1795年ライン 進軍3

 SchelsのDie Operazionen am Rheine vom 8 bis 24 September 1795; mit dem Treffen bei Handschuhsheim(p107-150)の続き。引き続き地図はこちらのReymann's Special-Karte(20万分の1)と、Old Map OnlineにあるMesstischeblattの2万5000分の1地図を参照。
 ヴルムザーがクォスダノヴィッチにラインを下るよう命じたという情報が届いた時、ピシュグリュはアルザス方面への連合軍の攻勢はないとようやく安心できた。政府とジュールダンからの繰り返しの要請を受けていた彼は、この時点でようやく動き出すことができるようになった。この辺りのピシュグリュの動向は以前フランス側の本を使って紹介したことがあるが、Schelsも似たような評価をしていたことが分かる。
 当初渡河を計画していたオッペンハイムではオーストリア軍の防衛が整ってしまっていたため、渡河地点はマンハイムに定められた。そのためにはこの地点に兵力を集める必要があった。ユナング付近からストラスブールまで展開しているラン=エ=モーゼル軍右翼は4個師団で構成されており、ボーピュイの第5師団はシュパイアー方面に向けて移動中だった。第6及び第7師団はマインツ封鎖に参加していたが、彼らもまたマンハイム方面に移動しており、ボーピュイと合わせてラン=エ=モーゼル軍の中央を形成した。シャール将軍率いる左翼4個師団はライン左岸からのマインツ封鎖を続けていた。
 9月19日、ピシュグリュはプファルツの総督であるベルダーブッシュに対してマンハイム明け渡しを要求し、拒否すれば町を砲撃すると脅した。現地に到着したフランス軍はライン左岸に砲台建造を始め、ベルダーブッシュはプファルツの大使オバーンドルフとともに、オーストリアの守備隊将軍コスポートには秘密にしたままフランスとの交渉を始めた。同日、クォスダノヴィッチがシュヴェツィンゲンに到着し、命令通りにマンハイム守備隊を交代させようとしたが、オバーンドルフはこれ以上オーストリア兵が町に入るのは拒否した。
 20日、降伏文書に署名がなされ、午後4時にはプファルツ選帝侯領への退却が守備隊に認められた。プファルツ政府はラインに橋を架けるための船舶をフランスに供給することになった。ツェーントナー将軍は守備隊のオーストリア軍を引き揚げ、ゼッケンハイムに布陣していたクォスダノヴィッチは、物資を守りライン上流と下流の連合軍をつなげるようにヴィースロッホからハイデルベルクまでに布陣し直した。20日夕方にピシュグリュは派遣議員とともにマンハイムに入り、21日にはプファルツ兵が町から撤収してフランスのアンベール師団とデュフール師団が代わりにそこを占領した。彼らはそこで大砲471門、大量の弾薬や物資を手に入れた。
 マンハイム陥落によってクレルフェの率いる主力軍はかなり窮地に陥った。正面のジュールダンは彼の部隊より多く、背後ではピシュグリュがネッカーを遡って彼と上ラインのヴルムザーとの連絡を遮断する可能性があった。この危機を避けるため、クレルフェはマイン左岸への退却を決断。22日午前4時に行軍を始めた。エアバッハの第1縦隊はヘーヒストで渡河してシュヴァンハイムへ移動し、クレルフェは第2から第4縦隊とラインコルドンをリュッセルハイムとラウンハイムの間の宿営地へ連れて行った。前衛部隊のみは右岸に残り、カッセルにいるマインツ守備隊との連携を保っていた。
 マンハイム方面ではクォスダノヴィッチの部隊以外に、ツェーントナーの部隊もハイデルベルクをカバーする役目を担っていた。後者は22日、ランパーツハイム(ランパートハイム)付近に布陣し、クレルフェはリュッセルスハイムから彼に増援を送った。ツェーントナーはネッカー右岸で、クォスダノヴィッチは左岸で、ピシュグリュの前進を阻止することになった。リュッセルスハイムではシュターダーが残された部隊を指揮した。
 フランス軍がハイデルベルクとフランクフルトを奪うことに成功した場合、クレルフェがヴルムザーと連絡を取る手段として残されたのはアシャッフェンブルク(フランクフルト南東)を経由するルートのみであった。彼はヴァ―ネックをこの地点に配置して連絡線を守らせた。そのうえでクレルフェは残った部隊を2つに分けてヴァルテンスレーベンの指揮下に置き、司令部はリュッセルスハイムに置いた。
 22日、クレルフェの下に改めて攻勢を命じる16日付の手紙が届いた。すぐに敵を攻撃し、会戦を行って絶え間なく追撃せよという命令はこの後も23日、25日に届いた。一方、現場の指揮官はクレルフェ、ヴルムザーともまず両軍の連絡を確保することを最優先としていた。ヴルムザーはクォスダノヴィッチに続き自身も集められるだけの兵とともにマンハイムに向かっており、ピシュグリュの攻勢を阻止するつもりだった。両軍の連絡が確保され、マンハイムからの出撃を防いだ後にのみ、攻勢に出ることが期待できる状態だった。
 23日、クレルフェも主力部隊(ヴァルテンスレーベンの2個部隊とシュターダーの部隊)とともにマインから出発し、マンハイムに近づくようにダルムシュタット近くのアーハイリゲンへと移動した。ツェーントナーに対してはクォスダノヴィッチと並ぶようにヴァンハイムに主力を布陣させるよう命令が出されたが、この将軍は既に22日にヘッペンハイムへと退却していたためこの命令を実行できなかった。一方、マイン右岸にいた前衛部隊は左岸へと移り、哨戒線をフランクフルト対岸のザクセンハウゼンからケーニヒシュテッテン(リュッセルスハイム南)、ナウンハイム、グリースハイム(ガーンスハイム?)、シュヴァンハイムを経てヘッペンハイムまで延ばした。ザクセン部隊はアーハイリゲンとアシャッフェンブルクの間、ボーベンハウゼン(バーベンハウゼン)に配置された。
 連合軍がマイン河の背後に退いたため、マインツの防衛はその守備隊に完全に委ねられることになった。だがこの地の防衛施設はかなり整備されており、1万5600人の守備隊がいて物資は3ヶ月分蓄えられていた。大砲は411門あり、4分の1は攻城砲で半数は野戦砲だった。ライン右岸のカッセル砦、マルス堡塁、コストハイム背後の塹壕、そして中洲の防衛施設はいずれも防衛可能で、主計官であるウィリアムズ少佐が指揮する小規模な艦隊がそれらを支援することになっていた。
 23日、ジュールダンの軍はラーンを発し、ナッサウの山地からゆっくりとマイン峡谷へと下ってきた。マルソーのみはエーレンブライトシュタイン封鎖のため後方にとどまった。フランス軍右翼はマインツ要塞へと接近し、9月24日朝には右岸に配置された砦を囲むようにフランス軍前衛が大きな半円に陣を敷いた。かくしてマインツの封鎖は完成し、ジュールダンはヴィースバーデンに司令部を置いた。

 9月22日、ピシュグリュはマンハイムのフランス軍にネッカーを遡らせ、2つのオーストリア軍の連絡を遮断しようとした。Schelsはここで左岸を進んだのがデュフール師団で、右岸はアンベール師団が進んだと記しているが、おそらくこれは間違い。その後でアンベールはハイデルベルクからヴィースロッホ(つまりネッカー左岸)に布陣しているクォスダノヴィッチと対峙し、デュフールはランパーツハイムにいるツェーントナーと向き合ったと記しているからだ。ツェーントナーは山沿いのヴァインハイムとシュリースハイムに前衛部隊を配置していた。
 連合軍はヴァインハイムとノイエンハイム(ハイルスベルク北)を通じて連携しようとしていたが、フランス軍はネッカー両岸の哨戒線を押し返し、ノイエンハイムの少し先まで戦線を延ばしていたクォスダノヴィッチの右側面を迂回して山地まで到達した。その過程で彼らは右岸のケファータールとラーデンブルク、右岸のゼッケンハイムとネッカラウを占領し、山沿いにあるドーゼンハイム(ドッセンハイム)とシュリースハイムからツェーントナーの前衛部隊を追い払った。ツェーントナーはヘッペンハイムに退却したが、クォスダノヴィッチは22日から23日にかけての夜間にフランス軍をドーゼンハイムとシュリースハイムから追い払った。
 この2つの村についてはフランス側の史料と言い分が違っているという話を前に紹介した。その時点ではSchelsの言い分の方が正しいのではないかと記したが、その際に検討していなかった問題が1つある。日付がずれているのだ。Schelsはこの攻撃が22日に行われたと記しているが、デュフールの覚書を論拠としているBourdeauは攻撃を23日の出来事として記している。そしてこの後に出てくるが、23日にデュフールはドーゼンハイムとシュリースハイムを再度奪うことに成功した点をSchelsも認めている。
 要するに23日に2つの村をフランス軍が奪った点についてSchelsとBourdeauの間には実は矛盾はなかったのだ。矛盾が存在するのはこれらの村が22日にも奪い合いの対象になった点と、あとノイエンハイムをフランス軍が奪ったかどうかという点だ。後者については前にも記した通りSchelsの言い分が正しいと思うが、前者についてはBourdeauの紹介する話の方がもっともらしく見える。彼によればフランス軍は22日にマンハイムの少し先までしか進めず、23日になってようやくデュフール師団がネッカー右岸へ進出できたことになる(Le Role de Pichegru à Mannheim, p18-19)。
 だとすると22日の夜にオーストリア軍が2つの村を奪回したという話もどこまで信じていいか不明だ。奪われていない村を奪回する必要はそもそもないだろう。22日夜の時点でオーストリア軍がシュリースハイムに部隊を配置していたというSchelsの言い分くらいは信じてもよさそうだが。以下次回。
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