ポーランドの火器

 それによると1383年に行なわれた攻囲の中で「赤い真鍮の銃砲から撃ち出された石弾」についての言及が、当時の年代記の中に存在するそうだ。また1391年になるとクラクフの市政府の記録に、国王の要請で大砲6門を購入したという文言も残っているという。そのうち3門は鉄製で、2門は銅製だった。当時、既に市政府は5門の大砲を武器庫に保有しており、火器の使用がそれ以前から行われていたことが分かる(p83)。といっても同時期に既にモスクワでも火器が使われていたという史料があるのだから、ポーランドで使われていたとしても別におかしくはないだろう。
 次にこの文章中で言及されているのは、1440年にブラチスラヴァ(プレスブルク)で行われた青銅製の大型砲製造に関する話。鋳型のための粘土を確保し始めたのが4月8日で、その手順は5月11日まで続いたそうだが、その時点では既に鋳型が壊れて金属が地面に零れ落ちたという。翌日に作業を再開し、6月9日には仕上げに入ったが、7月7日の試験射撃の段階で暴発を起こしてしまった。しかし製作者は諦めることなく8月に作業を再開。10月1日には鋳型に新たに金属を流し込み、12日には大砲が完成。12月9日に行ったテストも成功裏に終わったという。つまり大砲1つを作り上げるのに失敗分も含めると8ヶ月もかかったことになる(小型のものは1ヶ月ほどで製造できたそうだが)。
 といった具合に面白い当時の小話が最初に紹介されているが、この文章の主題は題名にある通り、ビエチ(ポーランド南東部)の博物館に収められている2門の古い大砲についての分析だ。大砲の写真はFig. 1とFig. 2に載っており、いずれも鍛鉄製の、つまり樽と同じような方法で製造されたものである。文中には鍛鉄製大砲についての説明も載っており、例えばドゥレ・フリートについて、幅55ミリ、厚み30ミリの32本の鉄製の棒を円筒形に並べたうえで41個の補強用のリングを箍に使っていると記している。
 ビエチにある大砲はドゥレ・フリートのような超大型のものではない。1つは口径6.4センチ、砲口の直径は18.6センチ、全長63.2センチといったサイズで、補強用の箍も5つしかない。もう1つは口径5.5センチ、全長65.7センチで、箍は6つ。砲口部分には長さ5.6センチほどの円形の突出部分があり、それも含めた砲口の直径は19.5センチ、それを除けば15.1センチとなる。どちらの大砲も砲身の厚みがかなりある点が特徴だ。
 実はこの2つの大砲、正確に言えば大砲の「一部」である。厚みの大きさや砲口部分にある突出部などの特徴から、実はこれらはヴグレールの薬室であろう、というのがこの文章の主張。具体的にはFig. 3を見てもらうと分かる。最初にこの部分を読んだ時、薬室にしては随分とサイズが大きいんじゃないかと思ったが、例えば英語wikipediaで紹介されている薬室は長さが1.07メートルに達しているそうで、だとすると60センチ台の薬室くらいなら普通に存在したのかもしれない。The Artillery of the Dukes of Burgundy 1363-1477に載っているヴグレールはせいぜい長さ1.6メートルほど。砲身に比べて薬室が大きいのがヴグレールの特徴なのかもしれない。
 さらに面白いのは、これらの薬室が後にそれ単体で大砲として使われた可能性が指摘されている点(p88)。どうやら木製の柄の上に据え付けられていたそうだが、砲腔の長さは約42センチとサイズ的には当時の野戦砲であるホーフニツェと同じくらい。つまり、当初は口径13センチくらいの石弾を撃ち出す大砲の薬室として、後には口径5~6センチのおそらく鋳鉄製砲丸を撃ち出す大砲として、使われ続けた可能性があるわけだ。薬室が大きかったからこそできる裏技だが、なかなか興味深い。
 そのうえでこの文章では博物館の大砲から入手したサンプルの分析結果を記している。結論としてどちらも鍛鉄の特徴を持っていたそうだ。さらに鍛鉄製の銃が破損した事例についてもいくつか紹介。村の鍛冶屋でも製造できたと言われている鍛鉄製の銃砲だが、時にはリンなど不純物の含有度が高い質の悪い製品もあったようで、そうした火器は暴発することもあったそうだ。ただし質の問題だけではなく、想定以上の火薬を使ったり、あるいは衝撃に対して脆くなるような低温下(例えば冬場)で使用した結果として破損したものもあったようだ。
 表題にはビエチの大砲と記しながら、実はそれにとどまらない色々な話が紹介されている点で、面白いしなかなか参考になる文章だった。特にヴグレールの薬室が後にそれ自体ホーフニツェとして使われていたというあたりは、これまで聞いたことのない話だっただけに興味深い。鍛鉄製の大砲が他のものに取って代わられるには時間を要したという話は前にも紹介したが、こういう形で生き延びた兵器もあったわけだ。

 次にこれまた面白かったのがCannonballs from the Olsztyn Turretという文章。ポーランド北東部にあるオルシュティン(アレンシュタイン)で見つかった塔の遺跡を調べた結果、そこから興味深い砲弾が見つかったという話だ。何が興味深いのかというと、その砲弾の中に「粘土の素焼き」(Fig. 3)があった点だ。
 発見された砲弾の中身についてはTab. 1にまとめられている。見ての通り、口径サイズは4種類で、小さいものだと9.0~9.3センチ、大きいもので15.5~16.2センチであり、数が多いのは2番目に大きい12.9~14.0センチのものだった。素材別に見ると最も多かったのは花崗岩質岩であり、巨晶花崗岩、花崗片麻岩といったものも割とよく使われている。いずれも火成岩であるが、一方で周囲から多数見つかる堆積岩を使った石弾は1つも見つからなかったという。確かに火成岩の方が堆積岩よりは砲弾に向いているようで、だから堆積岩の砲弾がないのは不思議ではないとの見方もあり得ただろう。粘土製の砲弾がなければ。
 そう、粘土は堆積岩よりもさらに砲弾に向かない素材である。この文章でも指摘しているが、最も多い口径サイズの石弾は重量が3.0~3.25キログラムあるのに対し、同サイズの粘土弾の重量は2.15~2.42キロにすぎない。同じサイズでも石弾に対しておよそ30%ほど軽量の砲弾になってしまうのだ。後に鋳鉄製の砲弾が増えたのは小さいサイズでも質量が大きく、それだけ高い運動エネルギーを得られることが理由だった。一方、粘土弾はそれと逆。軽量の砲弾は対象に与えるダメージがそれだけ減ってしまうわけであり、武器としては石弾に比べてマイナスだったと思われる。
 にもかかわらず、どうして粘土を焼いた砲弾が製造され、備蓄されていたのか。文中では色々と考えられる論拠を示していた。まず、岩をコツコツ削って作成するよりも安価に製造できる。また軽量の砲弾を撃ち出すのに必要な火薬量は少なくて済み、こちらもコスト削減になる。砲身に与えるダメージも少なく、長期間大砲を使用できる面もあるかもしれない。一方で対物兵器としてはほぼ使い物にならない。対人兵器として以外の使用法としては、訓練射撃くらいしかない、と文中では記している。
 発掘状況から見ると、粘土製の砲弾は後から作られたのだそうだ。時代の変化に伴って、この塔に設置された大砲に対する要求が変わっていったのかもしれない。wikipediaによると15世紀半ばにはドイツ騎士団とポーランドの係争地であったオルシュティンは、同後半にはポーランド領に完全に組み込まれたそうで、そうした政治的変化が何らかの影響を及ぼしたのだろうか。
 同時に塔の遺跡自体も調査され、どうやらその中には火器を支えるための梁を設置できるようになっていたことが分かったそうだ。Fig. 5やFig. 6に写真や復元図が載っており、壁に穿った銃眼から大砲の砲口を出して砲撃していたらしいことが分かる。こうした方法で撃つ場合、確かにヴグレールのような後装式の大砲の方が装填作業がやりやすいのは事実(前装式だと大砲を塔の中に完全に引っ込めたうえで作業しなければならない)。後装式が多かった当時の火器に合わせて作られた施設なのだろう。

 いずれもたまたまポーランドの事例であったが、初期の火器に関するなかなか面白い知見が得られた。こういう文章はまだ多数存在するはずだ。前にも書いたと思うが、あらゆる物事を知るには人間の一生は短すぎる。他にも私の知らない意外な話があるのは間違いないし、その意味ではおそらく一生退屈することはないだろう。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント