ダム破壊

 ウクライナのドニプロ河にあるカホウカダムが破壊された。ロシアとウクライナは双方とも相手がダムを破壊したと主張しているが、具体的にどちらがやったかを示すはっきりとした証拠はまだ見つかっていないもよう。ISWも6日の報告時点で、どちらの責任かについての推測は出せないと述べている。ただしその後で「証拠のバランス、推論、そしてレトリックは、ロシアが意図的にダムを破壊したことを示唆している」と指摘。またニューヨークタイムズは意図的な内部からの爆発がダムの破壊をもたらしたという専門家の推測を報じており、こちらもロシア側が破壊したのではとの見通しを示している。
 実際問題、SNSではウクライナ側がダムを破壊する方法を思いつかないと指摘する向きがあるなど、そもそもウクライナにはそうした能力がないとの声が出ている。これだけの巨大構造物を破壊しようとするには「相当量の爆薬を使用する必要」があるためで、ダムを支配していないウクライナ側がそうした破壊をもたらすのは困難だろうとの理屈だ。だが一方でこのツイートが指摘している通り「ロシア側のダメージも相当なもの」なので、彼らがやる理由もわからないのは確かだ。
 実際、ロシア側にとってもダム破壊のデメリットは色々とある。1つは「クリミアの水源」が失われるリスクがあること。もちろんこのダム破壊だけで半島のロシア軍が干上がるとは限らないが、クリミア大橋経由で水を運ぶとしたらこれはかなりの兵站上の負担になるはずで、デメリットはやはり存在すると考えられる。もう1つはドニプロ左岸に展開しているロシア軍や住民が実際に逃げ遅れている点で、ISWも彼らは大混乱にあると述べている。意図的な爆破だとしたらあまりにも不手際というわけだ。
 そのためもあって、ロシア側が破壊したのだとしてもそれは事故のようなものだったのではないか、との見方が出てきている。元から損傷していたダムが限界に達したのではないかとの説はその1つだし、いざというときに準備していたスイッチを誰かがうっかり押してしまったという見方もある。後者の事例はナポレオン戦争のライプツィヒからの退却時におけるエルスター河の橋の爆破を思い出させる説で、ロシア側のテンパった無能上官(それとも軍ではなく情報機関?)の命令とかで工兵がうっかり爆破させてしまった、という展開は個人的にありそうに思える。
 戦犯探しもさることながら、その影響をどう見るかも重要だ。こちらのツイートでは今後考えられる事態をいろいろと並べているが、原発への影響、洪水がもたらす人的、経済的な被害、生態的なカタストロフ、クリミアだけでなくヘルソン州南部の住民も飲料水が不足する可能性など、その影響は広範に及びそうだ。こちらの記事ではウクライナの反攻オプションを限定するという意味でロシアにとって軍事面で得ではないかとの見方を示している。さらにダム破壊の1週間前にロシア政府が「危険な施設での事故を調査しない」ことを許可した点も、予防的措置を不問に付すことでこうした行為をロシア側が後押ししている可能性を示している。
 だがたとえそうだとしても、やはりこのタイミングでの破壊にはメリットが乏しいのは確かだろう。むしろウクライナがドニプロ河を渡る姿勢を明確に見せるタイミングで破壊した方が、軍事的に考えるとメリットは大きいと思う。そうではなくダム破壊の最大の目的は、実は「ウクライナに経済的ダメージを与えること」かもしれない。現下のロシアの戦略目標はそこにある、という説がある。

 それを記しているのが、Modern War Instituteに載っていたWhat is Russia’s Strategy in Ukraine?だ。ロシアが今回の戦争で目指している戦略についてどう見るべきかを説明し、それに対してウクライナはどう対応した方がいいかについての見解を述べている。
 ロシアの現政権にとって最大の懸念は、ウクライナが「経済的に繁栄した民主的」な国となり、現在のロシアの政治経済システム(権威主義的な“泥棒政治”)とは違うオプションをロシア国民に提示する事態だ。ウクライナでそういった西側的価値観に基づく政治が実現してしまえば、当然ロシア人もそうした政治を求めるようになり、タタール化したモスクワ国家以来の統治体制が崩壊しかねない。それを防ぐために現在のロシアが追求しているのが経済的な消耗戦である、というのがこの文章の主張だ。
 地図中で示されている地図にはウクライナの州ごとのGDPが表示されているが、これを見るとロシアが占領している東部や南部には比較的高いGDPを持つ場所がいくつかある。2014年に既に失っているクリミアやドンバス地域の分まで含めれば、ロシアの侵攻によりウクライナのGDPがそれだけ損なわれていることになる。特に重要なのはGDPの1割を占めるドニプロペトロウシク州で、ドンバス全域を占領すればこの州にも砲撃などを浴びせて経済力にダメージを与えることができる。
 それ以外に農地や、黒海沿岸部を含む輸出へのダメージも含めれば、戦争によるウクライナの経済的損失もまた大きい。既にGDPは35%も落ち込み、インフレ率は20%に達している。ウクライナの予算の多くは軍事向けに費やされているが、それでも足りずに実際は西側諸国の支援によって戦争を継続しているのが現状だ。もともと国力で大きく劣るウクライナがロシアと真正面から消耗戦をすれば、先に力尽きるのが前者である可能性は高い。ロシアが貴重な長距離兵器をひたすらインフラ攻撃に差し向けているのも、最大の目標がウクライナの経済力をそぐことにあるからだと考えれば説明がつくように見える。
 この文章では、そうした経済難を見て西側の支援が滞る可能性をできるだけ避けるよう、ウクライナは残された産業資産を守って輸出を増やすといった経済強化政策に力を入れるべきだと指摘している。そうやって長期的な消耗戦でも戦える体制を整えれば、ロシアの戦略を挫くことができるという考えだろう。逆にそれに失敗すれば米国や中国が仲介に出てきて現状維持の形での休戦を結ぶようになり、それがロシア政府の目的達成に役立つとの主張だ。
 現在のロシアが経済的消耗戦を狙っているという説には一理あると思うが、ではそれをすれば彼らの目的が達成できるかどうかについてはちょっと疑問はある。いや確かに民主的な国家の成立を妨げるのは可能だろうが、一方で米国を弱体化させロシアを含む世界の多極化を進めるのはかなりハードルが高いだろう。消耗戦を戦えばウクライナは疲弊するだろうが、ロシアだってかなりの疲弊を覚悟しなければならない。両国がまとめて没落していった場合、結果は多極化ではなく単に旧ソ連地域全体が第三世界と化していくだけになる可能性の方が高いんじゃなかろうか。ロシア政府が何を考えているかの分析としては納得いくし、だからダムを破壊したと考えるなら辻褄が合いそうな話だが、その結果がどうなるかについてはちょっと納得しがたい。

 戦況全体を見ると多くの地域で戦闘が増えているようで、ウクライナの反転攻勢が始まりつつあるとの報道も出てきた。ロシア国内でテレビやラジオがハッキングされたという話についても反攻の始まりかもしれないとの見解があるし、ロシアからはドネツクで敵の攻撃を撃退したとの発表もあった(ただしウクライナ側は否定している)。バフムート周辺でウクライナの反撃が進み、ロシアが壊走しているとの声もある。
 ロシア側の不手際はダム破壊対応だけではないようで、例えば自由ロシア軍団などが入り込んできた地域は自国領内であるにもかかわらず焼夷弾で焼き払おうとしているらしい。さらにロシア軍の攻撃対象には自国領の町だけでなくワグナーも含まれているようで、彼らがバフムートから撤退する際に地雷を埋め砲撃をして妨害したというプリゴジンの主張はどうも本当らしい。砲撃を命じたロシア軍旅団長が自白していたり、地雷の映像が公開されたりしているためで、上層部だけでなく現場でもワグナーは恨まれているとの分析も出てきた。
 銃後も相変わらずで、兵員不足を埋めるためガスプロムが社員から志願兵を募っているという話が出てきたほか、ミャンマーやインドに売っていた部品を買い戻して何とか兵器を機能させようとしているとの報道もあった。一方、こうした事態を整理して政治目標達成のために先頭を切って国力を糾合しなければならないはずの親玉は、引きこもり状態で本当の情報を知らされていないという話がちょくちょくと出てきている。トップが引きこもりになった歴史上の例といえば明朝の万暦帝が有名だが、本当にプーチンが引きこもりと化しているのなら今のロシアはもしかしたら明朝末期に近づいているのかもしれない。
 それにしても改めて思ったのだが、引きこもって都合のいい情報にしか耳を貸さないなんて所業ができたのは、かつては帝王くらいだったはず。プーチンはまだ正統な「裸の王様」後継者と言えるが、でも最近はエコーチェンバーのおかげで割と誰でも気軽に万暦帝化できるんだよなあ。「これこそが人類の栄光と苦労の全てが最後に到達した運命」(by ウィンストン・チャーチル)だと考えると、なかなかの皮肉だ。
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