男女と狩猟

 「世界中の狩猟採集社会では女性も狩猟に参加している」という記事がちょっと注目を集めていた。少し前に別の記事で紹介されていたのと同じ研究を使ったもので、米シアトル・パシフィック大の研究チームが書いた論文が論拠であることが紹介されている。
 研究は「過去100年間の文献」を調べてまとめたもので、「数十の狩猟採集社会」のうち「少なくとも79%」で女性が狩猟を行っており、またそのうち「70%以上」では日和見的にではなく意図的に肉を獲得することが目的だった。さらに「狩猟が主な食料源である社会では100%の割合で女性も狩猟に従事する」ことが分かったという。研究チームの1人は「男性がハンターで女性は採集者」という固定観念は20世紀後半の本によって植え付けられたものであり、「このような厳格な役割分担は意味を持たない」と主張している。
 どちらの日本語記事も基本的には海外ニュースをなぞったもの。例えばMen are hunters, women are gatherers. That was the assumption. A new study upends it.などがその一例で、そこでは他の研究者にも見解を聞いている。ある研究者は男性が狩猟を担うというのは男性の役割を「大黒柱」として優先する政策のために使われてきたものであり、また女性が世話係や母親的存在になると自然に定められているとの考えが女性に母性を強制する政策の根底にある、と現代社会への批判にまでつなげている(日本語記事でもそういう視点で書かれているものがある)。
 で、そこまで読めばわかると思うが、この研究にはどうも違和感を覚える。政治的な意図をもって過去の人間社会を都合よく描き出すことを狙いとした、つまり自然主義の誤謬へと導く狙いを持った研究である恐れはないのだろうか。というわけで元論文、The Myth of Man the Hunter: Women’s contribution to the hunt across ethnographic contextsに目を通してみた。
 論文ではまず過去の遺跡から大量の狩猟道具と一緒に発掘された女性の人骨があったことを紹介。そうした性別と分業に関する研究はまだ不十分なので、関連する過去の文献を詳細に調べたという。調査対象としたのは391の採食社会だが、そのうち性別に関する狩猟のデータが得られたのは63(Table 1)。うち50の社会(79%)で女性の狩猟に関する記述があり、さらにそのうち狩猟が意図的かそうでないかがわかる社会(41)のうち意図的だったのが36(87%)を占めていた。そのうち5つでは犬と一緒に、18では子供を連れて狩りをしていたという。また女性が狩猟をしていた社会のうち45では獲物のサイズについても言及があり、大きな獲物を女性が狩っていたのは15、あらゆるサイズを狩っていたのが2つあった。
 以上を読んだだけで1つ大きな疑問が浮かぶ。では男性が狩猟をしていた社会はどのくらいあったのか。また女性が手に入れた獲物の量は男性と比べてどうだったのか。逆の質問でもいい。これらの社会において男性はどのくらい「採集」を意図的に行っていたのか。どうせ詳細に文献を調べるのなら、そういう男女両方の視点から調べた方が実りある結果を得られる、とは考えなかったのだろうか。もしかしたら結論ありきで、それに沿う視点からしか文献を調べなかったのではないか。「大きな棒やマチェットを使って獲物をたたいた場合は大型の獲物と見なす」といった怪しげな基準も含め、すごく「ためにする」感の強い研究だ。

 というわけでちょっと探してみたらすぐにこの研究に対する批判が見つかった。前にも紹介している生物学者のCoyneがそうした批判をまとめていたのだ。そこでまず1つ紹介されているのがThe Myth of The Female Hunter。まず冒頭でこの論文がマスコミに広く取り上げられていることを紹介。そのうえで論文には(1)データは男性が主要な狩猟者であることが「神話」であるとは示していない(2)女性が男性と同じ頻度で狩猟していることも示していない(3)女性が常に男性と同じくらい多く狩猟していることも示していない、という3つの大問題があると指摘している。
 そもそも論文は女性が狩猟をしていたかどうかしか調べておらず、男性を無視しているのと同じくらい頻度や量も無視している。そこでこちらの文章では狩猟の役割において性別があったかどうか、その差はどのくらいであったかについて、論文で取り上げられているアフリカの11の社会について論文と同じ文献を調べている。結論はMagnitude of Division vs. Foraging Societyのグラフにある通り。筆者が文献を読んだうえで男女の狩猟における役割の差を1(差はない)から4(ほぼ完全に分断されている)まで分けたところ、1にあたる社会は皆無で、3以上の社会が7つと大半を占めていたという。
 もちろんこの分類は主観交じりであり、従って個別の評価に疑問を付することは可能だろう。ただそれを言い始めれば元の論文もかなり主観交じり(マチェットの件など)であり、信頼度はどっこいどっこいとなる。むしろこの文章の筆者が言いたいのは、仕事の役割分担は別に一方の仕事に価値がないことを意味してはいない、という結論部分の主張にあるのだろう。論文筆者は狩猟採集社会における平等性が性別に基づく役割や分断がなかったことを意味するという信条に駆られて研究を行っているが、「これは単なる信条ではなくイデオロギー的な願望」(つまり自然主義の誤謬)に思える。
 さらに詳しい批判がDebunking a debunkingで、ここでは同じテーマについて調べたことのある研究者が、(1)サンプリングが女性の狩猟の報告に偏っているため女性が狩猟している社会の割合が過大に推測されている(2)女性が普通に大型の獲物の狩猟に参加していたという主張は詳細に調べると成立しない、との批判を浴びせている。
 こちらの筆者が調べた別データ(ただし論文に出てくる社会と8割は重なっている)では186の社会のうち女性の狩猟に言及しているのは29(15.5%)にとどまった。また論文と同じデータを調べたところ965の社会のうち女性が狩猟していた14の社会(1.4%)のみで、しかもうち2つは実は農業社会だったという。筆者らがさらに別のデータで見つけた女性が狩猟していた社会の数(53)を当てはめたとしてもその比率は5.5%、採食社会(391)のうち53の社会が当てはまるなら13.5%となる。要するに女性が狩猟していた社会の割合は20%を大きく下回る水準なのであり、論文にあるような8割という数字にはならない。
 さらに論文には単純なコーディングエラーと思われるものがある。小型や中型の獲物を女性が狩猟していたという社会が28紹介されているのだが、うち7つについてはそうした言及がなかったし、他にも農業社会にもかかわらず狩猟採集社会とみなされているものがいくつもあったと例示している。さらに大型の獲物については17の事例のうち9つが実は一次資料ではなく二次資料に基づいているうえ、本当に大型の獲物を女性が狩猟したものは少数にとどまり、多くは実は小型か中型の獲物を狩っていた。大型の獲物を含む事例でも、銃を使っていたり、夫が主役で妻は間接的にそれを手助けしていたり、夫の死後に女性が狩っているといった例が多かったという。
 要するに同じテーマを研究している研究者から見れば、論文の内容と実際の文献記録とは「完全に異なる姿」をしているわけだ。もちろんこうしたツッコミができるのは論文筆者らがきちんと元ネタを提示しているからであり、その意味で科学の作法に則った書き方がなされているのは間違いない。だが普通に論文形式の文章が書けることは研究者にとって賞賛されてうれしい部分ではないだろう。問題は内容の方であり、そしてそちらについてはかなり覚束ないものと言わざるを得ないようだ。
 Coyneはさらにこの件に関するツイートも紹介している。そのツイートによれば、実はこの件を含めた包括的な研究論文が既に2020年には出ていたという。The life history of human foraging: Cross-cultural and individual variationという論文だが、その論文のデータによれば狩猟は記録においても参加者においても男性の方が圧倒的に多く、またそれぞれが1回の狩猟から持ち帰った獲物の量も男性9.5キロに対して女性1.4キロと大きな差がついている。
 またツイート主は別のところで論文の間違いを箇条書きにしている。採食社会以外が含まれていること、異なる名前で言及されている同一の社会が異なる社会としてカウントされていること、いくつかの文献には女性の狩猟を示すわずかな証拠しかなく、あるいは全く証拠がないこと、そして上でも指摘されている通り、大型の獲物を狩猟したとの主張が持ちこたえられないものであることだ。さらには狩猟に役立つ投擲行動はオスの適応だという研究結果もある。

 今回の件で思い出したのは、研究の主題とは関係ないが現代的な価値観で話題になりやすい点に焦点を当てたマスコミ報道の例と、そうした価値観に研究者自身が媚びを売ったかのような論文の例だ。いずれもメタアナリシスではなく、その意味で論文自体は価値のあるものだと思う。ただし後者のような研究者が文献研究などを行うと、結論ありきな残念な論文が出来上がることを、今回の件は図らずも立証している。
 最大の問題はこの論文が査読済みである点だろう。他の研究者が発表から時間を置かずにツッコミを入れているのを見ても、同業者から見れば一目でおかしいと思えるような内容が書かれた論文を査読者がほぼ見逃していたことになる。最近の米国でアカデミズムのwoke化が進んでいる点からも、もしかしたら査読者が著者たちと同じ「イデオロギー的願望」の持ち主だったのではと疑いたくなるくらいだ。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント