1795年ライン 反撃1

 前にも紹介した通り、ハントシュースハイムの戦闘は連合軍の勝利に終わった。うちネッカー左岸での戦闘についてはSchelsの説明が妥当かどうかわからないところがある、とこちらでも指摘済み。またネッカー左岸にはアンベール師団以外にもランベール旅団が到着していたはずなのだが、こちらについてSchelsは具体的な部隊名に言及していない。実際には行われなかった22日の戦闘も含め、Schelsの記述に色々と怪しげなところが混じっているのは確かだ。
 連合軍はこの戦闘で500人を捕虜とし、フランス軍戦死者はネッカーで溺れた者を除いて1000人を超えたという。大砲8門の他にも多くの銃、ドラム、荷物などが戦場で手に入った。一方、クォスダノヴィッチの損害は死傷者と行方不明合わせて200人未満にとどまった。24日夕、クォスダノヴィッチの主力は戦闘前と同じ陣地を占め、前哨線はシュリースハイムからラーデンブルク、ネッカースハウゼン、エッペルハイム、ホッケンハイムを経てクライヒ川まで伸びていた。敗北したピシュグリュの前哨線はケフェンタールからイルバースハイム(イルフェスハイム)、ゼッケンハイム、シュヴェツィンゲンを経てライン河畔のケッチュまで届いていた。
 Schelsが基本的にクレルフェ贔屓であることは最初に述べたが、その代わりにヴルムザーについては割と記述が冷淡であり、ヴルムザー配下のクォスダノヴィッチが収めたこのハントシュースハイムの勝利についても書き方はかなりあっさりとしている。この戦闘は1795年ライン戦役の流れを変えた重要な(その割に小規模な)戦いだったのだが、Schelsはハントシュースハイムよりもその前後のクレルフェの対応の方に焦点を当てている。

 続いてSchelsはDie Operazionen des Feldmarschalls Grafen Clerfayt am Rheine vom Main bis an die Sieg, und General Jourdans Rueckzug ueber den Rhein, im Oktobar 1795(p278-305)で新しい章に入っている。題名の通り、今度はクレルフェによるジュールダンへの反撃の話が中心だ。引き続き地図はこちらのReymann's Special-Karte(20万分の1)と、Old Map OnlineにあるMesstischeblattの2万5000分の1地図を参照。
 クォスダノヴィッチがネッカー両岸で戦った9月24日、ツェーントナーはヘッペンハイムにとどまっていた。25日に彼は再びヴァインハイムに前進し、シュリースハイムとラーデンブルクを占領してネッカー右岸に展開した。また前日にアーハイリゲンからツヴィンゲンベルクへと前進していたクレルフェは、ハントシュースハイムの勝利の知らせを受けて25日は動きを止め、26日には部隊を率いてアーハイリゲンに戻った。
 26日、上ライン軍のラトゥールが増援とともにヴィースロッホに到着し、ネッカー河畔に駐屯する全軍の指揮を執った。一方24日にはフランスの騎兵がイルベスハイム(イルフェスハイム)とハイデンハイムに来てヘダースハイム(ヘッデスハイム)とシュトラスハイムの丘(不明)の連合軍を攻撃した。連合軍の増援が駆けつけてフランス兵60騎を倒し、27騎を捕虜として残りを川へと追い落とした。
 オーストリア両軍の分断という危機を脱したところで、今度はマインツ解囲が必要になった。まず手始めにマイン河畔のジュールダンを機動あるいは会戦で押し戻し、カッセルの封鎖を解いてフランス軍をライン沿いに、さらにはラインの対岸へと退却させる。そうすれば同時にエーレンブライトシュタインの封鎖も解除させることになる。ジュールダンを退却させれば、クレルフェはすぐマインツで河を渡り、この要塞を封鎖している左岸のピシュグリュ軍を素早く攻撃して退却に追い込まなければならない。
 クレルフェはヴルムザーとの間で両軍の作戦についてすり合わせることにした。ウィーンからの23日と25日の司令はジュールダンに対する激しい攻勢を行って彼らをライン対岸に撃退することを、そしてヴルムザーにはアルザス攻撃を一時的に諦め、上ラインを守ったうえでクレルフェのジュールダン攻撃を全兵力で支援するよう求めていた。9月30日、クレルフェはマンハイム攻撃にも、またマインからネッカーまでの防衛にも兵力を割くことはできないと連絡。またヴァインハイムにいる部隊の指揮を引き継いだコロレードに対して同日にアーハイリゲンの主力と合流するよう伝えている。
 10月2日、クレルフェとヴルムザーはハイデルベルクで顔を合わせた。クレルフェはマイン流域にいる6万人のジュールダン軍を攻撃する決意を示し、そのために帝国軍6万2500人を集める必要があること、そして上ライン軍の支援が必要であることを示した。ヴルムザーはこれに対し、マンハイム占領への対処として彼がクォスダノヴィッチとラトゥールを送ったこと、これらの兵とプファルツ兵がマンハイムを監視しているが、ピシュグリュがライン上流域の兵を減らさない限りこちらもこれ以上は兵を引き抜けないことを告げた。上流域では中立地であるバーゼルとシュヴァーベン兵が守っているケール砦が特に連合軍戦線の弱点だった。
 フランス軍の攻撃に対して長い戦線を守るため、オフェンブルク付近に集めている予備は動かせない、というのがヴルムザーの主張だった。敵がライン上流域で渡河をすれば、物資や兵站拠点、退路が危険に晒される。そのため上ライン軍は主力軍によるジュールダンに対する攻勢をこれ以上増援することはできない。だが自軍の右翼でネッカー両岸やマンハイムを監視し、山沿いの道を確保し、そして必要ならランパーツハイムやベンツハイム(ベンズハイム)まで戦線を延ばすことは可能だ、とヴルムザーは告げた。
 そこでクレルフェはマイン左岸に1万3000人を残し、ランパーツハイムやベンツハイムまでの哨戒線とフランクフルトまでの戦線、フランクフルトそのもの、そしてアシャッフェンブルクや他の地点に架けたマインを渡る舟橋を守らせることにした。残るおよそ5万人で彼はマインを渡り、ジュールダンを攻撃すると決断し、会議に参加した者たちは全員、積極的な決断をすることで合意した。
 アーハイリゲンへ戻る途中、アウアーバッハでクレルフェはヴァ―ネックからの連絡を受けた。ザクセンのリント将軍が選帝侯の命令を受け、部隊を引き連れてオバーンブルク経由で本国に帰ることになったという知らせだ。クレルフェはこの件について皇帝や帝国からの決断を受け取るまで出発を待つよう訴えたが、ザクセン軍は退却を続け、クレルフェが戦闘に使用できると見込んでいた5万人から7000人が失われた。それでもクレルフェはジュールダン攻撃の決意を変えなかった。
 ラン=エ=モーゼル軍の中央がハイデルベルク付近で敗北を喫した同日、サンブル=エ=ムーズ軍はライン右岸からのマインツ包囲を実行していた。マインツ総督のノイ将軍はビバーリッヒ(ビープリッヒ)からモスバッハ、アーベンハイム、マッセンハイム、ヴィッカート(ヴィッカー)を経てフレアスハイムまで半円形の前哨線を敷いていた。9月24日午後2時、フランス軍は3つの縦隊で前進してきた。右翼の第1縦隊はラインに沿ってビバーリッヒまで、中央の第2はランゲン=シュヴァルバッハ(バート・シュヴァルバッハ)からモスバッハへ、左翼の第3はヴィースバーデンからアーベンハイムとホッホハイム(ホッホハイム=アム=マイン)へ進んできた。本格的な攻撃はなかったが夕方にはオーストリア軍哨戒線はカッセル近くに集まり、さらにドンナーミューレ、コストハイム村、そしてその背後に建造された堡塁を保持していた。
 このあたりのマインツ周辺の地名については、こちらのサイトにある1793年の戦役に関連した地図が参考になるだろう。1795年戦役関連の地図もいくつかあるが、点数が少ないためあまり役には立たない。逆に1793年戦役については大量の地図が掲載されており、ライン右岸に焦点を当てたものも多い。
 9月25日、フランス軍はコストハイムまで前進し、村にいた36人のオーストリア軍哨所を追い払った。それから彼らは村の背後にある堡塁(大砲2門で守られていた)を攻撃したが、ここでは撃退された。続いて彼らはマイン河にそって堡塁の背後を取ろうとしたが、ザルム将軍がカッセルから部隊を出撃させ、フランス軍をコストハイムへと追い返した。サンブル=エ=ムーズ軍は左翼と中央をヘーヒストからクローネンブルク(フランクフルト北西のクロンベルク)の間に配置し、哨戒線をマイン右岸に沿ってコストハイムまで延ばした。右翼はコストハイムからビベリッヒまで展開した。
 26日、ライン左岸の封鎖部隊を指揮するシャールがオーストリアの前哨線攻撃を命じたが、彼らはツァールバッハ堡塁からの散弾で撃退された。ジュールダンはクレベールを右岸の封鎖部隊指揮官に任じ、彼はホッホハイム近くでマインに舟橋を架けて26日から27日にかけての夜間に部隊を対岸に送った。フランス軍はビショフスハイムを占領し、グスタフスブルクとギンズハイムに哨戒線を置いて27日朝にはこの方面での町の包囲を完成させた。
 以下次回。
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