リニーとキャトル=ブラ 2

 de WitのThe Campaign of 1815の第3及び第4巻の紹介続き。筆者がこの2巻で強調しているのは、両軍を巡る環境が16日を通じて大きく変わったことだ。ナポレオンが16日午前の段階でまずやらなければならなかったのは、前日のうちにサンブル左岸へと渡ることができなかった部隊(第6軍団や第4軍団の大半)をそちら側へと移動させ、英連合軍とプロイセンの中間地点に戦力を集めることにあった。ナポレオンがこの戦役に両翼と予備という部隊構成で臨んだことはよく知られているが、それらの部隊を効果的に動かすためにも彼らがサンブル左岸に集まっているのは必須だった。
 16日午前の時点でナポレオンは早くも17日の目標を立てていた。それは17日朝のうちにブリュッセルまで到達するというものだ(Volume 3, p31)。16日のおそらく午前8時から9時頃にナポレオンが直接ネイに当てて記した手紙の中に、彼のその意図がはっきり記されている(Correspondence de Napoléon I, Tome Vingt-Huitième, p290)。後々の経過を考えるとあまりに楽観的に見える目標ではあるが、おそらくこの時点までフランス軍がツィーテン指揮下のプロイセン第1軍団以外にほとんど敵と接触していなかったことが理由だろう。侵攻を開始して以来およそ30時間の間、連合軍の抵抗は限られたものだったわけで、ナポレオンが戦略的な奇襲に成功したとその時までは思っていた可能性がある。
 このネイへの手紙において、皇帝はグルーシーの右翼をソンブルフに向かわせ、自身もフルーリュスへ移動すると述べている。そこで敵と遭遇するかどうか次第で、午後3時あるいは夕方には方針を決める、というのが彼の説明だ。グルーシーへの手紙でも似た方針を述べている(書簡集、p292)。まずはこれまで接触した敵のうち最も大きな部隊であるプロイセン第1軍団が退却したフルーリュス方面の様子を確認し、大きな障害にならなければ翌日にはブリュッセルへ向けて行軍する、というのが朝の時点でのナポレオンの考えだったと思われる。
 一方の連合軍はフランス軍の侵攻に対する反応のタイミングにずれが生じていたものの、16日朝にはどちらもフランス軍の侵攻に気づいて対応を始めていたのは確かだ。プロイセン軍は朝方にはソンブルフへ向けて司令部の移動を始めており、ウェリントンもまた朝から南方のキャトル=ブラ方面に向かっていた。ただしプロイセン軍のうち第4軍団は16日のうちに戦場に到着できないことは明らかになっていたし、英連合軍がデルンベルクの報告を受けてモンス方面は心配ないと判断を下したのはようやく午前5時過ぎになってからだったと見られる(Volume 4, p16)。
 ナポレオンが連合軍の抵抗をほとんど感じていなかったのと同様、連合軍側もフランス軍の動きをまだ十分には把握していなかった。ウェリントンが知っていたのはフラーヌ方面にいた親衛軽騎兵と第2軍団の少数の前衛部隊だけだし、ブリュッヒャーの正面にいるヴァンダンムの第3軍団やグルーシーの騎兵は、朝の時点ではまたフルーリュス村の背後や森の向こうにいて、プロイセン軍からはその兵力は十分に見えていなかった。つまり、16日午前のほとんどの段階において、両軍とも接触から交戦がいつ始まるかまったく予想がつかない状態に置かれていたわけである。
 ワーテルロー戦役において、特に16日午前の段階からリニーやキャトル=ブラの戦い及びその結果を想定した動きをすることは、当時の関係者には不可能だったと考えられるだろう。これは様々な「安楽椅子将軍」的分析を評価するうえで欠かせない視点となる。例えばウェリントンが16日午前10時半ごろにフラーヌで書いたとされる手紙などは、一部でウェリントンがブリュッヒャーを騙す目的で記したとされているが、この時点でウェリントンやブリュッヒャーが知っていたフランス軍の動きを前提にした場合、その説は成り立たなくなる。
 彼らが互いの動きに気づいたのはいつ頃だろうか。ナポレオンがフルーリュスに到着したのは午前11時頃(Volume 3, p29)。一方プロイセン第2軍団は午前10時頃に(Memoiren des Generals Ludwig von Reiche, Zweiter Theil, p181)、第3軍団は正午ごろにそれぞれソンブルフに到着した(Volume 3, p44)。フルーリュスから彼らの動きが直接見えたわけではなさそうだが、プロイセン軍の強化を把握したナポレオンは第4軍団の到着を待ちわびていたという(Observations sur la relation de la campagne de 1815, p43)。おそらく正午頃までにはプロイセン軍の集結にナポレオンは気づいたのだろう。
 一方、プロイセン側は午前11時にフランス軍右翼がフルーリュス村を出て展開を始めた段階で、フランス軍主力が自分たちに向かってきていることに気づいた。ツィーテンが7月7日に書いた報告(Memoiren des Generals Ludwig von Reiche, Zweiter Theil, p417)には、ナポレオンが7万人から7万5000人を展開したと書かれている。de Witによると実際にこの戦場に展開したフランス軍は6万6600人だったという(Volume 3, p66)。もちろんフランス側はこの時点ではあくまでどの程度の敵と遭遇するかを試す目的で展開を始めていたわけだが、それでも多数のフランス軍が姿を現したのは間違いない事実だ。
 ウェリントンがフランス軍の動きをいつ知ったのかははっきりしないが、de Witは彼がビュシーに向かうと決めた正午過ぎ頃ではなかったかとみている(Volume 4, p179)。彼は自分たちの状況についてほんの1時間半前に手紙(Geschichte des Feldzuges von 1815, p125)を書いたばかりであり、少なくともその時点ではプロイセン司令部との間で手紙でやり取りすればいいと判断していたと思われる。事態が変わったとしたら、フランス軍主力の場所が分かったことがきっかけではないか、という判断だ。
 実際プロイセン軍はフランス軍主力の動きに気づき、既にハーディングをキャトル=ブラに送り出していた(Volume 4, p164)。彼は途上でウェリントンと出会い、そのままビュシーへと戻っていった。そこで両軍の司令部は一緒にフランス軍の動きを目撃したはずで、その時点でフランス軍が主力をプロイセンに向けていることについては共通の認識が出来上がっていたと思われる。つまり両軍とも午前のかなり遅い時間から正午になって、ようやく16日のうちに本格的な戦いが始まることを認識したわけだ。

 もう一つ、しばしばワーテルロー関連で忘れられるのは、フランス軍も連合軍も味方同士の情報のやり取りがそれほど高い頻度では行われなかった点だ。例えばビュシーでプロイセン軍司令部と直接顔を合わせる前にウェリントンがプロイセン側から受けた連絡は、15日の午後11時に書かれた手紙にまで遡らなければならない。局面が急激に変化している状況下でウェリントンはプロイセン側の情報について12時間も古い物しか持っていなかったわけで、彼がビュシーに向かったのはフランス軍の動きを確認するためだけでなく、同盟軍が何をしているかを知りたかった面もあると考えられる。
 両軍が連絡を取るのに苦労していた様子は、ミュフリンクが15日真夜中にブリュッヒャーの司令部に送り出したヴヒェラーがナミュール街道上のフランス軍に遮られ、戻ってきたという話からもうかがえる(Volume 4, p17)。またビュシーの会合後、2つの戦場に分かれた両司令部間の連絡は再び疎になったようで、de Witによればプロイセン側からは2人の伝令が送られたものの、ミュフリンクから送ったと主張している何人かの伝令については裏付けがなく、真実かどうかは疑わしいそうだ(Volume 4, p226-27)。
 フランス軍についても事情は同じ。de Witはデルロン軍団の動きに関する「目撃者の話」としてボーデュの3つの史料やフォルバン=ジャンソンの証言などを細かく紹介しているものの、結論としてそれらは信頼できないとしている。特にフォルバン=ジャンソンの言い分を信じるのなら彼はこの日にリニーとキャトル=ブラの間を2回往復し、さらにネイと一緒にしばらくの時間を過ごしたことになるのだが、単に2往復するだけで8時間はかかるはずであり、つまりこの日の戦闘はとうの昔に終わっていたと考えざるを得なくなってしまう。
 リニーで戦うことが決まった後にナポレオンがネイに宛てて出した命令で確認できるものは2通だけ。午後2時に出したもの(Volume 3, p49)と同3時15分のもの(p73)だ。正直、これより後に出してもネイがその命令に従ってこの日のうちに動くことは不可能だと思われることを考えるのなら、これ以降に伝令が送られたとしても実効性には乏しかったと考えた方がいいだろう。一方ネイは戦いが始まる前の午前11時にスールト宛に報告を出した(Volume 4, p11)後は、キャトル=ブラの戦いが終わった後の午後10時まで報告を寄越していない(p101)。実は両軍とも敵の動きのみならず味方の動向についてもかなり漠とした情報に基づいて行動していたわけだ。
 後知恵に基づく議論を排するためには、こうした事情をきちんと把握することが欠かせない。そのうえでようやくナポレオン、ブリュッヒャー、ウェリントンらが取った行動についてきちんと評価ができるようになる。もちろんそのような前提を理解してもなお、de Witによれば彼らに批判点は残る。人間は間違いを犯す生き物であり、それは彼らも同じだった。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント