Turchinの新しい本が出版されたが、
前にも書いた通り まだ本は届いていない。とりあえず本が到着するまでの時間つぶしとしていくつかエリート過剰生産に関するネットの記事を調べてみたが、中には面白いものもあったので紹介しよう。
メリトクラシーを信じ、教育が持つ美徳を褒めたたえているこの
「専門家層」 は、だが一方で子供たちが親よりも成功しそうにないという状況に直面している。それでも彼らは死に物狂いで子育てに大金を投入しているのだが、その動機は「恐怖」、つまりメリトクラシーのゲームで勝てる確率がどんどん下がっているという直感にある、というのがStewartの分析だ。かつては高い学位を手に入れれば成功も手に入るというライフプランの実現可能性が高かったが、今やこの勝利の方程式が通用しない時代に入り、でも他に頼れる方程式もないまま彼らは迷走している。
続いてTurchinのエリート過剰生産を説明したうえで、この記事では実際に教育による資格取得を王道と見ていたプロフェッショナル・ミドルクラスがどのような苦境に直面しているかをグラフで示している。アイヴィーリーグやMIT、スタンフォード、シカゴ大といった一流大学ではこの12年で1割弱しか合格者数が増えていないのに、志望者数は倍近くに膨らんでおり、過剰な競争が行われていることが分かる。コロンビア大では1991年に32%の合格率だったのが2021年には3.7%まで狭き門と化しているそうで、エリート内競争がエリートとしての資格を得ようとする段階から激化している様子が窺える。
この競争の参加者は、その大半が所得で見たトップ10%の子供たちだ。有力大学の合格者の4~6割はこの層の子供たちであり、彼らが最も激しい競争にさらされていることが分かる。しかもやっとの思いで合格した大学を出ても、期待した所得は簡単には得られない。学生ローンの残高は増加を続けているが、その大半は20代や30代の者たち。学費そのものはインフレと歩調を合わせて増加しているそうで、だとすれば借りる側の問題ではなくその返済段階になって思ったほどの所得が得られない者のせいで残高が積み上がっていると見るべきだろう。
大衆の困窮化は色々と伝えられているが、エリート志望者の苦境もまた深刻化している様子がデータから分かる。そりゃ対抗エリートが増えていくのも理解できる。
そこで例に挙げられているのがジャーナリストの仕事、若いジャーナリストが目指すべき席がNew York Times(のような大手紙)に絞り込まれてしまい、かつては存在していたであろうAkronやIndianapolisといった小さめの町における新聞の編集長やコラムニストといったポジションがなくなってしまった。単に都市化が進んでいるだけではなく、一部の「スーパースター都市」にあらゆるものが集積するようになった結果である、というのがその主張だ。
裏付けとなるのが米国内の各地域(例えば太平洋岸とか山岳部、ニューイングランドなど)別に見た収入の増加に関する標準偏差をグラフ化したもの。見ての通り、ニューイングランド、大西洋岸中央、そして太平洋岸の地域が他の地域を引き離して拡大しているのだが、これらの地域にはボストン、ニューヨーク、ワシントン、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルといった米国内における「スーパースター都市」が集結している。ようするに大都市を抱えている地域では都市のない郡との間で格差が広まりつつあり、それが標準偏差の拡大につながっているわけだ。
Turchinはエリート内紛争の要因として、エリート用のポスト(需要)が横ばいなのに対してエリートの人材(供給)が増えていることが過剰生産につながっていると指摘しているが、この記事を読むのなら実は需要側の落ち込みも過当競争をもたらす一因になっている可能性が高い。そして同じ現象は日本でも起きている。関西圏は首都圏に負け、札幌や福岡といったブロックの中心都市はその他の都市を蹴落とし、そして県庁所在地が踏ん張るなかで県内2番手以下の都市がどんどんさびれていく。
エリート過剰生産を批判するよりも、こういった「中間的な都市」を支援し、そこでエリート志望者を吸収できるようにした方がいいんじゃないか、というのがこの記事の結論。日本に置き換えるなら、かつて田中角栄がやろうとした列島改造だろうか。残念ながら今の日本を見る限り、一時しのぎにはなっても恒久的な問題解決にはつながらないように思うが、さてどうだろうか。
それ以外にも、データまでは紹介していないが、いろいろと面白い切り口でエリート過剰生産に触れている記事があった。1つは
Why So Many Elites Feel Like Losers 。Covid-19の後に書かれたものだが、ここで自身を「敗者」と感じているエリートは経済や政治の分野ではなく、文化的な分野、具体的にはSubstack、Instagram、Twitter、Bandcamp、Sportify、YouTube、TikTokなどなど、ネット上で提供されている各種プラットフォーマーのサービス利用者だ。
この手の、懐かしい表現を使わせてもらうなら
「CGM」 の世界が、実際にはほんの一握りの成功者と大多数の敗者に分かれているのはよく知られている。この記事ではいかにこの手のサービスがもうからないかをしつこいくらいに書いている。ただしこちらはエリートの参入が増えているから競争が激しくなったというより、参入ハードルが思いきり下がった(かつて映画を撮ろうとすれば巨大な先行投資が必要だったが、今動画を撮影するにはスマホ1つで足りる)要因の方が大きく、あまりエリート過剰生産っぽくはないかもしれない。
ただ現状が若者たちに「成功についての首尾一貫したビジョン」を示せていないのが、彼らがこうしたネットサービスで自己顕示欲を満たそうとしている理由ではないかという指摘は、なかなか耳が痛い。だから、よく生きるという言葉の意味についてより幅広い文化的定義を作る必要がある、との主張には頷ける。問題はモデルになりそうな過去に成功を意味していた各種仕事が、今や必ずしも成功につながらない(もしくは競争が激しすぎて手に入れにくい)点にあるのだが。
Elite Overproduction という記事では、題名とは逆にエリートのゼロサムゲームによって制度がズタボロになるリスクもさることながら、むしろ「威信の低い分野や産業に十分な人が向かわなくなり、それが必要なサービスの劣化を招く」リスクの方を問題視している。エリート的な仕事が激しい奪い合いの対象になっている一方、橋やダム、その他の重要なインフラの劣化が進んでいるという指摘で、これまた日本でも(特に地方で)よく言われている問題だ。先進国ではどこも似たような課題が生まれているのかもしれない。
これによるとエリートとはリーダーシップにふさわしい人材で、特定のテクニカルな技術よりも社会的コミュニティを導くことに向いた能力を持っている。エリートにとって重要なのは彼らが与える印象(富、美しさ、知性、人柄、コネクション、寛大さなどなど)であり、正確さや細かさ、論理性重視ではなく、芸術的でスタイリッシュな話し方をする。逆にエキスパートは特定の物事に詳しい人物であり、従って彼らはその得意分野に取り組むよう組織される。
しかし足元では社会がエンジニアリングからデザインへとシフトし、何かを行うよりも話すことが重要な仕事が増え、またグローバルなコミュニティの中で活躍するエリートが増えた。それに今のキャンセルカルチャーでは誰が何を「言ったか」が問題とされ、エリート的な話し方とは無縁なエキスパートたちがしばしば槍玉に上がる。管理職的な能力の持ち主の方が専門家よりも高く評価され、威信と所得を手に入れる時代が今である、といったのがこの文章の内容だ。
ここで指摘されるような事態が起きている背景には、これまで何度も紹介している
「科学の低迷」 があるんじゃなかろうか。科学が成長の牽引車となっていた時代には、イノベーションにつながる技術を生み出すエキスパートの取り組みが重要だったし、彼らが力を持っていた。でも科学が成長をもたらせなくなってしまうと、むしろ必要とされるは低成長の中で社会をとりまとめる管理職としての能力。言葉や印象といったもので人々をうまく丸め込める能力の方が価値を持つようになった。
管理主義 が社会の実権を握ると言われているのも、むべなるかな。
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