この火器には3つのリングがついているが、あくまで鋳造品なので
鍛鉄製の火器に使われる箍 のような機能は果たしていないと見られる。洪武大砲の場合は
竹を真似して箍のようなものがつけられていた と見られているが、もしかしたら西欧にもそうした中国風火器の製造法が伝播していたのかもしれない。そうではなく独自にこうした形状が発展した可能性もあるが、そのあたりは判断しかねる。
この火器は後にオークションにかけられ、2500ドル以上で売れたそうだ。競売人は「このキャノンはおそらく火薬袋と朔杖と一緒に木の上に据え付けられていたのだろう」と述べているようだが、論拠は不明。サイズ的にはむしろ
ハンドゴン の一種のように思えるのだが、
The Artillery of the Dukes of Burgundy にはかつてハンドゴンだった火器を後から砲車に乗せるように加工したと見られる事例が紹介されており(p270-271)、だとするとこの小さなハンドゴンが台に載せられていた可能性もあるかもしれない。
続いて
「1902年1月の八甲田山雪中行軍遭難事故の真実」 という記事について。題名の通り、
映画にもなった 青森歩兵第5連隊の遭難について書かれたもので、当時の気象状況についてアメリカ海洋大気庁の再解析データを使って再現してみたという内容。それによると初日の午前中は三陸沖に発生した高気圧による「疑似好天」に恵まれたものの、この高気圧は15時には姿を消してしまっていたようだ。
2日目には関東沖にあった低気圧が発達しながら東に進んだほか、北海道付近にも低気圧ができ、日本海北部から東北北部にかけて等圧線の間隔が狭い冬型の気圧配置になったという。3日目にも引き続き似たような気圧配置が続き、暴風雪の中で隊員が次々と倒れていったようだ。文中では食料面でのミスや雪洞の掘り方が浅かったこと、暗闇での移動などが問題だったと指摘している。
この記事のキモは、八甲田の遭難において、それほど極端な低温には見舞われなかったのではないかという指摘の部分。再現した気象状況によると、天気が悪化した時でも最低気温は-16.8度ほどで、遭難始末に書かれているような推定-20度以下というような極端な低温ではなかったという。一方で風速は時に秒速21メートルに達し、また降雪量もかなり多かったそうだ。風速は瞬間的には平均風速の1.2~1.5倍に達することもあるため、遭難始末の推定値(秒速29メートル)もあながち間違っていないという。
つまりこの遭難の原因は「未曽有の」低温ではなく「豪雪と東北北部で吹き荒れた強風」こそが原因だった、というのがこの記事の結論だ。確かにこの時期には旭川で-41度という日本最低気温を記録しているのだが、これは放射冷却現象が原因だそうで、同じ条件は八甲田には当てはまらない。青森での観測を見てもこの時期の最低気温は歴代10位にも及ばない程度だった。一方、風速を見ると青森付近のみが異様に強い数字を出していたと推測されており、だから他の地域ではなく八甲田で大規模遭難が起きたと考えられる。
その昔、
トムラウシでの遭難報告書 について触れた際に「強風に晒されることの危険性」が思っている以上なのではないかと書いたのだが、もしかしたら八甲田についても同じことが言えるのではなかろうか。遭難について調べるうえでは風という要因はもっと重視してもいいのかもしれない。
次にフィクションがらみについて。いつもフィクションについては
「嘘八百なんだから面白ければそれで十分」 と書いているし、従ってフィクションに関する批判や批評はただの感想と大して変わらないと思っている。しかしながら時には境界線的な事例もある。
一例が
足元で公開されている映画に関するこちらの記事 。そこでは作品そのものよりも筆者が推測している監督(を含めた制作陣)の考えや、映画に対する人々の反応の方に焦点を当てている。これが境界線だというのは、監督や映画を見た人々はフィクションではなく実在している、という点にある。彼らの発想や行動はノンフィクションであり、だとしたらそれに対して批判や批評する意味もありそうに思えてくる。
もちろん監督の考えについてはぶっちゃけ書き手の推測に過ぎない部分が多く(筆者自身がまったく個人的な妄想としている部分もある)、そこについては
「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」 としか言い様がない。その推測が面白いのは否定しないが、実在の人物に関する推測なので、事実でないなら意味のない批判批評と化す。推測の中身についてどうこう言うよりも前に、まずはそれが事実かどうかを見定める方が重要だろう。
それに対しファンの反応(ここではSNSでのブーム)の方は間違いなく事実が含まれている。従ってそこから「米国の映画ファン」に対する何らかの批判や批評が出てくることについては、単に「感想と同じ」と切り捨てることはできない。フィクションから世相を語っているのではなく、実際の世間の反応から世相を語っている格好になるからだ。というわけでこの手の境界線事例をどう見るかはとても難しい。「エンターテイメントには批判と批評が必要」などとはかけらも思わないが、エンタメに対する人々の反応については批判も批評も可能なんだろう。
なお批判や批評ではなくただの感想ならいくらでも述べて問題はない。例えば私個人は、最後に感心するようなオチがついているフィクションが大好きだ。その意味で感心させられたのが
こちらの動画 。もしかしたらこれまでネットで見た動画の中でも一番感心させられたと言えるかもしれない。もちろん他人がこのフィクションについてどんな感想を抱くかは私にはわからないし、それに批判や批評を浴びせるつもりもない。面白ければOKなんだから、楽しめる人が楽しめればそれで十分なんだろう。
例えばTurchinが「規範に従うことがすなわち利他行動だ」と書いている部分については「スロッピーだ」とバッサリ。規範に従うことが利他行動かどうかは、それが他社に利益を与え行為者にコストを課しているかどうかで決まるのに、そうした点を無視しているあたり、確かにTurchinの議論の進め方は雑だ。さらに書評者はTurchinが「互恵性の説明において直接互恵性のみを紹介し,
間接互恵性 については無視している」点について「極めて姑息な態度」と厳しいことを言っている(もし間接互恵性を知らないのなら、そもそも利他行動の進化について解説する資格はないそうだ)。
またダーウィンがヒトの利他的行動問題に関心を持っていたと引用している部分についても「DSウィルソンを始めとするマルチレベル淘汰主義者が,大喜びで引用するもの」と指摘。実はダーウィンがグループ選択的なことを述べているのはここだけであり、他の場所では「常に個体淘汰を支持している」という。そのうえでグループ淘汰が優位に戻りつつあるというTurchinの主張についても「進化生物学の世界ではとてもそういう状況とは言い難い」と切り捨てている。
書評者は
文化的なマルチレベル選択について、生物学的な遺伝子とはまったく事情が異なる と指摘している。水平伝播のない遺伝子では「繁殖を犠牲にしてグループに奉仕する傾向は進化しにくい」ために間接互恵などが議論されるが、水平伝播する文化要素の場合は「個体が繁殖できなくても影響を周りに振りまいて文化要素のコピーが増える」ため、そもそも血縁選択もマルチレベル選択も持ち出す必要がなくなる。この別種の「淘汰」を雑にまとめて論じているのがマルチレベル選択についてのTurchinの一番の問題であることは、おそらく間違いないだろう。
スポンサーサイト
コメント