問題はでかくて不格好なそのボンバルドにあったようだ。それらの運搬は指揮官にとっては大問題であり、1464年にミラノが行った戦争では大型砲を動かすのに1日2キロしか移動できず、また移動のためには大量の大工、木こりなどを雇って道路の整備から始めなければならなかった。あまりに動かすのが大変だったためイタリアでは近くの同盟国からボンバルドや砲兵などを借りるのが通例だったが、高価なボンバルドは製造するのにも多額の費用が必要だったし、輸送用の輓獣や御者も安くはなかった。
大砲そのものだけでなく周辺装備も加えて移動させるために、大量の車両も必要になった。ドン・フェランテは1ヶ月間だけ200両の車両を借りるのに2000デュカットを投入したという。おまけに通常の車両はこのような重い物を運ぶには向いておらず、新たな車両の製造も必要だった。道路を整備し、大砲を据え付けるための工兵も不足しがちで、要するに大砲を使う戦争は極めて時間がかかったのである。その間に雇われた兵の中には脱走者も増え、不服従の問題も生じた。
そこまで苦労して運んでもボンバルドがほとんど撃てないケースもあった。要員不足や故障、弾薬の不足や品質の問題、敵の出撃といった要因もあり、例えばナポリの重砲は平均して24時間に7発しか放てず、フィレンツェはある攻城戦で1日10発かそれ以下だった。もちろんイタリア人もそうした問題の解決策を考えており、例えば1460~70年代には砲車の必要性が唱えられている。他にも大砲の標準化といった案も出ていた。フランスの大砲はこうした問題への解決策を提示したとも言える。
まずは軽量化だ。大砲の軽量化が進めば同じ素材の量で複数の大砲を鋳造できるし、実際に1490年代に入って製造量は増えた。砲車も軽量で頑丈なものが作られ、輓獣は動きの遅い牛から馬へとシフトした。もちろん砲耳の存在によって移動から狙いをつけるまでの時間も短縮され、それだけ必要な工兵の数が減った。砲身の延伸は射程距離と発射速度を向上させ、フランス人が来るまで知られていなかったという鉄製の弾丸は、製造効率を高め、コストを下げるといった経済的な優位をもたらした。
フランス人がもたらした「よりお手軽な」大砲は城壁の前に素早く据え付けられ、砲撃間隔は短く、砲弾はあまりに素早く撃ち出されたため、それまでなら数日かかっていた城壁へのダメージを数時間で与えられるようになった。
ただし、この技術的優位をフランスが確保できた期間はあまりにも短かった。既にフランス軍がアルプスを越える前に、彼らの同盟国では100門もの小さな大砲が鋳造されていたし、フェラーラでも1495年には長さ6.5メートルで砲車に乗ったカルヴァリンが製造されていた。彼らは1497年には新たな炉を建設し、その1年後にはミラノでも同様の工場計画が持ち上がった。ヴェネツィアでは1496年になってフランス式の大砲製造が始まり、1498年にはフィレンツェ相手に使われたが、悪路のために砲車が壊れたのと輓獣の不足が問題になったという。1499年のミラノとの戦争でも新型の大砲が求められた。
シエナでは1495年にファルコンが製造され、翌年にはフランス兵の協力を得てカルヴァリンが作られた。ジェノヴァは1497年にフランス式の大砲を採用し、船舶に対してキャノン2門とファルコン4門を搭載するよう命じた。一度はフランスに占領されたナポリでも1495年には鉄製の砲弾が製造され、1499年にはキャノンやカルヴァリンなどを含む約90門の大砲を保有するに至った。彼らはローマのコロンナ家の火器による武装を支援し、1497年にはライバルのオルシーニ家の兵を撃ち破っている。
教皇も新たな火器を用意し、彼の息子であるチェーザレ・ボルジアは1500年頃には大砲を揃えて遠征を行うことができるようになった。彼はまたナポリから大砲も購入した。他の小さな諸侯やコンドッティエーレもこうした新型大砲に注目し、ある傭兵兄弟は12門のファルコンを所有していた。
フィレンツェも1495年には大砲鍛冶の1人に命じてフランス軍の大砲をスケッチさせ、すぐにフランス式の大砲製造に踏み切っている。また彼らも新たな炉の建設に踏み切り、1498年には旧式の大砲の製造をやめてフランス式にシフトしている。同時にフランス式の大砲に欠かせない鉄製弾丸の製造も1495年には取り組みが始まり、3年後には以前と同量の砲弾を入手できるようになったという。1498年には1000発の鉄製弾丸が発注され、新たに3人の親方も雇われた。1498年の2月から9月までにフィレンツェは37門の大砲を鋳造し、翌年にはピサを少なくとも80門の大砲で包囲している。
だが新たな技術の進展には別の問題が立ちはだかった。戦争の激化に伴って武器への需要の方が供給を上回る速度で拡大してしまったのだ。上記のピサ包囲に際し、フィレンツェは足りない大砲を補うために古いボンバルドを7門持ち出している。彼らは1496年に大型ボンバルドを3門、ヴェネツィアは1498年に2門、新たに製造した。フランスでシャルルの後を継いだルイ12世ですら、必要な時には同盟国から3門の古い大砲を借り受けている。
新たな弾丸が足りない軍では、時に鉛が鉄の代用品となった。フェラーラが作った新たな大砲工場は、材料となる金属不足と砲弾製造の不足として閉鎖に追い込まれそうになった。砲車の生産も簡単ではなかったし、牛は多数いても輓馬は少なかった。政府は大砲で戦うだけでなくそのサプライチェーン全体を上手く機能させる必要に迫られ、時にはあちこち材料を探しまわり、労働者は夜を徹して働く羽目に陥った。兵站が機能しなければ戦役は上手く行かなかった。要するにフランスの大砲は、優秀ではあったがそれだけで戦争に勝てる兵器ではなかったのである。
実際、急速に広まったフランス式大砲は各国間の技術格差をなくした。一方でこうした大砲がすぐにルネサンス式の要塞をもたらしたわけでもないとこの文章は指摘している。1520年代までは昔ながらの円形の塔が使われ、稜堡の進化には時間がかかった。兵力は大砲の使用によってではなく、作戦の長期化などの理由で膨れていった。結局のところ、フランスの大砲はそれほど「革命的」ではなかった、というのがこの文章の結論である。
以上、大雑把な結論のところでは「軍事革命」を巡る議論に話を収束させているが、まあこのあたりはこの文章を掲載させるための建前というか口実みたいなものなので、そう重視する必要はない。見るべきはイタリアの各諸侯が15世紀から16世紀初頭にかけてどのように大砲を変化させていったかに関する細かい情報そのものであり、そうした細かい情報こそこの文章が持つ最大の価値と言える。
もちろん気になるところもある。15世紀の半ば頃からボンバルドを中心にした火器が広まっていたのは分かるのだが、この文章で紹介されているのはほぼ全て青銅製の大砲。アルプス以北では普通に存在していた鍛鉄製の大砲がイタリアにどのくらい存在していたのかは分からない。古いボンバルドという言い回しで鉄製の大砲への言及はある(p355)ので、ここで言及されているよりもう1つ古い時代(15世紀前半?)の大砲として鍛鉄製の大砲があったのかもしれないが、細かくは分からない。
前回紹介したイタリアの各種大砲が妙に長いように思える点も謎だ。フランス軍が持ち込んだ大砲の方が砲身が長かったという同時代の記述があるそうなので、それよりは短い砲身のものがイタリアでは一般的だったと考えた方がよさそうなものだが、あそこで一覧にした大砲はどれも結構長い。長さの単位が間違っているのではないかと思いたくなるレベル。というかバジリスコの長さ(6.5~7.5メートル)はいささか異常に思えるレベルだ。少なくとも前装式だと装填がかなり困難じゃなかろうか。
とまあ細かく言えば色々と気になる点はあるが、全体として見れば役に立つ情報満載のなかなかありがたい文章であった。これらの情報のうちどれが割と新しい研究成果に基づくものなのかは分からないが、こういった古い時代の話でも知識がアップデートされているというのは実に興味深いところ。楽しい読書体験ができた。
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