リニーとキャトル=ブラ 3

 de WitのThe Campaign of 1815の第3及び第4巻の紹介続き。16日にリニーとキャトル=ブラで戦いが行われることを両軍が認識したのは午前の遅い時間になってからであることは前回述べた。それ以前の時点でナポレオンが想定していた作戦は同日午前8時から9時の間にネイに書き記した命令(Volume 3, p24-26)からうかがえる。皇帝はネイに、配下の第1及び第2軍団のうち1個師団をキャトル=ブラ北方、6個師団をキャトル=ブラ周辺、そして1個師団をマルベに配置するよう求めており、マルベの師団については必要に応じてソンブルフに呼び寄せると書いている。
 この命令を受け取ったネイが11時に記した返答(Volume 4, p11)には微妙に異なる配置が書かれているが、基本的にキャトル=ブラ周辺に部隊を展開させるという点では皇帝の意図に沿っている。さらにネイはここで、キャトル=ブラに連合軍の歩兵3000人の少数の騎兵がいることも知らせている。この報告がナポレオンに届いたのは正午過ぎ(Volume 3, p29)。それからナポレオンは戦場を視察し、作戦計画を立案した。その際にはフルーリュスを軸に右翼を前進させる必要があったという(La campagne de 1815 aux Pays-Bas, Tome III, p455)。
 正面のプロイセン軍攻撃を決めた帝国司令部は、午後2時にネイに短い命令を出している(Volume 3, p49)。そこではネイに対し、まず正面の敵を押し込んだ後で、「ソンブルフとブリー」にいるプロイセン軍の背後に回り込むよう求めている。これがこの日のナポレオンによる基本計画と考えていいだろう。ナポレオン率いる部隊(グルーシーの右翼と親衛隊)が金床となり、ネイがハンマーになって両者の間に挟み込んだプロイセン軍を打ち破るという作戦だ。
 de Witによるとナポレオンはネイが11時から正午の間に前進を開始すると想定。午後2時に出した命令が到着する午後4時には彼がキャトル=ブラにたどり着いていると見ていたそうだ。命令に従ったネイがリニーの戦場にたどり着くのはおそらく午後6時から6時半頃。ナポレオンが予備の出撃準備を始めたのが午後5時半頃だった点からも、ナポレオンが考えていたスケジュールはこんな感じだったと思われる(Volume 3, p136-137)。
 実際にはナポレオンは2時だけでなく3時15分にもリニーへの攻撃を急ぐよう新たに命令を出している(Volume 3, p73)。この時点では2時に出した命令の返答も来ていないし、逆にこの命令を受けてネイが命令通りに動いたとしても彼らがプロイセン軍の背後に到着するのは午後7時半から8時頃になる見通しで、正直あまり効果のある命令ではない(むしろこの命令が後にデルロン軍団の彷徨を招いたとも言える)。プロイセン第3軍団が前進してきて彼の視野に入ってきたため、あるいはジャナンの報告が届いたことでナポレオンがネイを急がせる必要を感じたため、などの理由が想定される。
 いずれにせよナポレオンの想定通りにはいかず、マルベ経由でのプロイセン軍包囲はできなかった。代わりに現れたのがデルロン軍団だったのだが、ナポレオンはこの部隊をワニュレ経由でプロイセン軍の右側面から迂回させることは考えなかったようだ(Volume 3, p137)。結果、ナポレオンの予備部隊はリニー村を突破するのに成功したが、それ以上の圧力をプロイセン軍にかけることはできず、彼の勝利は不完全なものとなった。ナポレオンがデルロン軍団を使わなかった理由は不明である。

 ナポレオンが画竜点睛を欠いたとしても、プロイセン側が犯した失敗に比べればマシだったと言える。de Witがまず最初に指摘しているのは、この日のプロイセン軍の布陣はグレーベン覚書に従ったものと思われる点。この覚書ではソンブルフとトンリヌ方面に第2、第3軍団が展開して防衛線を敷き、ブリーからリニーにかけた高地に第1及び第4軍団が展開してそこからフランス軍左翼に攻撃を仕掛ける(必要なら第3軍団もそれを支援する)、という策を提案していた(Volume 3, p50)。
 実際には第4軍団は戦場に間に合わず、結果としてソンブルフの防衛線には第3軍団のみが展開し、ブリーの高地に第1及び第2軍団が布陣する形となった。だがこの計画には、左右の両翼がかなり分断されるリスクと、さらにブリーからフランス軍左翼へ向けて進発することになっている攻撃がリーニュ川とそこに沿って並ぶ村々(ワニュレやサン=タマンなど)によって進路を塞がれる、という弱点があった。そしてこの弱点を実際にさらけ出すことになったのが、ナポレオンが会戦前に行った「フルーリュスを軸に右翼を前進」させるという布陣の変更だ。
 フランス軍が北東方面に正面を向けると思っていたプロイセン軍は、彼らがむしろ北西のリニーやサン=タマンに向き直ったことで大騒ぎに陥ったようだ。プロイセン第1軍団のツィーテンは朝方、リニーやサン=タマンの村を占領しておくよう配下の旅団に命令していたが(Volume 3, p41)、なぜかサン=タマン村もリニー村もほとんど空っぽで、フランス軍がこれらの村の正面に隊列を敷いたところで慌てていくつかの部隊が送り込まれたという。
 この命令無視がなぜ生じたのかはわからない。1つの可能性としてde Witが指摘しているのが、ナポレオンが彼らに向き直るまでプロイセン軍はナミュール―ニヴェール街道上にいていつでもウェリントン支援のため移動できるようにしていたのではないか、という説だ(Volume 4, p165)。確かにこれならプロイセン第1軍団がリーニュ沿いの村に展開しなかった理由の説明にはなるが、でも実際にツィーテンが出している命令が無視された理由として十分かと言われるとそうとは思えない。そもそも彼らの目の前にナポレオンの主力が既に姿を見せていた段階で今更ウェリントン支援のために移動準備をする必要があるだろうか。
 こうした初期配置の問題はプロイセン軍の防衛能力を損なった。それに加えて生じたのが、おそらく戦闘中の方針の変化だ。おそらくはブリュッヒャーのせいだろうと思われるが、あくまでフランス軍の攻撃を受け止め、英連合軍の支援を待つのが主な役割だったはずのプロイセン軍は、途中から単独でもフランス軍左翼へ攻撃を仕掛ける方に態勢がシフトしていった(Volume 3, p148)。結果、プロイセン軍はどんどん右翼の比重が増し、その分だけ中央(リニー)方面の兵がそちらへ吸い取られていった。
 ナポレオンが予備を率いてリニーへと前進を始める直前の時点で、プロイセン軍は右翼に4万1000人もの兵を集めた一方、中央には1万9000人、左翼は2万1000人にとどまった。これに対しフランス軍は左から最前線に2万7000人、8600人、1万人と並べており(Volume 3, p139)、少ない戦力でプロイセン軍を引き付けることに成功していたのが分かる。結果、親衛隊はリニーのプロイセン軍を突破するのに成功。もしネイがプロイセン軍の右後方から襲い掛かっていたら、彼らの右翼がかなりの損害を受けたであろうことは想像に難くない。
 といってもプロイセン軍は最初から右翼で攻撃に出るつもりだったわけではなく、サン=タマン=ラ=エイやサン=タマンを巡る争いの中で次々と兵力をこの方面に投入せざるを得なくなった面もある(Volume 3, p148-149)。彼らが積極的に攻撃に使おうとした兵はワニュレに投入された部隊くらいで、この方面からは午後4時頃(p82-83)、及び午後6時頃(p105-106)にそれぞれサン=タマン=ラ=エイへの攻撃が行われている。
 それでもプロイセン側が必要以上に攻勢に傾いていたのは事実。ブリュッヒャー自身も2回の攻撃を自ら率いており(Volume 3, p154)、司令官としては慎重さに欠けていたと言わざるをえないだろう。もしプロイセン軍がワーテルローにおけるウェリントンのように防御に徹していたなら、16日のうちに戦いに決着がつくことなく、17日にはビューロー軍団の増援を受けた状態で戦いを継続できていたかもしれない(Volume 4, p208-209)。
 戦闘を通じて逐次投入された第1及び第2軍団の各部隊が入り乱れ、指揮系統が混乱したのもプロイセン軍の問題の1つ(Volume 3, p152)。このため最前線に投入された部隊が隣接する別部隊とうまく連携が取れなくなってしまい、フランス軍の反撃に対して有機的に対応する能力が奪われた。de Witは第1軍団を右翼、第2軍団を中央、第3軍団を左翼という形に配置する方がよかったのではと指摘している。ただでさえ後備兵を数多く含むプロイセン軍は単位当たりの戦闘能力ではフランス軍より劣っていたようで(p151-152)、それらをバラバラに投入したことが兵力に勝るプロイセン軍が敗北した一因だろう。
 以上のようなプロイセン側の問題を指摘したうえで、ただしde WitはPflugk Harttungが唱えている「グナイゼナウは敢えてウェリントンの支援なしでナポレオンを打ち破ろうと望んでいた」(Volume 4, p193-195)という説には異論を唱えている。Pflugk Harttungによればグナイゼナウはウィーンでのプロイセンの立場を強めるためにナポレオンから攻撃されることを望んでいたそうで、グナイゼナウがウェリントンに対して「英連合軍はどのような意図を持っているか」を聞くことはあっても彼らの助けを求めることがなかった点が論拠になっているという。
 それに対しde Witは、相互の連携は事前の準備段階で当然の前提となっていたので、単に改めて救援を要請するまでもなかったのだと指摘している。問題になっていたのは救援そのものの有無ではなく、それが実際にどう実行できるかであり、だからグナイゼナウも英軍の意図を主に聞いていた、という理屈。戦役前の両軍の話し合いを踏まえるのなら、ここはde Witの解釈の方が妥当だろう。
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