戸切地陣屋

 以前、こちらのエントリーで日本に導入された稜堡式の要塞で最古のものは北海道の戸切地陣屋である、という話を紹介した。で、最近になって北斗市がこの陣屋についてかなり詳しい内容をアップしていた。研究成果を紹介した動画と資料が閲覧できる状態になっており、こうした歴史に興味のある人にとってはなかなか面白いものだ。同時に読んでいて、江戸幕府の体制が19世紀半ばにはもはやろくに機能していなかった様子が分かるものでもあった。
 詳しい内容は研究者の書いた「『日本最初の星の城』松前藩戸切地陣屋の再評価―星の系譜―」に目を通してもらうのがいいだろう。1855年に戸切地陣屋を築造したのは松前藩なのだが、この松前藩が幕末には内部がガタガタで、北方の防衛のためには他の藩と国替えさせたほうがいいという意見までが出ていたこと、その中で新たに就任した藩主(写真が残っている)が先進的で柔軟な改革に取り組もうとしたこと、その一環として佐久間象山の洋学塾に藤原重太という人物が送り込まれたことなどがまず紹介されている。
 この藤原重太についての詳細な紹介は資料に委ねるが、彼は松前藩から象山の塾に送り込まれたたった2人の門人の1人であり、しかももう1人は破門されていたそうで、要するに西洋の砲術を学んだ松前藩の人材は限られていたことが分かる。その松前藩は函館平野の防衛拠点を築くようにと幕府の命を受け、そこで藤原が藩主の支援を受けながら築造したのが戸切地陣屋であった。藩はこの陣屋を、城の構築に向いているとされた「野崎の丘」に作り上げ、防御に向いた地形をうまく利用して日本初の星形要塞を作り上げた。
 続いて資料に載っている陣屋の分析はとても興味深い。地形のおかげで例えば西側からの攻撃は崖によって阻まれるようになっており、唯一の接近路ともいうべき東南方向は稜堡からの攻撃にさらされるようになっていたことを、当時この陣屋に配置されていた武器などの説明も交えつつ行っている。中でもわかりやすいのは図16だろう。接近しやすい東南ルートについて「丸見えで身を隠す場所のない緩斜面」という表現がなされているのは、まさにルネサンス式要塞が持つ特徴を示したものだ。
 以前にフルーリュスの戦いについて紹介した時、フランス側が防衛している拠点への接近路が「まさに自然の斜堤」を形成し、攻撃側は身を隠すようなものがないまま戦うことを強いられたと指摘した。この防御側の射線が邪魔されない地形というのはルネサンス式の要塞を構築するうえで重要な点なのだが、日本のように初期近代において戦争と縁遠かった国においては、そうした認識はあまり一般的ではない。さらにこの資料では稜堡の正面(フェイス)と側面(フランク)がどのように使われているか、要塞を守る土塁や壕がどのように作られているかについても簡単に説明しており、当時の要塞についての基本知識も学べるようになっている。
 そのうえで、この研究者は藤原重太がどうやってこうした要塞を築く知識を得たのかについてその淵源を探っている。これがまた面白いのだが、まずは明治初期に翻訳されたHector StraithのTreatise on Fortification and Artilleryから戸切地陣屋がヴォーバン第1方式に則ったものであることを確認。続いて佐久間象山が当時手に入れていたオランダ語文献のうち要塞について言及しているものとしてBeginselen der versterkingskunst(一部のみならこちらで閲覧できる)を見つけ出した。なおこの本は後に警備術原という題名で翻訳されている。
 この本にもやはり戸切地陣屋と近似している要塞の模式図が載っており、研究者は藤原重太がこの本にできるだけ忠実に築造を行ったと指摘している。その意味で戸切地陣屋が日本最古の稜堡式要塞であることは間違いないのだろう。ちなみにこのオランダ語文献(もとはフランス人サヴァールが書いたもの)は五稜郭の設計にも影響していたそうで、そう考えると幕末に佐久間象山が及ぼした影響は結構重要だったように思える。問題は、その知見を幕府が十分に生かせたとは思えないあたりか。
 知見を生かせない点は幕府だけでなく松前藩も同じだったようだ。藩主や藤原らが必死に西洋の技術導入とその普及に努めたにもかかわらず、藩内では稽古のサボタージュや和式の稽古をわざと行うといった反抗的態度が蔓延していたようで、藩主が何度も繰り返して苦言を呈したにもかかわらず事態は一向に改善しなかったようだ。やがて藩主が幕政へと活躍の場を移した後には守旧派の勢いがさらに増したようで、箱館戦争の頃には古臭い戦闘法に戻ってしまっていたという。せっかく防御に向いた設備として構築されたにもかかわらず、戸切地陣屋の守備隊は大半が城外に出撃して敗北し、別の場所へ撤収してしまったわけで、結果的にこの日本初の稜堡式要塞はろくに使われることもなくその役目を終えてしまった。

 以上がこの資料に書かれている記述だが、研究者のツイッターを見るとそれ以外にもいろいろと面白い指摘をしている。例えばこちらのツイート。日本が天下泰平の夢をむさぼっている間にいかに世界の戦争技術から置いてけぼりを食らったかについての感想だが、軍事技術においては平和が停滞をもたらすというこれまでも中国などについて書いてきた話と同じだし、そこでキャッチアップするのが難しい点も指摘している。
 また、資料中に出てくる緩斜面にある樹木やむやみと配置された「武家屋敷群」は、西洋の史料を見ていると違和感しかない異物(攻撃側が遮蔽物として利用しまくれる)なのだが、実はそれらは陣屋ができた6年後になって別の藩士の提言で作られたということも指摘している。稜堡式がどんなものか知らない者ばかりになっていたのではないかとの指摘を見ると、改めて「新しい知識にキャッチアップできる」人材がいかに少なかったかが窺える。
 いや、過去だけの話ではない。現代においても(やはり研究者がツイッターでぼやいているように)、稜堡式要塞はいまだ日本人にとっては縁遠いものだと思う。戦国時代あたりの日本の城郭に詳しい人は大勢いると思うが、19世紀になるともはやそれとは発想法が違う要塞を思い浮かべなければならないわけで、これは歴史好きの人間にとってもハードルは高いだろう。稜堡式要塞は敵の接近を妨げるというより「命を刈り取る形をしている」点を把握しないと、その価値を推し量るのは難しい。
 せめて稜堡式要塞に関するわかりやすいサイトでもあればいいんだが、日本語ではあまりそういうのが見当たらない。いや実は英語でも十分とはいいがたく、例えばwikipediaでも用語集的なサイトがあるのはフランス語になってしまったりする。図像の多いサイトもあることはあるが説明がそっけないため、ますますハードルが高くなる。さすがはヴォーバンの本場だけあってフランス語なら他にもそういうサイトはあるのだが、これを取っ掛かりにしろというのはなかなか要求水準が厳しいだろう。
 そもそもこういったルネサンス式要塞自体、19世紀にはいると各地で次第に用済みとなっていった経緯があるため、おそらくは本場欧州でも関心を持っている人がどんどん減っている状況なのだろう。そりゃ研究者も19世紀の文献に当たらないと理解できないところがあるのは当然。若者にとってフロッピーディスクが「謎のアイコン」と化しているのと同じで、人間日常的に見ていないものについてはすぐ知識が消え去っていく。戸切地陣屋は日本でも他にほとんど類のない希少な存在と言えるんだろうが、メジャーにはなりにくいだろうな。
 ちなみに件の研究者は五稜郭についてもいろいろと述べているのだが、五稜郭はサイズ的に大きすぎるそうだ。そこに必要な大砲を配備しようとするとかなりの数が必要だったようで、首都を守るような拠点ならともかく、北方の出先に配置する要塞としては無理があったのかもしれない。竣工間近の五稜郭にいたってはもはや稜堡式の要塞として機能させるのをあきらめていたとも指摘している。ただ知名度だけは抜群で、こんなネタも出回るくらい。それに比べると戸切地陣屋がマイナーであることは否定できない。
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