イタリアの大砲 上

 火薬革命の成果が戦場に姿を見せた事例として、よく紹介されるのがイタリア戦争だ。15世紀末から16世紀中ごろまで続いた戦争だが、中でも幕開けとなった1494年にフランスのシャルル8世が率いた砲兵部隊がルネサンス期イタリアに衝撃を与えたことをもって軍事革命の一例とする記述は色々と見かける。そしてこの最初のフランス軍侵攻について、特に砲兵に焦点を当てた文章があったので紹介しておこう。
 'This French artillery is very good and very effective'. Hypotheses on the diffusion of a new military technology in Renaissance Italyという文章がそれ。割と最近に書かれたものだけあって新しい研究成果も色々と取り入れているようで、15世紀から16世紀への変わり目におけるイタリアの大砲についてかなり詳しい話が載っている。まさに火薬革命真っ盛りの出来事だけに、なかなか興味深い話がたくさん載っている。

 まずこの文章ではフランス軍侵入前のイタリア(1430年代以降)における火器情勢を説明する。例えばナポリではこの地を支配していたアラゴンのアルフォンソ5世が火器装備に力を入れていたことが指摘されており、1442年の砲兵隊長任命やナポリで数十門の青銅砲が製造されていたことなどが紹介されている。彼の庶子でナポリ王の地位を継いだドン・フェランテの時代には135門の大砲があったそうで、その中にはボンバルドやチェルボッターネ(砲身が長く口径の小さい砲)があった。さらに後の記録には武器庫の中に「8門の青銅製重ボンバルドと2門の大型チェルボッターネ(中略)及び数多くの要塞やガレー船用の鉄製ボンバルド」があったとも記されている。大きなボンバルドは重量9.2トンで130キロの石弾を撃ち出したそうだ。
 ミラノでは1472年の記録で重量8トン超、200キロ以上の石弾を撃ち出すボンバルドについて書かれているし、1464年に使われた2門の青銅製ボンバルドや鋳鉄製大砲は90キロから130キロの石弾を撃ったそうだ。ヴェネツィアでは1450~60年代に色々な大砲が鋳造されていたそうだし、より小さな諸侯、例えばウルビーノ、マントヴァ、フェラーラなどでも大砲の製造に取り組む例があった。シエナでは1453年に大砲鍛冶を雇って青銅砲づくりに取り組んだが、1478年になってもまだ鉄製の大砲も使っていた。
 教皇領でもこうした大砲は作られていた。1462年には有名な職人が大砲を作っているし、1464年から71年にかけてはドイツのシュトゥットガルトやニュルンベルクから人を雇っている。教皇は自ら新たな大砲を祝福し、敵を壊走させるよう祈りをささげた。教皇と敵対していたローマの貴族であるオルシーニ家も大砲鍛冶を雇い入れようとした。
 もちろんフィレンツェも同じ。1452年には既に5門の青銅製重砲を彼らは持っており、1479年から94年にかけて金属と硝石の購入額を倍に膨らませた。火器の重さは小さいものだと3キロ、大きいものは4トンあり、石弾のサイズは8キロから100キロまでさまざまだった。1485年に製造されたボンバルドは135キロの石弾を発射し、また7.8トンの青銅砲も存在していた。中には230キロの石弾を撃ち出す大砲もあり、また5トンを超える青銅製のバジリスクもあた。
 面白いことに、大型の大砲には個別に名前が付けられていたようだ。この文章中では例えばアルフォンシーナやナポリターナという名の大砲の図が掲載されている(Figure 1)。固有名ではなく大砲の種類を示す言葉としては、以下のようなものがあった。

ボンバルダ 長さ4.5~6メートル 石弾重量102キロ
モルタロ 長さ1.5~2メートル 石弾重量70~100キロ
コムーネまたはメッツァーナ 長さ3メートル 石弾重量17キロ
コルタナ 前部砲身2.5メートル、後部砲身1メートル 石弾重量20~35キロ
パッサヴォランテ 長さ5.5メートル 鉛弾重量5.5キロ
バジリスコ 長さ6.5~7.5メートル 弾丸重量7キロ(材料は色々)
チェルボッターナ 長さ2.5~3メートル 鉛弾重量1キロ
スピンガルダ 長さ2.5メートル 石弾重量3.5~5キロ

 ただしこれは理論的なものにすぎず、実際にはボンバルドより大きなバジリスクがあったり、パッサヴォランテとチェルボッターナが同じものだったりしたケースもあった。

 一方15世紀末にイタリアに攻め込んだフランス軍の砲兵については、既に1492年にヴェネツィアの大使が約30キロの鉄の弾丸を発射していること、宿営する時には砲車が野戦築城の役目を果たし、攻城戦の際にはボンバルドより円滑かつ短時間で城壁を破壊すると記している。また例えばヴェネツィアでは10年後まで大砲を担当する責任者は存在しなかったが、フランスは1470年代からそうした組織改革を進めており、また砲兵部隊は5つの「バンド」に分割されてフランス内に配置されていた。合計でフランス王は150門以上の重砲に頼ることができたという。
 イタリアに攻め込んだフランス軍が率いていたのは40~50門の大砲であり、8~9門のキャノン、4門のカルヴァリン、そして少なくとも30門のファルコンがあった。いずれも青銅で一体成型されたものであり、複数のパーツに分けられていたイタリア製のボンバルドとは異なっていた。重量はキャノンが2~4トン、長さ2.5~3メートルで、22キロの鉄弾を撃ち出した。カルヴァリンはそれより1メートル長く、13キロの鉄弾を撃った。ファルコンは4キロの鉛弾を発射しており、重量は500キロ以下だった。
 イタリア人はこの砲兵群に驚き感心したようだ。ボンバルド並みのダメージを与えられるこれらの大砲は小ボンバルドとも呼ばれ、またイタリアの大砲に比べてかなり長いという記録もある。上に紹介したイタリアの各種大砲もかなり長い気がするのだが、もしかしたらこれらの数字はあまり実態と適合していなかったのかもしれない。また鉄製の弾丸のみを使っていたことも驚きだったようで、その砲弾は厚さ3メートルの石壁を貫いたという。
 他にもフランスの大砲に関する記録は色々とある。パオロ・ジョヴィオはキャノンの長さ2.5メートルで重さは2トン、人の頭ほどの鉄弾を発射すると記しているし、カルヴァリンは長さが半分ほど長いが弾丸は小さく、ファルコンはオレンジと同じサイズの弾丸を撃つとしている。フランス軍の軍務に就いたことがある者の記録だとサーペンタインキャノンが長さ2.5メートル、鉄弾の重量は16キロで、カルヴァリンは長さ3.5~4メートル、10.5キロの砲弾を放ち、スピンガルダと同じファルコンは長さ2メートル、4~5キロの鉛弾を装填するとしている。
 ただフランス軍はナポリへの進軍に際し、それほど大きな障害には出会わなかった。最初にラッパロで遭遇したナポリの傭兵は虐殺されたそうだし、抵抗した2つの城塞のうち、1つは砲撃によって塔が崩壊し、最初の襲撃で陥落した。2つ目も夜の間に8時間にわたる砲撃を受け、フランス兵による破口からの強襲で陥落した。一方的な展開にナポリ側も抵抗する気を失ったのか、彼らはあっさりとフランスの軍門に下ったという。
 イタリア戦争で最初に行なわれた本格的な会戦はシャルル8世がイタリア侵攻を始めた翌年、1495年に行なわれた。フォルノヴォの戦いはフランスに対抗する同盟国が形成されたと聞いてナポリから北上してきたフランス軍と、ヴェネツィア、ミラノなどの同盟軍がぶつかったもので、後者の方が兵力では倍ほど揃えていたにもかかわらず戦いはフランスの勝利に終わった。だがシャルルはその後でイタリアからの退却を強いられており、彼のイタリアでの戦果はほとんど放棄せざるを得なかったようだ。
 勝利を収めたとはいってもこの戦いのフランス砲兵はろくに活躍できなかったようだ。激しい雨が理由だったとも、弾薬が欠乏していたためだとも言われている。一説によるとフランス側の砲兵のみならず、同盟軍側の砲兵も敵を10人と殺すことはできなかったそうだ。それでもフランス砲兵の名声はこの時期には既にイタリアで確立されていたようだ。特に攻城戦におけるフランスの戦術はルネサンス期の戦争においては先例のないものだったそうで、イタリアではまさに「目新しい」ものだったという。
 どこか目新しかったのかについては、話が長くなったので以下次回。
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