1795年ライン 進軍1

 Schelsの1795年ライン戦役シリーズ。Die Operazionen am Rheine vom 8 bis 24 September 1795; mit dem Treffen bei Handschuhsheim(p107-150)の続きを始めよう。地図はこちらのReymann's Special-Karte(20万分の1)と、Old Map OnlineにあるMesstischeblattの2万5000分の1地図を参照。
 9月12日夜明け、ブッシュドルフ(ビュイスドルフ?)近くのジークの橋が破壊された。ヴュルテンベルク公はジーク左岸のアイトドルフ(アイトルフ)からヴァートまで、さらにそこからガイスバッハ峡谷を経てザントまで哨戒線を敷いた。支援のためガイスベルゲ(ケースベルク?)とウケラトの正面にそれぞれ1個大隊が配置され、右翼をカバーするためにブランケンベルクにも数個中隊が置かれた。左側面にはザントとオーバー=プライスに部隊が配置され、イッテンバッハ経由でホンネフまでの連絡線を保持していた。公はユンク=ラート(ユンゲロート)に主力とともに宿営した。一方エアバッハはジーゲンに到着し、リーゼもそこに追いついて13日にはジークの背後に布陣した。
 ウケラトの陣地はデュッセルドルフからジークベルク(ジークブルク)からアルテンキルヒェン、リンブルクを経てフランクフルト=アム=マインへ至る主要街道をブロックする位置にあった。正面は地形によって守られ、左翼はガイスバッハが流れる狭く深い峡谷にカバーされており、正面と右側面はいくつかの急峻な峡谷がジークへと流れ込んでいた。ただし全ての接近路を完全に占拠するためには2万5000人から3万人は必要で、さもなくば右翼ではアイトドルフからキルヒアイプ方面へ、左翼ではガイスバッハからデーレンバッハ(ウケラトの北方からガイスバッハ峡谷へ流れ込む小川)経由で迂回することが可能だった。
 ヴュルテンベルク公の兵力は必要数の3分の1しかなく、ガイスバッハ峡谷を十分な兵力で抑えることも、右翼ジーゲン方面のエアバッハや後方ノイヴィートとラーン河畔のヴァルテンスレーベンとの連絡を維持することもできなかった。またジュールダンはまさにノイヴィートで右翼を渡河させる準備をしており、これが成功すればジーク河畔の防衛線は背後を取られることになる。彼らはノイヴィートからヴェッツラーとギーセンへ向かう道を取ることで、ウケラトの後方、アルテンキルヒェンのフライリンゲンの間で連合軍の退路を断つことができた。つまりジュールダンの左翼が本格的に全面攻撃を仕掛けた場合には公の陣地は一掃されただろうし、右翼がラインを渡れば大急ぎで逃げる以外に助かる手段はなかった。
 ノイヴィートの敵に対処するためヴァルテンスレーベンはラーン河畔にとどまらざるを得ず、ジークのヴュルテンベルク及びエアバッハ支援に向かうことができなかった。エアバッハもヴュルテンベルクの軍勢を増援する以上のことはできなかった。ジュールダンの左翼が連合軍右翼を迂回しないようにするため、彼らはジーゲンの陣地を離れることができない状態だった。

 9月12日、クレベールは騎兵の多くをジーク対岸に送り込んでヴュルテンベルク公の哨戒線を攻撃した。この日は終日、両軍の騎兵による小競り合いが続いた。ヴァート村とヴェルトリンクホーフェン(ヴェルダーゴーフェン)村の対岸にはフランス軍の歩兵と砲兵が現れ、ガイスベルクに砲撃を浴びせた。13日夜明け、フランス軍左翼の4個師団はジークへと移動し始めた。まずは連合軍の右翼をカバーするブランケンベルクで戦闘が始まり、直後にクレベールは左翼を激しく砲撃するとルフェーブル師団で攻撃を行った。
 ガイスバッハ沿いの弱体な連合軍はすぐそこから追い出され、峡谷右岸を登ってウケラト方面に後退した。ウケラト村の正面には3つの塹壕が掘られ、それぞれ1個中隊が防衛にあたっていた。追撃に当たったフランス軍は、しかしこれらの防衛陣地を攻撃しようとはしなかった。代わりに彼らはガイスベルクまで大砲を引き上げると、陣地へ向けて砲撃を始めた。連合軍側もこれに反撃し、公が送り込んだ追加の砲兵も含めて正午まで砲撃戦が続いた。
 この時にはフランス歩兵の多くはガイスベルクの高地に到達しており、そこの斜面に2つの集団を形成した。ドープール将軍は堡塁を騎兵3個連隊で包囲し、守備兵を疲れさせようとした。堡塁支援のために配置された連合軍の騎兵はこのフランス騎兵としばしば争った。ヴュルテンベルク公は支援のために4個中隊を送り込み、さらに半個中隊をデーレンバッハ近くに配置した。峡谷から登ってくるフランス兵は、ガイスベルクを行軍する兵と同じように、この塹壕からの砲撃で大きな損害を受けた。
 午後4時の時点になっても、フランス軍は冒頭に奪ったガイスベルクの高地を除いて全く前進できなかった。代わりに彼らは次々と重砲兵を前進させ、連合軍の大砲を破壊し馬匹を殺した。それによって塹壕からの砲撃が弱まり、フランス砲兵は前進して散弾を浴びせてきた。堡塁をカバーしていた騎兵は少しばかり後退を強いられた。3つの堡塁の直後には2個中隊が配置され、彼らを支援していた。この予備部隊は多くのフランス軍散兵が左側面のガイスバッハ沿いに前進してくるのを発見し、彼らを銃剣で攻撃して押し戻した。
 この時点でクレベールは脱走兵からウケラトの堡塁とガイスベルクを守る兵が少ないとの知らせを受けた。彼は即座に強力な歩兵と騎兵の縦隊を組み、この脱走兵に先導させてウケラトへと向かわせた。この襲撃は3つの堡塁に対して同時におこなわれ、だが右翼と中央の堡塁では守備隊によって押し戻された。左翼の堡塁はフランス軍が2度奪ったが、そのたびに奪い返された。彼らはついに攻撃を諦めて退却し、砲撃のみが日没まで続いた。
 だが午後の間に、公はヴァルテンスレーベンからのラーンへの退却継続命令を受け取っていた。ウケラトでのエアバッハとの再合流策は放棄され、13日から14日にかけての夜間に彼は兵を集めた。退却中に左側面を守るため、彼はシュペヒト将軍をノイシュタット=アン=デア=ヴィート(キルヒアイプ南方)に送り出した。ラインのコルドンも引き揚げ、公は主力とともにアルテンキルヒェンへと行軍し、14日正午には到着した。公はアルテンキルヒェンとハッヒェンブルクから物資を引き揚げるのに追われ、シュペヒトは夜10時までノイシュタットに到着できなかった。エアバッハは14日、命令に従ってジーゲンから出発した。少数の部隊が残され、彼らは夜の間に焚火をして敵を騙そうとした。10時間の行軍の後に彼らはレンネロート(バート=マリーンベルク南東)に到着した。
 9月15日朝、敵がヴァイアーバッハの哨戒線を攻撃してきた時、全オーストリア軍はラーンの背後に遅滞なく後退せよというクレルフェの命令をヴァルテンスレーベンがヴュルテンベルク公に伝えた。彼は退却時の側面を守るため、まず騎兵をディアドルフ(モンタバウアー北西)に送り出してシュペヒトがこの地を通るまで退路をカバーさせた。その後シュペヒトは公とフライリンゲンで合流するが、騎兵はランツバッハ(ランスバッハ=バウムバッハ)へと移動し、モンタバウアーとグライツハウザー(ヘーア=グレンツハウゼン)方面を見張って左側面の安全を確保することとなった。
 また右側面のカバーのためには歩兵と騎兵がハッヒェンブルクに駐屯させられた。正午にはリンブルクへ向けた行軍が実際に始まり、クレベールとルフェーブルが4000人の兵で彼らを追跡した。だがフランス軍は追撃に際して不十分な砲撃しかしなかった。午後8時、公はフライリンゲン足を止めてシュペヒト将軍を待ち、後者は真夜中にそこに到着した。ルフェーブルは日没時には追撃を諦めていた。
 エアバッハは15日にリンブルクへと行軍し、ラーンの対岸にあたるリンデンホルツハウゼン付近に宿営した。彼は軍司令部の指示に従って一部の部隊をレンネロートに残していた。そこはヴァイルブルク、ハーボルン、ディレンブルク、ヴェッツラーなどへの道を押さえる重要地点だった。16日午前3時、フライリンゲンを発したヴュルテンベルク公はヴィルメローデ(ヴァルメロート)で足を止めて休息と食事に充て、11時には行軍を再開。敵にじゃまされることなくリンブルクでラーンを渡った。
 9月9日から16日までの戦いで、ヴュルテンベルク公の兵は300人近くを失った。7ポンド曲射砲1門と12ポンド砲1門が破壊され、敵の手に落ちた。逆に言うと彼らはそれだけの損害でフランス軍から逃げ切ったわけで、エアバッハ師団の脱出に続き、上手く後退を成し遂げたと見てもいいんだろう。ただ、フランス軍のライン渡河からほんの10日ほどでラーン河まで押し戻されてしまったと考えると、連合軍にとっても事態はあまり好ましいとは言えなかった。ラーン河を渡られてしまうと、次に彼らが敷くことができる防衛線はマイン河までなく、フランス軍が奪おうとしているマインツのすぐそばまで敵に接近されることを意味していた。
 以下次回。
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