東西史の流れ

 以前、イアン・モリスの「社会発展指数」について取り上げたことがあった。ユーラシア内で東洋と西洋が歴史的にどのくらい発展してきたかを比較したものだ。彼が作った社会発展指数についてはSocial Developpementという資料に詳しくまとめられている(Table 11、Table 12)。それによると紀元500年まではずっと西洋がリードしていたこの指数が、紀元600~1700年までは東洋の優位に変わり、1800年から再び西洋が先行するようになったという流れが生じている。
 この流れ自体については特に異論はない(1500年と1800年のどちらを重視するかという問題はあるだろうけど)。ただ、最近になってちょっと面白い傾向に気づいた。実際には傾向ではなく単なる思い込みかもしれないし、以下に紹介する話はデータではなくナラティブに依存しているので、信頼度はとても高いものではない。つまり「思い付き」とか「妄想」に近いものだが、面白かったので書いてしまおう。東洋の社会発展指数の逆転は、およそ1000年先立つ分断の時代がもたらした技術発展が原因となったのではないか、という見方だ。

 社会発展全体ではなく、技術のみに焦点を当ててみよう。歴史的に見ると、農業の発明以降、最初に技術が発明されたのはユーラシア西部で、それが後にユーラシア東部に広がるという流れが広く見られた。例えば青銅器は最も古いものだと紀元前第5千年紀の中頃にセルビアで作られていたそうで、メソポタミアでは紀元前3500年頃から青銅器時代に入ったとされている。それに対し、中国では内陸部で紀元前3100~2700年頃に、黄河流域では商の時代(紀元前16~11世紀)から青銅器が使われ始めた。
 チャリオットについても同様だ。最初にスポークを持つ車輪が使われ始めたのはウラル山脈近くのシンタシュタ文化であり、そこから広がってヒッタイトでは紀元前18世紀あたりからチャリオットに関する記述が出てきているという。一方、中国では商の後期に近い紀元前13世紀になってチャリオットへの言及が登場するようになったそうだ。
 鉄器の拡散についても同様。このあたりはTurchinの記したRise of the war machinesのFig. 3が参考になるだろう。アナトリア付近とインド付近という複数の起源があるが、いずれにせよ鉄器はまずユーラシアの西寄りの地域で紀元前第2千年紀に製造が始まり、中国では第1千年紀の後半になってようやく波及した様子がうかがえる。ただし、中国では他地域で発展しなかった高炉と鋳鉄の技術が生まれた点には注目すべきだろう。
 もう1つは騎兵(Fig. 2)だが、こちらはもっと段階を踏んで流れを確認した方がいいだろう。騎乗そのものはポントス・カスピ海地域で始まり金属製のハミは紀元前第2千年紀終盤にレバントで、また鞍の役割を果たす革は、少なくともアッシリアで紀元前8世紀後半には使われていたようで、紀元前第1千年紀の半ばには中央アジアにまで達していた。ところが次の重要な発明となった金属製の鐙が生まれたのは紀元4世紀前半の中国と言われている(The Spread of the Iron Stirrup along the Silk Roadでは同200~400年の中国または内陸アジアとしている)。
 ここで注目すべきは、鉄器や騎兵に関連する技術革新が、紀元前第1千年紀後半以降になると西ユーラシアではなく東ユーラシアで生じるようになっている点。そして同じ時期に、西から伝わった技術をさらに発展させるのみならず、東で最初に産声を上げる技術も出てくるようになった。その代表例がいわゆる中国の4大発明である。
 このうち羅針盤は紀元前の戦国時代に起源があり、紙の発明は紀元前8年頃に遡る。活版印刷は書籍向けに始まったのは9世紀だが、それ以前の3世紀において既に織物用としてそうした印刷技術が発明されていた。さらに以前にも記したが、トレビュシェットの発明は墨子の記述にある通り紀元前5~4世紀頃と見られている。4大発明で最も遅いのは9~10世紀に発明された火薬。このあたりまでは東ユーラシアの方に技術的な発明の点で優位があった可能性がある。
 一方、同じ紀元前第1千年紀の後半以降、ユーラシア西部において発明された世界各地に広まるような大きな技術は、実のところすぐには思いつかない。トレビュシェットではなく捻じれを利用した投石機は紀元前5~4世紀にギリシャあたりで生まれていたが、この兵器は他の地域には広まることなく姿を消した。ローマの土木技術が高い水準を維持していたのは確かだろうが、他の地域で積極的に取り入れるような動きにはつながっていない。
 西ユーラシアがようやくこうした技術の遅れを取り戻し始めたのは、紀元第1千年紀の後半以降だ。1つはハイブリッドトレビュシェット(8世紀)とカウンターウェイトトレビュシェット(12世紀)の発明。中国から取り入れた技術をより発展させたという意味では、鉄器や騎兵の際に中国が成し遂げたことを今度は西洋がやってみせたとも言える。15世紀に有効な武器となった火薬兵器についても同じことが言えるだろう。紀元第2千年紀の後半に入ると西の優位が明確になり、18世紀の産業革命以降になると西ユーラシアで世界に広められるような発明が次々と世に出てくるようになった。

 つまり紀元前第1千年紀の後半から紀元第1千年紀の前半まで、技術という点では東ユーラシアが先行していたのに対し、それ以前と、紀元第2千年紀に入って以降は西ユーラシアが主導権を握っていた、と推測できるわけである。紀元第1千年紀の後半は両地域で発明(火薬)や改良(ハイブリッドトレビュシェット)が見られるため、双方が移行期にあったのかもしれない。技術面での東洋の優位はモリスの記した社会発展指数の優勢と比べて1000年ほど前倒しで生じていたわけだ。先に技術があり、その技術を背景に繁栄の時代が訪れるが、社会が繁栄期に入ると技術面では再び立ち遅れるようになった、という流れが存在した可能性がある。
 どうしてそうなったのか。Andradeは平和が戦争技術の発展を遅らせたと指摘しているが、同様に「繁栄は技術発展を遅らせる」という理屈が通用するのではなかろうか。実は東洋の技術が優位にあったこのおよそ1000年間、東ユーラシアでは分断と競争の時代の方が長く続いた。春秋戦国時代(紀元前770~221年)と三国時代(紀元220~280年)、そして五胡十六国から南北朝時代(304~589年)の期間を分断されていた時期と見るなら、トータル1359年のうち894年、つまりほぼ3分の2は多数の政治勢力が並び立つ分断の時代だったことになる。
 一方、西洋ではアケメネス朝のオリエント統一からローマ帝国の分裂に至るまで、大帝国による支配が長く続いていた。1ヶ国(アケメネス朝)か2ヶ国(ローマとパルティア/ササン朝)かという違いはあるが、大帝国が領域内に平和を繁栄を行きわたらせていたのがこの時代だ。エジプトをメルクマールとして、ここをアケメネス朝が押さえた紀元前525年からプトレマイオス朝が成立する332年まで、そしてローマがプトレマイオス朝を滅ぼす紀元前30年からローマが東西に分裂する395年までを、分断より統一の時代と見る。するとトータル920年のうち、統一されていたのが618年となり、これまた全期間のほぼ3分の2を占めている。
 つまり紀元前第1千年紀の中盤から紀元第1千年紀の前半に至る1000年前後の時期に焦点を当てると、洋の東西は「西が統一、東が分裂」の時代だったことになる。だがその後、東では五代十国(907~979年)を経て南宋(1127~1279)までは分裂もあった「移行期」と見なせるが、13世紀後半以降は基本的に統一がほとんどを占めるようになる。逆に西ではユリアヌスの東ローマ、イスラム帝国、カロリング朝といった大きめの帝国がいくつか生まれたものの、それもアッバース革命の8世紀、遅くともカロリング朝の分裂やアッバース朝の権威低下が生じた9世紀以降は、完全に分裂の時代に入る。「移行期」が終わり、統一と分裂が東西で逆転したわけだ。
 軍事が社会の複雑性を増す大きな動因になることはTurchinが指摘している。そして軍事の影響が大きくなるのが分断の時代だとすれば、分断が技術発展を通じて社会の複雑化を促進した可能性はあるだろう。加えて軍事技術はかなり急速に世界各地に広まりやすい。分断している地域の方が技術を生み出してそれを世界に広め、逆に統一されている地域では平和と繁栄のために技術が生まれない、という流れが、数千年にわたる歴史の中で生じていた、のではなかろうか。
 分断以外にもそうしたメカニズムを生み出した候補はある。道徳的な神だ。Turchinは道徳的な宗教は他ならぬアケメネス朝の中央政治軍事ネットワークの中で広がっていったと述べている。そして宗教が成長の足を引っ張るという研究が正しいのなら、先に枢軸宗教が誕生した西ユーラシアでまず成長とその源となる技術が生まれなくなり、一方の東ユーラシアではそうした枢軸宗教がやって来た後になってようやく成長が鈍り始めた、とも考えられる。ただしこの理屈の場合、西ユーラシアが後に再び成長路線に戻った理由の説明は困難となる。
 以上が今回の「思い付き」。繰り返すがチェリーピックに基づく議論なので、信頼度はほとんどないと思ってほしい。それでも、分断と戦乱の時代が技術発展の好機であり、逆に統一と繁栄の時代は技術の停滞と将来の立ち遅れをもたらすとの考えが当たっているのなら、これはなかなか皮肉な話だ。ある意味、「禍福は糾える縄の如し」である。
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