とはいえ前半部はそれほど面白い指摘があるわけではない。基本的にEnd Timesでは十分に説明されていないものの
Ages of Discord には書かれているとか、
論文 でそのあたりに踏み込んでいるといった感じのツッコミが多く、別に目新しさは感じられない。金持ちは昔より「政治的に自己実現できる能力が高まっている」という指摘についても、トランプが自己実現している分だけ共和党のライバルたちは自己実現できなくなっていることを考えるなら、紋切り型の批判にしか見えない。
南北戦争に関する記述の中で、北部の平民は南部の奴隷主によって自分たちが奴隷化される切迫した恐怖があったと指摘している部分についても、ほんまかいなという違和感が浮かぶ。いや私はこの時代に詳しいわけではないのだが、人種と密接に結びついた奴隷制に関し、人種を問わず北部の平民を一緒くたに扱ってしまって大丈夫なのだろうかという懸念がすぐ思いつくし、またTurchinも指摘していたがこの時代の政治的な重要課題の中には奴隷制だけでなく移民問題もあったはず(
ノウ・ナッシング という運動があったほど)。Turchinがエリートを重視しすぎることに対する批判としては、あまりいい切り口には見えなかった。
続いて筆者はこういう社会科学の分野で数式モデルを導入すると、それはしばしば陰鬱な破滅的予想につながりやすいとの批判をぶつけてくる。論拠となっているのがCovid-19をはじめとした感染症の拡大に関する専門家の予想で、その大半は後から考えると悲観的過ぎるものであり、この予想のせいで各国政府は社会的な隔離は機能しないという公衆衛生に関するコンセンサスを放り出し、結果としてより大きな被害をもたらしたのだと断言している。
これ、断言していいのか? 日本でもそうだったがこの手の公衆衛生専門家が出した計算は基本的に「何の対策も取らなかった場合」を想定したものが多く、だから対策が取られた結果として被害が思ったほどではなかったというのは当たり前でしかない。それを理由に予想が間違っていたというのは前提条件を無視した「後知恵」の議論に過ぎないのではなかろうか。感染症対策についても私は専門家ではないが、
ただのジャーナリストよりは専門の医療関係者の言うことの方を信じている ため、この結論には疑わしさが感じられる。
7億人近くが感染し、700万人弱が死亡している 病気について、ここまで何でもないことのように言ってしまって大丈夫なのかと余計な心配をしてしまう。
とまあ疑問点を挙げればいくらでも並べられそうだが、一方で後半になると面白い指摘がかなりある。1つは戦後の米国経済史について語っている部分。ニューディールによって出来上がった大圧縮の時代が終わりを告げ、再び格差が広がるようになった経緯について、Turchinは「基本的に無視している」というのがその批判だ。確かにこの時期の歴史についてTurchinはEnd TimesだけでなくAges of Discordでもそれほど詳しく分析しているわけではなく、あくまで労組のトップや政治家といったエリートたちに焦点を絞って解説している印象が強い。
それに対し筆者は格差が広がり始めた時期は米国の成長が鈍った時代であると説明している。それ以前の急成長に時代に合わせた過剰生産能力が経済をスタックさせ、資本家にとっては税引き後利益の縮小につながっていった。そこで上からの階級闘争が行われ、消費税で大衆の負担を増やす一方、所得税については減税が進んだ。結果として中間層の没落と階層の分化、格差の拡大が進んだ、というのが筆者の指摘だ。
もともと構造的人口動態理論は成長(特に人口の)を含んだ議論だった。
Goldstoneの本 もそうだったし、Turchinらも
Secular Cycles でやはり人口成長を視野に入れながら説明していた。だがAges of Discordではそういった切り口があまり触れられていないのは確かで、特に2度目の不和の時代に向かう過程においてそのあたりの説明はかなり薄かった。
続いて筆者はここから議論を捻ってくる。彼は専門―管理職階層という概念を持ち出すのだが、これはおそらくTurchinの言う10%、つまり
専門家層 でありピケティの言う
バラモン左翼 に相当すると思われる階層だ。その階層は、かつては個人事業主として活動していた(医者や弁護士)が、今では大組織の被雇用者の割合が多く、要するに労働者の一角を占めるようになっている。つまり彼らは中間層から転落しつつあるわけだ。
ところが彼らは一方でエリート的価値観に浸り、労働者や大衆を敵視する傾向を持つ。彼らは米国では民主党に投票し、その民主党はダボス会議に出席するような「本物のエリート」たちとの連携を強めている。かつて大卒白人は共和党に投票していたのが今では民主党寄りになっており、そして労働者や大衆に対する恐怖に囚われている彼らは、米国における「権威主義的な政治の興隆」を支える理想的な支持者になっている。結果、最初はブッシュ政権下でテロ対策として広まった市民社会への「監視と検閲」は、今では幅広い検閲の容認にまでシフトしている、というのが筆者の主張だ。
彼によるとこうした指向を持つのは別にリベラルだけでなく保守も同じだそうだ。どちらにおいても転落への恐怖を持つ中間層がそれを防ごうとエリートたちによる抑圧的な政治を支持し、最終的には少数の人々の利益のために多数の人々が圧迫される政治に行きつく。Turchinは既存秩序を壊そうとする対抗エリートを危険視しているが、本当に危険なのはこうした方法で非民主的かつ説明責任のない強力な権限を与えられている本物のエリートたちであり、しかしその点をTurchinの理論は見落としているのだ、と筆者は記している。
この指摘は、以前にも触れた
Turchinの議論が持つ「閉ざされた上流階級」指向 への違和感表明と通底しているものと見ることができるだろう。書評では監視と検閲を中心としたエリートの抑圧的な政治を懸念しているが、そうした政治は社会的流動性の低い社会においてはより危険になる。こうした疑念については
以前にも似たものを指摘したが 、Turchinが不和の時代における暴力を減らすことに重点を置く結果として、既存の体制を守る保守的な主張をしているように見えるケースが多いのは否定できない。
最後に筆者は、Turchinの行うような数学モデルづくりが「現在の制度のより強力なバージョンのみが回避できる大惨事を予測することが非常に多い」と批判を述べている。これは仕方ないところで、そもそも数学モデルは過去にあった体制や今ある体制をモデル化するのが通例だ。そうした体制が対処できる程度のトラブルならモデルでも別に問題にはならないだろうし、そうでない厄介なトラブルに対してもモデルからは既存体制でどう乗り越えるかについてしか予測できない。Turchinは基本的に過去のデータを使ってモデルを実証しているのだから、過去に存在しない体制についての予測を数学モデルに求めるのはそもそも間違っている可能性が高い。
筆者が言いたいのが「今の局所最適解に満足するのではなく、常に全体最適解を模索できる余地を残すべきだ」という主張なら同意する。そのためにはTurchinのモデルでカバーしきれない領域があることを認識し、そちらでブレークスルーが達成できる可能性を常に考慮に入れながら政策を作るべきなんだろう。個人的に
成長に乏しい時代 にそれを求めるのは難しいと思ってはいるが、一方で上流階級が閉ざされるのが望ましいとも思えない。だからTurchinの議論に疑問を突き付けることは常に行った方がいいんだろう。
ただちょっと懸念するのは、この筆者が左派寄りの言論を論拠にしているように見えること。Turchinを「政治的右派」と決めつけているあたり、どうもそんなにおいがする。左派だからいけないというつもりはないが、筆者の結論が
ピラミッド型の政治体制そのものが悪いというGraeber的な議論 に行きつくようなら、眉に唾をつけるべき。検閲や抑圧を忌避することは別におかしな主張だとは思わないが、エリートや資本家を否定する議論が行き過ぎるようなら、そちらについても警戒をした方がよさそうだ。
スポンサーサイト
コメント