モスクワ国家の勃興 上

 少し古い文献だが、モスクワ大公国の軍事革命についてまとめたものがあった。The Consequences of the Military Revolution in Muscovy in Comparative Perspectiveと呼ばれる文献で、特に16~17世紀のモスクワで軍事革命がどのように進み、それが行政など国家制度をどのように変えていったかについて記したものだ。ロシアでの国家改革というとどうしても17世紀末のピョートルから始まるというイメージが強いのだが、それ以前から進んでいた変化を紹介している点で興味深い。

 まず冒頭で軍事革命は15世紀後半の北イタリアから始まり、それから3世紀かけて中欧、北欧、東欧に広がっていったとしている。個人的には広がっていったのはもっと短期間で、ただし途中で生じた様々な変化が何度も波のように周囲に伝播していったように感じるし、またその際の中心は常に北イタリアだったわけではなかったとも思うが、まあこのあたりは言葉の定義の問題でもあるので議論してもあまり意味はないだろう。
 またモスクワにおける初期近代の軍事改革を西方と比べるメリットについて言及している。まずはエルベ以東の軍事革命について論じている研究者がいないこと。これは軍事革命論が打ち出された初期にはよく指摘されていた欧州中心主義批判の一種であり、当時(この文章が書かれたのは1996年)いかに軍事革命論が狭い地域を対象としていたかが分かる。また一般的な印象として専制国家が社会に自らの意思を押し付けた結果として社会が変わったという見方に対して異論も提示しているという。
 次の節は西欧における大雑把な軍事革命の流れを説明。軍事技術が社会や国家を変えたが、その際にはいかに財源を確保するかが重要であったと述べ、それが議会や三部会といった制度を作る必要性を生み出し、さらにはエリートの紛争ももたらしたことを指摘している。また軍事革命は階級にも変化をもたらし、貴族中心の小規模な騎兵組織から平民を多数含む大規模な歩兵中心の組織へと軍が変わり、貴族は士官という地位に就くようになった。そうした変化はさらに社会そのものの秩序を強化する流れももたらしたという。
 社会の変化はもちろん軍隊の大規模化によってももたらされた。軍務や補給だけでなく、課税といった分野までが変化し、あらゆる領域で文章による規則が広まっていった。このあたりは火薬革命についてまとめたこちらの文章でも財政=軍事国家といった事例を紹介して説明しているが、より効率よく国家の持つ力を発揮するためには、そうした情報処理の高度化が必要になったという理屈だ。この文章ではこうした傾向についてtechnicality、つまり専門性といった言葉で示している。
 ではこうした軍事革命はモスクワをどう変化させたのだろうか。どうやら革命は3つの段階を経てこの東の都へ届いたらしい。16世紀半ば以前、モスクワの軍は白兵戦用の武器を持った騎兵で構成されていた。周辺のタタール、リトアニア、ポーランドなども似たような武装だったため、特に変える必要はないと考えられていたようだ。だが16世紀後半、リヴォニア戦争を通じて新たなスタイルの軍と接触した彼らは、まず士官たちの主導権争いをコントロールし、伝統的な騎兵をモスクワで統合し、政府の直接指揮下に置く戦力を増やした。また世紀半ばにはマスケットで武装したストレルツィという部隊を編成し、さらには軍務に対する報酬の一元化も進めた。
 2度目の改革は動乱時代を経てロマノフ朝が成立した後の1630年代に行なわれた。西方から雇われた軍人が古い騎兵や銃兵を訓練し、政府は武器や補給、現金を新たな部隊に提供した。さらに中身を一新した新しい軍を作ろうとした3度目の改革は17世紀半ばに実施され、再び西方の軍人が雇われたほか、政府が兵たちを農民から直接動員する動きが始まり、騎兵も新たな部隊に配属され、既に古びてきていたストレルツィは守備隊へと役割を変えた。
 西側ではこうした改革は社会の様々な層から反発を受けたのだが、ロシアでもそうした抵抗は存在したという。また軍の拡大に対しては大衆や農奴の反乱も起きた。しかしそうした抵抗は西側に比べればずっと規模の小さいものだった。貴族たちは西側ほどの自律的な力を持たず、政府の仕事以外にキャリアを形成できなかったし、小規模で貧しい都市住民たちも政府が作り上げたシステムに依存する度合いが強かった。モスクワでは政府と大衆の間に存在する中間集団(intermediary bodies)が存在しなかったわけではないが、それらは西側ほど強力ではなかったのだ。
 弱体な貴族などは、騎兵としての役割が奪われていくと、より一層政府に頼らなければその地位を維持できなくなっていった。彼らの一部は政府に雇われる軍人となり、一部は同じく政府に雇われる官僚への道を歩んだ。同時に社会の階層化もあらゆる分野(宮廷、教会、地方の郷紳、下級官僚、商人、都市住民、農民)で進んでいった。こうした階層化は西側のように経済発展によって自動的に生まれたのではなく、政府によって作り出された。各種社会集団の弱さは政府やエリートの無制限の政治的な権力につながっていった格好だ。
 最後に専門性だが、西側同様にモスクワでも軍事革命の進展が専門化をもたらした。問題は軍事革命が新たな軍をもたらすまで、モスクワではそもそも専門性がほとんど進化していなかった点にある。モスクワ大公国自体が相対的に貧しく、そこでは書類を使った政府の仕事などはほとんどなかったし、教会や商人たちの中にもそうした仕事をこなせるだけの文字の知識を持った層が限られていた。この結果、モスクワ政府は軍事革命に伴う管理業務に耐える人材がほとんどいない状態から新しい軍を作り上げなければならなくなった。
 ところが彼らは短期間のうちにこの任務を達成してしまった。1650年には大量の政府文書が当たり前のように行きかい、管理組織は複雑さを一気に増した。こうした変化はモスクワの政治文化にも多大な影響を及ぼしたし、階層化が進んだ一因にもなった。急速な軍事革命への適応を進める際にあらゆる分野で政府が主導権を握った結果、今のロシアのような行政権力の異様に強い政治文化が生まれたとも考えられそうだ。
 最後のまとめとしてこの文章では軍事革命がもたらした結果について、西側とモスクワとの比較を示している(p11)。西側では政府機関を巡る争いが激しかった一方、階層の変化は緩やかで、組織化と文化的な変化の度合いは低かった。一方モスクワでは争いは限定的だったが階層の変化、組織化、文化の変化はいずれも高水準だった。新たな戦力を支えるためにモスクワ政府は大幅な社会構造の変貌を強いられ、そしてそれを成し遂げたことになる。

 軍事革命が始まる前、モスクワと周辺諸国に大きな違いがなかったのは確かだろう。それは軍事面だけでなく、社会構造に至るまで共通する特徴であり、それらはおそらく西欧に比べれば複雑度の低い社会であったと思われる。そんなモスクワ社会に火薬技術が到来し、それによって社会の急激が変化が求められる時代が訪れた。軍隊は大きくなり、それを動かすために大量の文章が必要となり、効率的な政府運営とそれを支える人材が必要になった。
 ところが比較的単純で貧しかったモスクワ社会にはそうした需要を満たす出来合いのものは存在しなかった。そんな条件下で生き延びるためには、政府が先頭に立って旗を振り、軍の巨大化とそれを支える政府組織を作り上げなければならないし、そのための専門性を持つ人材を育成していかなければならない。自分たちがやらなくても周辺国が同じことを始めれば、いずれは彼らに飲み込まれてしまうわけで、どこまで強引にこの改革を進められるかがサバイバルのカギを握っていた。
 似たような条件に置かれた東欧の国々の中で、この環境変化に最も適応したのがモスクワであり、後のロシアだったのだろう。オスマンやポーランド=リトアニアのように先行して火薬技術に適応したものの、モスクワほど徹底した社会や文化の変化を進められなかった国もある。そもそも変化する前に早々にモスクワに飲み込まれた国もある。そうしたバトルロワイアルの結果としてこの地域で生き残ったのが、全てを政府が主導して進めた国だった。
 Turchinは「エリートとは誰か」という文章の中で、ロシアを中国・フランスと並べて「伝統的に行政エリートが支配した」国だと述べている。昔から科挙をやっていた中国と比べてロシアがなぜそういう伝統を持つに至ったのかよく分からなかったのだが、今回紹介した文章はそのあたりの経路依存性について理解を深めるものとなっている。ほとんど何もないところから政府が力ずくで軍事革命に適応していった国だからこそ、誰もが政府の指図に頼ってしまうのだろう。それはかつては強みであったが、今ではおそらく弱点にもなっている
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