Tainterとお目覚め系

 Tainterの書いた複雑な社会の崩壊について、違う切り口から考えるべきだという文章を見た。How Worlds Collapseの中に収録されているDiminishing Returns on Extraction: How Inequality and Extractive Hierarchy Create Fragility(p37)がそれだ。ただし中身については面白い部分と、疑問に感じる部分が入り乱れている。大きな枠組みついては違和感があるのだが、個別の指摘は興味深い感じ。むしろTainterよりもGoldstoneやTurchinの議論に役立ちそうだ。
 具体的に言うと3.2.5で紹介されているところだ。どのような原因が社会の崩壊、というより永年サイクルにおける解体トレンドにつながるのかについて、いくつか紹介しているのだ。まずは征服。新たな収奪のリソースを手に入れ、それによって国内を安定させるほか、時には正当性の淵源にもなる征服の成功は、ただし時とともに限界効用逓減に見舞われる。征服した土地は維持しなければならないし、相手がコア地域から遠ざかるほど征服に多くのリソースを費やさざるを得なくなるからだ。
 こうした点を指摘したのがポール・ケネディの「大国の興亡」に出てくる、手を広げすぎた帝国という概念だ。この現象は最近の帝国に共通するもので、スペイン、オスマン、ポルトガル、大英帝国に当てはまる。いずれも財政の赤字と軍事費増大が分裂や衰退をもたらすに至った、という理屈だ。事例が欧州に偏りすぎているあたり、いかにも20世紀に書かれた本に由来する概念らしくはあるが、理屈としては他の地域の国にも当てはまるだろう。
 次が腐敗。これは解体トレンドの一義的な原因というよりも危機への対応能力に対する制約として働くことが多いが、エリートの腐敗はアッバース朝やウル第3王朝、さらに中華帝国では何度も繰り返し生じたという。明やムガール、ローマ、ヴェネツィア共和国といった比較的真っ当な政治体制であっても最終的には寡頭制へとシフトし、社会契約がすり減らされていく。現代社会ではさらに腐敗の持つ腐食的な影響が明らかになっている、というのが筆者の主張だ。
 次は経済成長、というかその低迷。前にも述べた、20世紀後半から技術革新が低迷しているという話を紹介し、手の届きやすい発明が一巡した説や、技術革新のコストが増える一方で企業が守りに入っているといった説に言及している。さらにエリートが生産部門から金融など分野に投資をシフトしているとの話も紹介されているが、これ全部、現代の話ばかり。歴史の説明としてはちょっと不十分ではなかろうか。
 その次が格差。ここでは過去にも紹介したScheidelピケティの議論が繰り返されているほか、経済規模によって格差の規模も違ってくる点にも言及されている。格差は腐敗と手を取り合って衰退をもたらすという話も載っている。次がエリート内競争。もちろんこれはTurchinやGoldstoneの分野だ。人口増が大衆の賃金を引き下げる一方でエリートの過剰生産ももたらし、それが彼らの内部対立を引き起こすという理屈である。
 エネルギー収支比(EROI)も取り上げられている。限界的なエネルギーの獲得には多大なコストがかかるようになり、次の油田を掘り返すためにはより深く掘削しなければならなくなる。シェールオイルになるとさらに抽出するために水で圧力をかける必要があり、加えてコストも高くなっている。これは別に化石燃料だけに当てはまる議論ではなく、例えば西ローマでは征服や農業の面でEROIが低下していったとされているし、インダス文明の衰亡も農業のEROI低下が影響していたと見られる。
 そして最後に出てくるのが寡頭制とフィードバックの破壊だ。寡頭制は社会的や環境的変化が政治にもたらすはずのフィードバック、つまり問題へと対応するインセンティブを奪う。低地マヤでは旱魃に対してエリートが対応しようとせず、現代のCEOたちも社内や政府内の腐敗に目を瞑る。例えば気候変動への対応についても、数は増えるが実効性は乏しい規制ばかりが作られ、一種のエリートによる「国家横領」が生じる。
 こうした問題にはもっと社会的な変革によって対応しなければならない。負のフィードバックを発展させるためにより議論をする形の民主主義を導入しなければならないし、無駄な支出と寄生を減らし、富の格差を均し、富と政治的権力を切り離し、さらには経済的な反成長も考える必要がある、というのが筆者の結論だ。要するに悪いのは自己中心的なエリートなのだから、そいつらを何とかすべきだというオチであり、確かにこういった議論の進め方をすればこういう結論にたどり着くのも分からなくはない。でもどこかおかしい。特に反成長まで言い出すあたり、どうしてこうなった感満載だ。なぜか。

 問題は省略した前半部に述べられている議論の枠組み、前提部分だ。実は筆者は冒頭にTainterの議論を紹介し、彼が複雑性のメルクマールとしてヒエラルキーを取り上げているのが問題だと批判。ヒエラルキーは複雑性(多様なパーツの相互作用と非線形な挙動、フィードバックループの存在などの特徴を持つ)とは違う概念であり、Tainterがヒエラルキーを取り上げたのは不適切だと主張している。
 この主張には一理ある。この文章で指摘されているように、ヒエラルキーに代表される国家の登場は方言を減らして標準語を普及させる効果をもたらすことが多く、つまりそれだけ複雑性を減らすような機能を持っているではないか、というのがその理由だ。だがそうしてヒエラルキーを否定した後の主張が問題。筆者はむしろ資本(金融資本、実物資本、人的資本、社会資本など)をメルクマールとして複雑性を計測する方が計算しやすいし、かつ妥当であると述べているのだが、それは本当だろうか。
 国家はTainterが言うような問題解決の機能だけを持つのではなく、むしろエリートに利益をもたらすために運用されていることが多い。だからエリートが課題解決のために積み上げ、またエネルギー消費とも関連している資本を使う方がいいというのが筆者の理屈。でもそれは国家全体の機能ではなく、主にエリートの利益に分析対象をずらしているように見える。Tainterが求めていたのは機能を果たしていた社会全体の複雑さがどうして失われてしまうのかという問題への解答だったと思うが、こちらの筆者は社会全体ではなくエリートにしか関心がないように見える。
 そのせいで上に取り上げられた事例はすべて特定の国家を支配していたエリートがどう衰退していくかに焦点を当てたものと化している。社会の崩壊ではなく、永年サイクルにおける解体トレンドの分析になっていると冒頭に述べたのも、それが理由だ。Turchin的に言うならアサビーヤの話から視点を逸らし、永年サイクルにおけるエリートの動態をもたらす要因を分析しているのがこの文章。結果、社会全体がどうして崩壊するのかという議論は行われず、単なるエリート批判しかなされていない。
 おまけにその力点が過去の事実よりも足元の米国政治に偏りがちなのは上にも書いた通り。なぜそうなっているかも推測がつく。議論の枠組みを提示する時点で筆者が頼っている研究者の中にGraeberやWenglow、あるいはScottといった面々が顔を並べているのだ。そりゃこの手のアナーキストや運動家たちの議論を参照すれば、国家はエリートが収奪のために使うものにしか見えなくなるだろうし、それが現代米国批判につながるのも無理はない。お目覚め系(wokeism)とも相性がよさそうだ。
 そもそも題名に『収奪』逓減とある通り、国家はエリートによる収奪機構という理解を最大の前提とした議論なので、当然ながら国家を問題解決の手段と見なすTainterとは合わない。また、最後の結論で唐突に「反成長」が出てくるのも、筆者の思考回路が上記のようなものであれば違和感がなくなる。繰り返すが個別の指摘は面白いし、参考になる。だがそこで紹介している研究者たちの分析を基盤に置くのではなく、ScottやGraeberの政治的色合いが濃い理屈を根底に置いているため、結論が単なるエリート批判だったりいきなりの反成長になってしまう。
 個人的に成長の低迷はより収奪的な社会を招くというのが私の考え。エリートが利己的な点は否定しないが、彼らを利己的にさせない最も手っ取り早い方法は、民主的な話し合いや制度面での工夫、格差の縮小もさることながら、何より成長度合いを高めることだと思う。残念ながら成長は人間の都合で達成できるものではなく、従って反成長を目指すかどうかとは全く無関係に成長しない時代が訪れる可能性が高いと思うが、その時に出来上がってくる社会は今の米国など比べ物にならないくらいエリートが利己的にふるまう収奪的社会だろう。
 この本の出版は今年となっている。そしてこうした議論が普通に採録されているあたり、今でもまだ米国でお目覚め系な考えがアカデミー内で一定の力を持っているのかもしれない。最近になってキャンセルカルチャーが少し下火になっているという指摘もあるが、そうした動きがどこまで広がるかについては慎重に見ておいた方がいいんだろう。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント