軍事技術の優位は必要条件であっても十分条件ではなく、むしろ西ユーラシアが成功したのは彼らが進出した先で同盟者を手に入れたこと、及び現地の支配的勢力が持つ脆弱性を突いたことにあるというのが、この論考の主題である。ただしそんなことはいつの時代のどんな場所でも言える当たり前の条件でしかなく、いうなれば困難な山に初登頂を達成した登山家に対して重要なのはその人物の登山技能ではなく彼にきちんと動く手足がついていたからだと主張しているようなもの。決して間違ってはいないが、だからどうしたと言いたくなる主張でもある。
関心を抱くべきなのは、そうした当然の前提を置いたうえで、なぜ西ユーラシアの勢力が世界の様々な地域に進出していったのか(その逆ではなかった理由はどこにあるのか)、そして彼らがその優位を20世紀に入るまで500年ほどにわたり維持し続けていた理由は何か、を論じることにある。西ユーラシアが持っていた軍事技術が他地域への進出を助けた(逆に技術で遅れた者は他地域に進出できなかった)のであり、なおかつその技術が社会自体を大きく変えて政治体の持つ効率性を高めたことが長期にわたる西ユーラシアの優位をもたらしたと考えるなら、やはり軍事革命が持つ意味は重要だと考えられる。
そうした指摘をひっくり返せるだけの論拠がこの文章内で示されているようには思えない。従ってそこで示されている主題についてあまり論じる必要はないと思う。というわけでこの文章については終わり。
……という結論ならそもそも取り上げなくていいだろう。この文章の面白いところはもっと別にある。実はこの文章では自説を裏付けるための事例紹介として、ポルトガルによる海洋帝国支配、スペインによるアステカ征服、同インカ征服、オランダによるインドネシアの植民地化、そして英国によるインド支配という5つの個別事例を取り上げている。いずれも重要な指摘として軍事技術の優勢よりも同盟国の存在、及び現地勢力の無関心や脆弱性が重要だったという結論を導き出すために使われているのだが、そういう部分とは別に個別事例からもたらされる知見がとても興味深い。
まずポルトガルの事例だが、そこで紹介されているのが「ヴェネツィアモデル」と呼ばれるものだ。ヴェネツィアは本拠地から遠く離れた東地中海での交易上の優位(もしくは独占)を確保し、商業利益を拡大するために戦争を行ったという。遠方での交易がもたらす不確実性を減らし、現地の政治権力者から貿易特権などを手に入れるための強制力として海軍を整え、同時にライバルを減らして交易から上がる利益の最大化を図る。それがヴェネツィアモデルだそうだ。
さらに彼らは他国のライバルを排除するのと同じようにヴェネツィア内での競争も抑制した。ヴェネツィアの企業家たちは自国内での競争を放棄し、代わりに国家の保護を受けて交易をおこなった。またヴェネツィアは遠隔地と本国との間に貿易用の飛び地ネットワークを形成したのだが、その飛び地では商業施設を自立させ、要塞化し、海軍基地を兼ねるようにして現地勢力の圧迫による不確実性を減らそうとした。こうした飛び地は交易を守る役割を主に担い、もし現地勢力の圧力が大きければ他の地域へ移動する手も使えたし、逆に内陸へと進出して植民地化するきっかけにもなり得た。
ポルトガルは最初からこのモデルを目指したわけではないが、試行錯誤の結果としてインド洋沿いに飛び地を連ねた海洋帝国を築き上げることになった。逆に言うなら彼らの目的はそもそも内陸に進出して支配したり植民地を作ることにはなく、海上貿易の支配とその利益の独占にあったわけだ。そして彼らの海軍は海上での優位と沿岸特定都市の支配を可能ならしめたが、大陸の大帝国に逆らえるような力はなく、いわば彼らのお目こぼしのうえで成り立っていた、とこの文章では主張している。
実際、ポルトガルはアデンを奪えず、エチオピアの戦争に介入した際にはオスマン帝国の銃兵に苦戦し、コンゴなどのサブサハラ・アフリカですら内陸への進出にはかなりの時間と労力を必要とした。それにこうした海洋帝国は隣接する陸上の帝国が本気で攻めてくると持ちこたえられないことも多く、実際にポルトガルは一時期スペインに併合されていた。
ポルトガルと同様の海洋帝国を目指したのがオランダだ。彼らは東南アジアの海洋交易の独占を目指してジャワへ進出したが、この進出先が間違っていたというのがこの文章の指摘。限られた兵力で交易上の優位を成し遂げるためには内陸支配はむしろ避けるべきものだったにもかかわらず、小さな島ではなくジャワというインドネシア諸島の中でも大きな政治勢力が存在する島に足場を築いてしまったため、単にその拠点の生き残りのために現地に同盟者をつくり、彼らを助けるために軍事力を発揮する必要性に迫られた。
結果としてオランダ東インド会社は常に高い費用で軍事力を整え、それでもジャワ全土を支配できるだけの力はなく、敵対的な現地勢力を撃ち破っても彼らが内陸へ引っ込んで力を蓄えるのを妨害できなかった。結局、海洋帝国を追求したはずのオランダ東インド会社は過大な軍事費に耐え切れずに事実上破産し、オランダはもっと古いタイプの領土支配を目指さざるを得なくなった。しかも彼らがそれを成し遂げた時には当初の目的であった香料の需要は急減し、ナポレオン戦争後のオランダ領インドではコーヒーと茶の生産が中心になってしまったという。
同じくヴェネツィアモデルで運営していたはずが最後は領土支配へと引きずられていったのが英領インドだ。17世紀末まで英東インド会社はムガール帝国に抵抗できるような力は持たず、彼らを苛立たせないようにしながら交易の利益を手に入れようとしていた。だがムガール帝国が事実上崩壊し、一種の戦国時代が訪れると、英国は彼ら地元諸勢力に兵を貸し出す立場となった。しかも18世紀中ごろにはフランスとの戦争を通じて南アジアに欧州型の軍隊の数が増え、その軍事力への需要がさらに高まった。
戦力が巨大化した英国はやがて軍務提供や戦争で勝利した対価としてインドで徴税権を手に入れるようになり、それがさらに直接支配へと結びついて行くことになった。皮肉なことに英によるインド交易の独占を阻止しようとしたフランスの介入が、現地における欧州戦力の拡大を通じて英国による直接統治への道を開いたわけだ。この文章ではもしムガールの没落がなかったら英国の支配はそう簡単に進まなかったであろう点を指摘しているが、それより重要なのは英仏両国がインドの政治情勢を変えるほどの戦力を投入できるだけの国力を手に入れた点であろう。
上記の事例はいずれもヴェネツィアモデルがどう変貌していったかを示すものだが、アステカとインカの征服はこのモデルとは異なる。むしろこれらの征服は武力行使も含めた昔ながらの政治的駆け引きが成功した事例だ。アステカでは
こちらでも書いた通りコルテスはトラスカラと同盟を結び、一度テノチティトランから追い出された後は周囲の反アステカ部族と連携して補給を断つといった長期戦にシフトし、さらにアステカ自体の内紛を利用して勝利を得た。
インカでも事態は同じであり、ピサロがやって来た時にインカは最盛期を過ぎて南北の間で内戦が起きていた。スペインは双方に対して、あるいはインカの支配から逃れたい個別の部族に対して同盟を申し出、さらにカハマルカでは火薬兵器よりも鉄製の武器を活用して勝利を得た。敵の脆弱性と分裂、またインカがスペイン相手に兵力差を生かした消耗戦を行なうのではなく軍事力を見せびらかして威圧しようとする戦略を取った点など、事態がスペインにとって幸運な展開を見せたことこそ、彼らの征服が成功した要因だとこの文章では分析している。おまけにアステカとインカが事前に中央集権的な社会を作っていたため、スペインはメソアメリカとアンデスでは比較的短期間に帝国を築き上げることができた。それ以外の、多くの原住民部族が細かく分断された状態にあった地域では、西欧の支配は長い時間をかけないと達成できなかった。
以上がこの文章で紹介されている個別事例だ。正直、最初に紹介したような凡庸な結論など放っておいて、例えばヴェネツィアモデルと西欧の活動とに焦点を当てて記した方がよほど面白い文章になったのではないかと思う。アステカとインカについても、中央集権的な国家を乗っ取る方がバラバラの政治体を支配下に収めるより場合によっては簡単であることを示す歴史上の事例として、例えばアレクサンドロスによるアケメネス朝の征服などと比較したら面白かっただろう。
またここからは新たな疑問点も生まれてくる。まずヴェネツィアモデルは、ヴェネツィア以前には存在しなかったのだろうか。古代のインド洋においてそうした役割を果たした海上勢力は存在しなかったのか。あるいは西ユーラシア以外の地域、例えば東アジアにおける琉球や倭寇といった勢力の活動は一種のヴェネツィアモデルとして考えられないのだろうか。こうしたモデルが成立するためにはどのような国際情勢が存在することが条件になるのだろうか。そして海洋帝国はどのような条件下で領土帝国へのシフトを強いられるのか。そうした疑問点も含め、面白い視点を提供する文章だった。
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