15日の命令

 これまでじわじわと進めているジョミニの「ナポレオンの生涯」はいよいよワーテルロー戦役に入っているのだが、戦役が始まった初日(6月15日)の部分に気になった文章があった。

「ネイ元帥は、レイユ軍団とエルロン軍団で構成される左翼の指揮を執り、遅滞なくキャトル=ブラの方向へブリュッセル街道を行軍し、敵の正確な情報を集めるため前衛部隊をこの地から分岐する3つの街道へと押し出すようにとの命令を受けた」(Life of Napoleon, Vol. IV. p355-356)

 ジョミニによると左翼の指揮を執ったネイがゴスリー正面にとどまったのを見て、ナポレオンは苛立ったという。それでも翌日の朝には目的地に到着できるだろうと判断したナポレオンは、翌朝8時に書いた命令で急ぎキャトル=ブラに行軍するようネイに指示したそうだ(p357)。だがネイが動き始めたのはその日の午後になってからであり、結果的にキャトル=ブラは奪えなかった。
 このジョミニによる記述は何を論拠としているのか。そのあたりを説明しているのがJohn Codman RopesのThe Campaign of Waterloo: A Military History。15日のうちにキャトル=ブラを占領するよう命令したという主張は、1つはナポレオン自身のMémoires pour servir à l'histoire de France en dix-huit cent quinzeに書かれている。彼が15日にネイに与えた命令は「ゴスリーからブリュッセルへの道を何があろうとも突き進み、騎兵をこの街道上のキャトル=ブラの先に布陣させ、ブリュッセル、ナミュール、ニヴェールへの街道上に強力な前衛部隊を維持することで軍事的にそこを確保せよ」(p42)という内容。これが事実なら確かに15日のうちにキャトル=ブラの奪取を想定していたことになるだろう。
 ナポレオンの文章は1820年に出版されたものだが、その前の1818年にグールゴーが(ナポレオンの話を書き取った)Campagne de dix-huit cent quinzeの中でほぼ同じ話を紹介している(p47)。違うのは前衛部隊を配置させる場所が「ブリュッセル、ナミュール」への街道上と2カ所になっているところくらいだ。後は脚注に、ネイがこの地域の地形に詳しく、キャトル=ブラを「すべてのカギになる場所」と述べ、敵の全軍がいない限り「2時間でキャトル=ブラに到達できる」と語ったとの逸話が紹介されている。ビビッドに描かれている分だけ信用しがたい記述ではあるが、Ropesがこのあたりを参照しているのは事実だ(Ropes, p64)。
 もちろんこれら回想録、それも一方の当事者の言い分だけでは弱いと考えたのか、Ropesはさらにもう1つの論拠を示している。公報だ。Correspondence de Napoléon I, Tome Vingt-Huitièmeに採録されている15日夜の公報(Ropesはp333と書いているが実際はp288)を見ると「皇帝は左翼の指揮をモスコヴァ公に与え、彼は夕方にはブリュッセル街道上のキャトル=シュマン[キャトル=ブラ]に司令部を置いた」とある。この公報は18日付のモニトゥール紙に載っており、Ropesはこれが「厳密には唯一の同時代の証拠」であってグールゴーとナポレオンの主張に対する強い裏付けになると記している(p64-65)。
 またRopesは、あくまで脚注の範囲ではあるが、グルーシーが1818年に出版したObservations sur la relation de la campagne de 1815からの引用も載せている。彼によれば、キャトル=ブラに向かえという命令にネイが背き、ジリーとフルーリュス方面の砲声を気にかけて足を止めたことについて、グルーシーの目の前でナポレオンがネイを非難したそうだ(p31)。似たような話にはp61でも触れており、Ropesはこの出来事が「15日から16日にかけての夜間に皇帝の司令部で起きた」(p65n)と推測している。おそらくこうした話を踏まえてジョミニは自身の本を記したのだと思われる。

 問題は、この件については昔から今に至るまでずっと論争が続いている点だ。ナポレオンやグールゴーが主張するような「15日の時点でキャトル=ブラを占領せよとの命令が出されていた」ことに対し、疑問を抱く向きが存在している。例えばRopesの本が出版された翌1893年のThe Yale Reviewには、15日から16日にかけてのネイの行動に関する彼の見解に「疑問の余地がある」と指摘する一文が載っている(p99-101)。そこではまず公報について「何が成し遂げられたかを書いたものであって、何が成し遂げられるべきであったかを書いたものではない」、つまり結果を記したものであって命令が出ていた証拠にはならないと批判している。
 グルーシーの発言についても、ナポレオンがネイに命令を与えた場面に彼がいなかった以上、その内容はきちんと調べるべきだと指摘。ネイに対して「キャトル=ブラへ行軍せよ」との指示が出されたというのはグルーシーの推測にすぎず、実際にはキャトル=ブラを奪えという命令でなくてブリュッセル街道に沿って敵を押し込めというものではなかったかと記している。つまりナポレオンによる非難はキャトル=ブラを奪えなかったという個別の事象に対してではなく、敵に対して優位を得られなかったことへの批判だったというのがこちらの解釈で、それをグルーシーが勘違いした可能性があるとの理屈だ。
 新しいものとしては“. . . Not so bad as some say”: Ney at Quatre Brasという文章もある。そこで言われているのは、16日朝にナポレオンが出した命令で、そこには「不都合でないのなら」1個師団をキャトル=ブラから2リュー前方に配置せよとの文章が書かれており、筆者はそこに切迫感はないと記している。ナポレオンがこの時点で予想していたのはブリュッセルへの行軍準備を進めるネイの前に現れるであろう「薄く守られた」キャトル=ブラであって、本格的な会戦を想定していたわけではない、というのが筆者の指摘だ(5-6/24)。
 de Witはこの件についてどう述べているだろうか。彼によるとネイがシャルルロワ北方にいたナポレオンとこの戦役で初めて顔を合わせたのは15日の午後3時から3時半の間だった。彼はそこで北方軍左翼の指揮を委ねられ、ゴスリーを落とし、さらにそこからあらゆる方向へ偵察を出しながらさらなる命令を待つよう命じられた、という(The Campaign of 1815, Volume 2, p34-35)。要するに彼もまた15日時点でキャトル=ブラを落とせという命令は出ていなかったと見ているわけだ。
 論拠になっているのは15日の午後11時にネイがゴスリーで記した報告書にある(p50)。そこの冒頭には「皇帝の命令に従って午後にゴスリーに向かい、ピレ将軍の騎兵とバシュリュ将軍の歩兵とともに敵を排除した」と書かれている。文字通りに解釈するのならナポレオンがネイに与えた命令はゴスリーの奪取となる。この報告は公文書館に残されているものなのだが、どうも1908年に出版されたde BasのLa campagne de 1815 aux Pays-Bas d'après les rapports officiels néelandais: Annexes et notesに掲載されるまで出版物に採録されることがなかったようだ。
 彼が周囲を偵察したという話は午後9時にルフェーブル=ドヌーエットがネイに宛てて書いた報告書から分かる。彼はフラーヌで戦った敵の素性(プロイセン軍ではなく英連合軍)、キャトル=ブラ方面の敵の状況、ベルギー軍の位置に関する情報などをネイに伝え、また敵はニヴェール方面へ後退すると見られるために翌朝偵察を送り出せばキャトル=ブラを占領することも可能ではないかとも述べている(p49-50)。こちらも公文書館にある史料であり、そして上記のものと同様に20世紀初頭になってようやくいくつかの出版物に採録されるようになった文章のようだ。
 こうした同時代の報告に比べ、Ropesが論拠としている公報はやはり信用度が低い。de Witもこの公報自体は紹介しているが(p63-65)、そこに書かれていることが事実に反している例を10個以上並べ立てており(p275)、いかにナポレオンの公報が信用ならないかを強調している。Ropesの議論の裏付けとなる同時代史料は厳密にはプロパガンダ目的の公報しかなく、それに対してde Witが示しているのがネイとルフェーブル=ドヌーエット(彼の報告はキャトル=ブラが15日の攻撃目標でなかったことを示す証拠の1つだとde Witは述べている、p282)という2人の指揮官の上司に対する報告であることを踏まえるなら、どちらの信用度が高いかは明白だろう。
 ではグルーシーの主張は? こちらはそもそも厳密には同時代史料ではないし、またネイが夜11時にゴスリーから帝国司令部に報告を出している点も彼の証言を疑わせる理由になる。グルーシーによれば15日から16日の夜間にかけてネイはナポレオンの司令部に戻ってきたはずだが、それなら11時に報告書を書く必要などない(直接司令部に行って口頭で説明すればいい)。またナポレオンは16日の朝4時頃に目を覚まし、4時半から5時の間にはスールトがネイ宛ての命令を記している(The Campaign of 1815, Volume 4, p18)。つまりナポレオンが目覚めた時点でもネイは帝国司令部にいなかったわけで、要するにこの夜にネイはゴスリーにとどまっていたと考える方が整合性が高いだろう。
 ネイが帝国司令部に顔を出さなければそこでナポレオンから非難されることもあり得ず、そしてグルーシーがそれを目撃することも不可能となる。そして16日朝一番の命令にはゴスリーの地名は出てくるがキャトル=ブラは登場しない。司令部からネイへの命令で最初にキャトル=ブラが言及されるのはRopesも述べている通り16日の朝8時頃に書かれたものが最初だ。ネイがこの地名を含む命令を受けたのはその時が最初だと考える方が辻褄が合うだろう。

 それにしても注目すべきなのは、ナポレオン戦争の研究が盛んだった19世紀末ではなく、その後になって広く出回るようになった史料がこの件の理解において重要な役割を果たしている点だ。以前こちらで述べたように、15日朝のフランス第3軍団の移動開始が遅れた点についても、最近まであまり知られていなかった命令書に重要なヒントがあった。つまり知識は常にアップデートしなければすぐに朽ち果てていってしまう、ということだ。生きた屍のような知識を後生大事に抱えていても意味はない。新しい知識を仕入れる努力を怠った時、人はある意味で死ぬのだろう。
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