リニーとキャトル=ブラ 1

 以前こちらでも触れたde Witの1815年戦役本だが、このほど3、4巻を手に入れた。書籍サイトを見てもわかる通り、第3巻がリニー、第4巻がキャトル=ブラについてまとめた書物た。第3巻は既巻の中で最もページ数が少なく、第4巻も最も分厚い第1巻に比べればページが少ないため、読む際の苦労は以前ほどではない。とはいえ内容はもちろんマニアックだし、特にどちらの巻も大規模な会戦について記しているため、戦闘に関する詳細な記述がどうしても増える。
 戦闘の記述で困るのは、細かい地名がちょくちょく出てくる点だ。そういうところまで確認しようとする際に、現代の地図ではフォローしきれないケースがある。戦場となったベルギーに関してはフェラリスの古地図のように実際の戦闘が行われたのと近い時期に描かれたものもあるので、そちらを参照する手があるのは確かだが、それも完全な方法ではない。例えばブリュッヒャーが司令部を置いていたとされるブリーの風車は、こちらの地図によるとブリー村の南東にあったようだが、フェラリスの地図には見当たらない。
 特に第3巻のリニーの戦いはその印象が強い。こちらの方が大規模な会戦だったのが最大の理由だが、リーニュ川沿いの色々な場所で交戦が行われた結果、「どの村で」のレベルにとどまらず「村の中のどの一画で」どのように戦いが展開したかについての記述が続くことになった。リニーの戦いの大半はリーニュ川沿いに数珠繋ぎとなっている村々の奪い合いだったため、その記述の大半は村の細かい通りや小さな街区を巡る争いに費やされている。
 そうなっている理由のもう1つは、会戦からまだあまり時期が経っていないタイミングで、当時の歴史家がプロイセン軍参加者たちに細かい戦闘の経緯を聞いてそれを書物にまとめたことにもある。この調査はかなり詳細を極めたようで、結果として一部の部隊については中隊単位でどのような行動をしたかについてまで記録が残されたそうだ。かくしてリニーの戦いに関する記述はプロイセン軍のやたらと細かい部隊名(およびその指揮官名)で埋め尽くされるようになってしまい、これまた流れを追うのが難しくなる一因と化している。
 一方、彼らが戦ったフランス軍の記述は大雑把を通り越してほとんど曖昧の範疇にまで達している。何しろヴァンダンムの第3軍団の中には戦闘に参加したのかどうかよくわからない師団すら存在するらしい。親衛隊については詳しく調べた同時代の歴史家がいたようだが、それ以外の部隊になるとたまたま所属している士官が回想録などを残したもの以外は本当に何をしていたのかわからないようだ。
 このあたり、現代史を調べる歴史家の重要性を示す一例と言えるだろう。互いに手紙でやり取りするような情報であれば、例えば帝国司令部からネイへの命令などがそうだが、文書が後の時代まで残りそこから何が起きたかを推測することもできる。だが敵と向かい合って戦う場面になると、この時代のように味方も敵も距離感が近いケースでは、おそらく口頭での命令が中心となり文書は残らない。そうした部分については同時代の歴史家がインタビューなどを通じて情報を集めるしかないのだが、プロイセン側がそうした歴史家に恵まれたのに対しフランス側はそうではなかったようだ。
 同様に連合軍側の情報が充実しているのに対し、フランス側に欠落が多い印象はキャトル=ブラでも存在する。こちらもまた英連合軍の方が細かい部隊の動きまで歴史に残されている格好だ。ただフランス側はそもそも参加した部隊数が少なかったため、リニーほど大きな「記録の欠如」には至らなかったもよう。それでもフランス軍側の方が曖昧な表現が増えてしまっている感じはする。別にワーテルロー戦役に限った話ではなく、どうしても勝った側に比べて負けた側の記録は残りにくいのは戦史の特徴と言えるかもしれない。このあたりは正直、避けられない問題点なのだろう。

 2つの戦闘が行われた16日の出来事に焦点を当てているため、戦闘の経過説明が話の中心と思うかもしれないが、そうとは言い切れない。第3巻はまだ、午前中の両軍の動き、両軍の計画、戦場の描写ときて、それらを全部合わせた量の1.5倍に達するリニーの戦いの描写、そして付録という構成になっているので、戦いがメインと言っていい。だが第4巻の構成を見ると、午前中の両軍の動きと戦いそのものの描写を合わせても本文全体の半分ちょっとにしかならない。残る半分はデルロン軍団の動き、そしてリニーとキャトル=ブラ両方を含めた16日全体についての所見だ。
 要するにこの2つの巻は2冊まとめて読んだ方がいいものなのだ。おそらくリニーだけ読んでもよくわからないことが多数あるし、逆にキャトル=ブラだけ読んでもリニーで説明済みの話を前提にどんどん議論が進んでいくため、理解できなくなる恐れがある。さすがにHofschröerがやったように2つの会戦を同時並行で描写するという方法は採用していないが、同じ日にかなり近い距離で行われた戦いが無関係なわけもなく、従ってその説明が相互に絡み合うのは当然と言える。
 さらに言うのなら、最後の所見の部分では戦役が始まる前の準備段階が重要だということが繰り返し主張されている。こちらは内容的には第1巻に相当する(前にこちらでde Witのまとめた内容を詳細に紹介したことがある)わけで、つまりこの2冊の内容を理解したければ最初まで立ち戻って考えなければならない。読む側にはかなりの負荷を求めるような文章になっているが、別に筆者が嫌がらせでそうしているのではなく、そもそも歴史について理解するうえでは流れをきちんと把握していなければならないことを示している。
 実際、最後の方になると話の主題は16日の戦闘そのものから離れ、過去のワーテルロー関連の歴史書について内容を見直し、批判をするというのが主なテーマになっている。そもそも筆者のde Witがワーテルロー・インダストリー的な書物にうんざりし、自分で調べる必要があると考えたのがこの本に至る研究成果をもたらした最初の動機であり、であれば過去に出された歴史書に対する批判が話の中心に入ってくるのは当然だ。
 そしてまた16日はそうした批判を浴びせるのに適した内容が多々存在するタイミングでもある。戦役が始まった15日(第2巻)は大きな会戦がなかったし、そのせいもあってか過去の歴史書に関する批判が長々と書かれる場面はあまりなかった。逆に言えば会戦になるとそれを巡って批判の対象になるような言説が増えてくることもわかる。このあたりは「なぜ批判されるような歴史叙述が登場するのか」という理由を推測するうえで参考になるかもしれない。要するに派手で注目を集めやすい場面にかこつけて何らかの主張をしたがる人間が世の中には一定数いる、ということだろう。
 歴史叙述については時代とともにより質の高いものが増えているのは間違いないように思える。ビッグヒストリーを語るうえでデータを大量使用するのが珍しくなくなったというのもその一例だが、ナポレオン戦争のように短期間でかつ狭い範囲を対象とする軍事史の叙述においても、昔の記述よりはずっといいものになっている。19世紀の時点ではそれこそThiersのようにそもそも事実に反する話を平気で載せていた歴史書もあった。
 19世紀末から20世紀初頭になると、少なくとも事実認定についてはもう少し真っ当な研究が増える。いやもちろんそうでないのもあったが、史料批判をきちんとしたうえで信頼できる史料を使って議論を進めるという当たり前の歴史研究が、この頃にはかなり定着してきた様子が窺える。少なくとも論拠に乏しい、つまり史料がなかったり史料と矛盾したりする主張についてはかなり減ったのだろう。
 だがナポレオン戦争については最近になってさらに新しい歴史叙述が増えてきている。そこで大きなテーマになっているのは、先入観を持った記述に対する批判だろう。de Witが繰り返し書いているように、実はナポレオン戦争関連の多くの歴史書には「後知恵」が強く働いている。何が起きたかを知っている歴史家がその知識をもとに当事者の行動を批判する、というタイプの記述が、実は軍事史関連ではやたらと多い。いわゆる「安楽椅子将軍」というやつだが、そうした記述は歴史を理解するうえでは役に立たないどころかむしろ邪魔になる。
 de Witの指摘はその意味で最近の流れを踏まえたものと言えるだろう。単に「何が事実だったか」を調べるだけでなく、それを当時の文脈にきちんと置かなければ、歴史を理解するには不十分。というわけで16日の戦いに関するde Witの指摘をこれから紹介していこう。
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