軍はモスクワ大公国の諸領主が提供するローカルな民兵の寄せ集めだったようで、大公の宮廷に属する部隊を除き、中央集権化された常備軍はいなかったと見られる。軍勢のための資金についても政府の役割は小さく、大貴族や地方の郷紳たちが経費の大半を自前で賄っていた。彼らの敵(タタール、コサック、リトアニア、リヴォニア)はモスクワと同じく騎兵を主力に構成されており、騎兵革命の時代にはこういう軍や国家組織でも生き残ることができた様子がうかがえる。
16世紀後半に入ると西方の影響を受けた軍勢との接触が始まった。軍の指揮権を中央がしっかりと確保するためにモスクワへの騎兵戦力統合が始まり、そのための行政組織が編成された。また火薬兵器を使う部隊(ストレルツィ)も編成され、また軍への支払いを政府に集約する動きも始まった。徴税人を通じて集めた資金を中央で保管し、兵に対価を支払う取り組みが始まったほか、諸領主が提供していた軍務についてもこれまでより明確に義務規定が定められた。
この時期のロシアの動向については、英国の外交官である
Giles Fletcherの記録がある。それによると当時のモスクワ軍は大公の近衛部隊、110人の指揮官が指揮する騎兵の部隊、そして銃で武装した1万2000人のストレルツィという3種類で構成されていたようだ(p72)。この時期に起きた変化、つまり騎兵の統合、火薬兵器部隊の創設、財政の中央集権化という3つの特徴がFletcherの文章からも窺えるという。
モスクワ軍のこの体制が続いたのは、動乱を経た後の1630年代まで。この時期になるとモスクワは歩兵、騎兵、他の火薬部隊という新たな部隊編成に取り組んだ。西方から軍人を教育係として呼んだのは前にも述べた通りだが、同時にロシア政府は軍の武器、補給、支払いを全て担うようになった。ただしこの時期の軍制改革は一時的だったようで、
戦争が終わると新編成の部隊の大半は解体された。
モスクワがより恒久的な軍事と財政の改革に取り組んだのは1650~60年代だ。火薬兵器を使う軍の兵士を政府が直接農民などから集め始め、旧来の自前で軍務を提供することができないような貧しい貴族・郷紳と騎兵の子弟たちは、みな新しい騎兵部隊に所属させられた。ストレルツィは守備隊となった。同時にそれまで土地に課せられていた税が世帯を対象とするようになり、消費税も増え、さらに課税の中央集権化が進んだ。新たな軍を支えるための様々な行政組織もこの時期に増えている。
こうした時系列の変化がTable 1に簡単にまとめられている。1500年当時のモスクワ軍は白兵戦用武器を使う騎兵で構成されており、動員対象はエリートたち、報酬内容は土地に基づいて非中央集権的に支払われた。1600年になると部隊は火薬兵器も含むハイブリッドへと変化し、動員対象もエリートと大衆双方に拡大。支払いは土地と現金両方で、中央集権化が進んだ。1700年になると火器を使う歩兵が中心で、動員も大衆が中心となり、現金支払いが原則となっていた。
続いてこうした軍の変化が行政にどのような負荷をもたらしたかに関する時系列での説明が書かれている。初期の騎兵のみ、かつアドホックな軍勢の時代には、そもそも軍を統括する行政組織もなく、軍務に関連した文書もほとんど残っていなかった。16世紀後半になると書類が増え始めるが、まだ細かい分業には至っておらず、外交文書や土地に関する文書、そして宮廷内での序列を定めて争いを抑制するための文書など限られた分野でのみ使われた。
軍に絡む文書としては支払いとそのための資金集めに関連するもの、そして土地所有者たちが富に応じて軍務あるいは支払いを行っているかを調べるものがこの時期に増えた。軍事=財政機構の中央集権化こそが、この後に進む官僚化と文書化を進めた基本的な力であり、その意味では軍の構成を変えた17世紀の改革はそれ以前から起きていた変化を加速する効果のみにとどまったとも言える。もちろん領主に任せていた騎兵の供出を国が担うことになった結果、行政組織への負担が大きく増えたのは間違いないが。
この文章では軍の改革が進むにつれて行政組織がどう肥大化していったかについても言及されている(p11-12)。そうした変化を表にしたのがTable 2で、それを見れば補給や支払い、コントロールといった分野で次第に中央集権化が進んでいった一方、行政への負担がどんどん高まっていった様子もうかがえる。その結果、支配層である大貴族たちの行動はそう変わらなかったとしても、社会全体には様々な変化がもたらされた。主に指摘されているのは4つの変化だ。
1つ目は実効支配ができる領域の拡大だ。イヴァン3世時代にはモスクワ、あるいはクレムリンの境界内にとどまっていた大公の権力は、郵便サービスの確立などで文書を通じより広い範囲に及び始める。各地の軍事情報などがモスクワに集められ、大公国全体の行政にかかわる人員も増加していった。2つ目は階層化。その根っこにあるのは分業化だが、効率的な行政運営を進めるために社会に広まった分業化は、それぞれの行政が対象とするグループ間の階層、序列を作り上げていく結果となった。特に軍の場合、指揮系統の混乱を防ぐうえでも階層化は重要であり、上からの軍事革命がそうした社会を形成する要因となった。
加えて官僚化、文書化は支配層における機能的な協力関係ももたらした。そうしなければ複雑な軍事行政機構を動かせなかったためだ。そしてこうした変化を受け、社会的な帰属意識が強まった。特に支配層においては政府から与えられた役割がそのアイデンティティになっていったようで、このあたりは前に紹介した「ロシアでは行政エリートが強い」というTurchinの見解を説明する動きだろう。行政から与えられた役割こそがアイデンティティになっている人が増えれば増えるほど、行政の持つ力は大きくなるに違いない。
以上がこの文献に関する簡単なまとめ。前に紹介したものとダブるところもあるが、基本的にこの筆者は、モスクワにおいて16~17世紀に上からの軍事革命が進んだ結果、社会そのものが軍事的要請に合わせて組み替えられたという認識を持っていることが分かる。いうなれば初期近代バージョンの「開発独裁」だ。20世紀以降の開発独裁は経済力(GDP)の向上を目標として上からの半分強制的な取り組みとして行われたが、モスクワが行った開発独裁の目標は軍事力の向上だったと考えられる。
もちろんこの時期には他の地域でも同じような軍事力向上のための開発独裁が取り組まれていた。15世紀から16世紀にかけてオスマンで、16世紀前半にはサファヴィー朝やムガール、清で、同後半にはジュンガルで、同様に軍事革命が進んだ。彼らが最終的に失敗し、逆にモスクワがかなり長期にわたって成功を収めた理由は色々だろうが、要因の1つは後進的な地域だったゆえに逆に行政が住民にアイデンティティを与えやすかった点にあるのだろう。植民地化を通じて新大陸に西欧的な社会が出来上がったのと同じメカニズムだと思われる。
一方でモスクワの事例を調べることは、軍事革命論を巡ってしばしば交わされる欧州と非欧州という切り口の恣意性も浮かび上がらせる。そうした議論をする者たちは、明確な論拠もなしにロシアを欧州、オスマンを非欧州に分けて論じていることが多いのだが、実際に軍事革命発祥の地である西欧からの距離を見るとむしろバルカンに勢力を張っていたオスマンの方がより「西側」に近い存在だった。論者の大半が欧米の研究者であり、彼らがおそらくは無意識的にキリスト教vsイスラム教の構図を所与のものと考えているのが理由だろう。
だが同時代の記録を見る限り、そうした視点は決して当たり前ではなかった。明末期の文献ではオスマン帝国の銃を
「魯密銃」、つまりルーム人(ローマ人)の銃と呼んでおり、オスマン帝国がアジアからは東ローマ帝国の後継国家と見なされていたことが分かる。オスマンを東の帝国と見なす研究者たちでも、ビザンツ帝国はヨーロッパの帝国だと考えるだろう。なのに彼らは支配層が入れ替わった後はそれをアジアの帝国と見なしているわけで、でもそれは決して当時から一般的な見方であったわけではない。
世界史を理解するうえでは、こうした現代人の偏見に基づく境界線を頭の中からいったん消さないといけないのだろう。前に紹介した
ゲノム研究について書いた本でも、ゲノムの間には明確な境界線よりもグラデーション的な変化が多いことを指摘していた。世界中が境界線で区切られている時代に生きている人間はどうしても境界線を前提に考えるが、本当はそうした思考は理解を妨げる要因かもしれない。
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