている(Volume 3, p18)。ネイはこの命令に対する返答を午前7時には記しているし(Volume 4, p9)、右翼では騎兵予備指揮官のグルーシーが午前5時には司令部宛てに報告書を書いている(Volume 3, p10)。要するにフランス軍は5時前には既にいろいろと動き出していたと考えられる。
 ところがナポレオンがこの日の方針について固めたのは7~8時になり、それを受けてスールトが命令を出したのは8時頃、さらにナポレオン自身がネイやグルーシーに自身の意図を含めた説明の手紙を出したのは8時から9時の間となった(Volume 3, p19)。この命令が伝わり、それに合わせて各部隊が動き出すまでには当然ながらさらに時間を要する。例えばヴァンダンムの第3軍団は9時に命令を受け取り、1時間後に動き出して11時にフルーリュスから敵に姿を見せた。まだサンブル右岸にいたジェラールは9時半に命令を受けてから動き出したが、戦場に近いボーレの風車に到着できたのはやっと午後1時だった(p13-14)。
 もしナポレオンがもっと早く、目を覚ました直後に方針を固めていたらどうなっただろうか。命令が出される時間は2~3時間ほど前倒しされ、ヴァンダンムは8~9時にフルーリュスに姿を現していた計算となる。この時間帯、既にプロイセン第1軍団はリーニュの背後に退いていたと思われるが、第2軍団はまだマジーとオノの間の宿営地を出発したばかりでソンブルフに到着していなかった(Volume 3, p43)。第3軍団はさらに遠方にいたわけで、プロイセン軍の集結が完成する前にフランス軍が第1軍団を攻撃する展開もあり得ただろう。
 もし第1軍団がリーニュの背後に退く前にフランス軍につかまっていれば、彼らは容易にフランス軍の餌食になっていた可能性がある。うまく逃れたとしても単独でフランス軍に対峙したツィーテンがさらに後ろへと押し戻されたなら、ソンブルフへの集結は不可能になってブリュッヒャーはさらに遠方(例えばジャンブルー)での集結を余儀なくされたかもしれない(Volume 4, p158)。プロイセン軍と英連合軍の連絡線となっていたナミュール―ニヴェール街道はフランス軍によって分断され、両軍の連絡はより難しくなる。ウェリントンにとってはキャトル=ブラにとどまるメリットがほとんどなくなるわけで、彼らがさらに後退した可能性もあっただろう。
 この戦役を通じ、特に朝方のフランス軍の動きが鈍かったことはしばしば指摘されている(例えば17日の朝)。16日の朝についても同様であり、その理由をナポレオンの健康のせいにしている研究者もいるらしい(La Critique de la campagne de 1815など)。もちろん、実際の彼の健康がどうだったかは不明だ。

 逆に後知恵まみれなのが、ウェリントンはブリュッヒャーを騙したという説である。第4巻の第4部は大半がこの説を巡る議論に使われており、逆に言えばそれだけワーテルローの歴史叙述に後知恵が深い爪痕を残していることを示す形になっている。
 ウェリントンがプロイセン軍に嘘をついたという話は、早くもリニーの戦いの翌日には登場していた。ブリュッヒャーが国王宛てに記した手紙には「推測と約束にもかかわらず、ウェリントン公の軍は敵に対して連携するのに十分なだけ集結していなかった」という文言があるし、グナイゼナウもクライストに対して「もし合意していたように第4軍団あるいはウェリントン公が戦いに参加していれば、完全な勝利に終わっていただろう」(Volume 4, p195-196)と書き記している。
 これらの言い分については、敗北の責任について説明する必要に追われたプロイセン軍首脳による文章である点にまず注意が必要、というのがde Witの考えだ。そのうえでブリュッヒャーが述べている「推測と約束」のうち、推測は戦役前から取り組んでいた両軍の協力を踏まえたものであり、そして約束は戦役中にウェリントンが行ったものだと指摘。後者の具体例としてはミュフリンクが15日午後7時にプロイセン軍司令部に宛てた手紙が当てはまるとしている。
 その手紙でウェリントンが「約束」したのは、敵が同時にニヴェール付近を攻撃してこない場合、ウェリントンはブリュッヒャー支援のため16日には全軍をニヴェール付近に集めるか、敵が既にブリュッヒャーを攻撃している場合は敵の側面か背後を攻める、という内容だ(Volume 2, p174-175)。基本的には条件付きの約束であり、地名への言及はないもののウェリントン自身が攻められた場合はプロイセン軍を支援するという約束は成立しなくなるように見える。
 戦役中の約束としては、他にブリーの風車で両軍の司令部がどんな話をしたかがよくテーマになる。de Witは付録の1章をこの話題にあてて分析をしているが、彼が想定する流れは①フルーリュス付近に展開しているフランス軍の動向②ウェリントンの提案(フランス軍の背後を突く)③プロイセン側の拒否④ウェリントンが自分の役割について希望を聞く⑤プロイセン側の提案(ニヴェール街道沿いの支援)⑥ウェリントンの反応と両者の合意――といったものだ(Volume 4, p216)。
 そのうえでde Witはブリーの会合から10日以内に書かれたプロイセン側の各種文章を順番に紹介(Volume 4, p221-224)。ウェリントンの約束が戦役前の大雑把なものから、15日にミュフリンクが書いたニヴェールからの敵背後への攻撃に変わり、そして最後にブリーの会合で合意したキャトル=ブラからニヴェール街道を経ての支援にシフトしたとの解釈を示している。実際には最後の約束はキャトル=ブラへのフランス軍の攻撃によって実行不能となったわけで、英軍による約束の不履行はいわば不可抗力によるものだった。
 プロイセン側の歴史家の中には「ウェリントンの約束があったからプロイセン軍はリニーで戦うことを決めた」(Volume 4, p165-166)と主張している者もいるが、これもde Witは否定している。15日の昼に最初にプロイセン軍司令部がウェリントンに伝えた手紙の中で、「あすには軍はソンブルフ周辺の陣地に集結する。公[ブリュッヒャー]はそこで戦いを受けるつもりだ」(Volume 2, p120)という文章があることなどが理由だが、それに加えてブリュッヒャー自身がウェリントンを支援する約束を戦役前にしていたこともある。
 前にも書いた通り、ナポレオンがプロイセン軍を最初に攻撃することが分かったのはようやく16日の午前11時になってからだ。それ以前の段階ではプロイセン軍が攻撃を受けて英連合軍がそれを支援するのか、それともナポレオンが英連合軍を先に攻撃し、お互いの役割が入れ替わることになるのかはわからなかった。ブリュッヒャーがフランス軍に近いソンブルフ周辺に軍を集めたのは、ウェリントンが攻撃された場合に彼を支援できる位置に自らを置くためという狙いもあったため(Volume 4, p163)。ブリーで話し合われたのが「支援するか否か」ではなく「どう支援するか」だったのも、事前の約束で相互支援自体は決定済みだったからだ(p216)。
 そのように考えた場合、ウェリントンが自軍の集結時間を稼ぐためにプロイセン軍を騙したという説に無理があるのは理解できるだろう。ナポレオンがどちらを攻撃するかは昼近くまで連合軍の誰も知らなかったし、そもそも16日に攻撃が行われるかどうかも不明だった。ウェリントンが部隊の集結を一向に急いでいなかったのも、彼がナポレオンの動きの速さを想定しきれていなかったためではないかとの話は前に述べた。もし本当に時間を稼ぐ必要があったのなら、プロイセン軍を騙すよりそもそも自軍の集結を急がせる方が優先されるはず。キャトル=ブラの戦い開始後に慌てて部隊の集結を命じている点から、ウェリントン自身が油断していたと考える方が辻褄が合う。
 もちろんウェリントンの対応に疑問を抱かせる部分がなかったわけではない。最大の問題は16日午前10時半に彼が書いたフラーヌ・レターだ。この内容についてde Witは詳しく分析している(Volume 4, p172-174)のだが、第1軍団は比較的正確にその位置について触れているものの、予備(特に騎兵)については楽観的過ぎる内容となっており、第2軍団に至っては明白に嘘が書かれている。実際の第2軍団はフラーヌ・レターに書かれているほど集結が進んでいる状態からは程遠かった。
 de Witはこの手紙について、ウェリントンがフランス軍との会戦を翌日以降と見ていたことが背景にあると分析している。実際に敵と遭遇するのが17日だとすれば、フラーヌ・レターに書かれていた各部隊はそのほとんどがキャトル=ブラ周辺に集結を終えることができていたはずで、途中段階での部隊の移動が書類と前後していたとしても同時代人も後世の歴史家も大して気にはしなかっただろう。ところが実際にはウェリントンの予測とは異なり、フランス軍は16日のうちに連合軍に襲い掛かってきた。かくして彼自身、慌てて各部隊を呼び寄せなければならない事態に陥ったわけだ。
 結果、戦後になってこの手紙は「ウェリントンの陰謀」説を支える材料の1つとして使われることになった。実はさして深く考えることなく、同盟国に対して「きちんと支援するよ」という姿勢を見せるために景気よく盛り上げて書いただけかもしれない手紙が、200年以上後になっても後世の論争を招いているのだとしたら、なかなか愉快な話だと言える。
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