あまりうまい訳があるわけではないのだが、英語でHistory is just one damned thing after anotherという言い回しがある。It's just one damned thing after another、あるいはLife is just one damned thing after anotherについては
「踏んだり蹴ったり」「とかくこの世はままならない」 という翻訳があるのだが、主語が歴史になった場合はいささかニュアンスが異なり、「歴史とは一度きりの出来事が次々にやってくるものに過ぎない」といった意味を持つ。前に紹介した
「歴史は繰り返すのではなく韻を踏む」 という言い回しに対し、そうではなく歴史にパターンは存在しない、という主張をするときに使う言葉となる。
こちら で触れたTurchinのEnd Times紹介文の冒頭に、この言葉が否定形で紹介されている。曰く、英国の歴史家アーノルド・トインビーが批判者に対する気の利いた反論としてこの言葉を持ち出したとか。また
こちら でもトインビーの発言として、自分ではなく「何人かの歴史家がそう考えている」という文章を紹介している。ところが
こちら は否定形ではない形でトインビーの発言だ、という話が載っている。
これ、否定形か否かでトインビーという歴史家のスタンスが全く変わってしまうため、notの有無は実はかなり重要だ。Turchinの指摘通りならトインビーは歴史にパターンが存在しないという見方に批判的だったことになるのだが、しかし彼は少数派だった。大多数は歴史にパターンなど存在せず、従って実験や観察によって法則を見出すという科学的手法を歴史に適用することについて多くの歴史家や哲学者たちは「不可能だ」と熱心に主張していたそうだ。でもトインビーが否定形でない言い回しをしていたのなら、むしろ彼は少数派ではなく「不可能だ」と主張する多数派の側にいなければならない。
そのうえでそこから派生した使い方を順番に紹介しているのだが、真っ先に出てくるのは1932年に
Max Plowman という英国の作家が記した文章だ。彼は単に事実を並べただけの文章を嫌っていたようで、この「ろくでもない事実が次々と並ぶ」かのように集めた単なる「事実のコレクション」を使って物事の概要を示そうとすることに対する批判的な話を記した。ただしここに出てくるのはLife is...という言い回しであり、Historyという単語はそこには入っていない。
皮肉なのは、実はこのQuote Investigatorというサイトがまさに「事実を並べる」ことを最大の目的としている点かもしれない。このページもそうだし、他の格言がらみのページもそうだが、どのような資料に何が書かれているかを順番に並べることを最重要視している一方、そこから何かの主張なり主義なりを打ち出すことについてはかなり控えめにしている。敢えて言うなら、特に間違った言説が広まっているのに対し、「事実を並べる」ことで反論するのが最大の主張になっている。
話を戻すとトインビーが登場するのはPlowmanの後。1952年に書かれたその文章内で初めてこの言葉が歴史とつなげて言及されている、のだが、そこでは単に歴史上の混乱を日々の「踏んだり蹴ったり」な出来事に例えているだけ。もちろん彼は歴史がパターンを持たないランダムな出来事の羅列であると主張するためにこのフレーズを紹介しているわけではない、というかそもそもそういう文脈で取り上げられている文章ですらない。
彼が「歴史にパターンがあるか否か」という切り口で最初にこのフレーズを取り上げたのは1954年の文章だ。
歴史にはリズムもパターンもないと主張する歴史家 に対する反論の中でトインビーはこのフレーズが彼らの「ドグマ」になっていると述べている。同年の別の文章でもやはりこれをドグマとして取り上げ、にもかかわらずそうしたドグマを持つ歴史家自身が「規則的サイクルで生まれては死ぬ文明」について扱っているではないか、と批判している。
1957年に出版された彼の抄本にもこの文言が登場する。そこではこのフレーズは略してODTAAと称されており、さらにドグマについて触れた文章で初めてHistory is...という言い回しが登場してくる。同年、タイム誌には「トインビーがODTAAとして描写した種類の」と書かれた記事が掲載され、同じように彼とこの言い回しをつなげた文章が1965年や1968年にも登場するようになる。1975年にトインビーが亡くなった際にもニューヨークタイムズに「彼が否定したドグマ」としてこのフレーズが出てくるようになった。この時までには彼とこのフレーズはかなり強く結びつけられていたのだろう。
最後にQuote Investigatorは、元はLife is...から始まった文章が1957年にトインビーの抄本で初めてHistory is...となり、そこからこのフレーズが広まったとまとめている。ただしトインビーはこの視点に対して意見を異にしていたわけで、つまりTurchinが引用したように否定形で紹介する方がトインビーの主張とは平仄が合うことになる。もちろん
Turchin自身も歴史にはパターンがあると見ている 。そのパターンの中身はトインビーが想定しているものと同じではないだろうが、パターンの有無についていうならトインビーはTurchin側の人間となる。
歴史にパターンがあるかどうかが時折議論になっていることは、
Noah Smithが行っていた論争 や、
歴史と還元主義を巡る議論 を紹介した際にも触れている。さらにPlowmanの主張まで踏まえるなら、この議論は実はオタク的に(ディレッタント的に)単に事実を並べることにどのくらいの価値を見出すか、という問題に還元することもできそうだ。オタクであればポケモンの名前をひたすら唱えるだけでも満足するだろうが、それは果たしてアカデミズムに何らかの貢献を与えるような取り組みといえるのかどうか、という話かもしれない。
Plowmanの価値観は象牙の塔的であり、それだけ伝統的に認められたものと言えるんだろう。学生時代のことだが、「ディレッタント」という言い回しでアカデミズムにおける評価の低さを表していた事例に接したことがある。しかし足元では結構状況が違ってきている印象がある。そもそもアカデミズムの世界がきちんと事実を把握しているのかという異論が提示される機会が増え、逆にアカデミズム側からはディレッタントと手を組んで学者的には未発掘の事実を取り出して業績につなげようとする動きが出てきた。前にも紹介した
ブルゴーニュ公の火器に関する本 の著者の1人は、研究者というよりはディレッタントである。
それに実のところ、こういった事実を発掘する人間とそれを踏まえて理論化する研究者という住み分けは別に歴史分野だけでなく、自然科学でも存在する。そして理論家は残念ながら事実の積み重ねを踏まえたうえでなければ研究を進められない。やたらと細かい事実の発掘にはむしろオタクの方が向いているわけで、後はそこからいかにアカデミックな付加価値を生み出せるか次第なんだろう。その意味ではPlowmanが嫌っていた「事実のコレクション」が実は重要、という時代になっているのかもしれない。ビッグデータを使って統計的に分析するという流れが広まっているのを見ると、そうした傾向は強まりこそすれ消えてなくなる可能性は少なそうだ。
もちろん事実を並べたうえで、そこから理論なりパターンなりを導き出す際にも気を使うべきことはある。具体的には、事実を土台とした理論をきちんと「ロジック」に基づいて構築できるかどうかだ。実のところこのロジックが重要であるという点については、特に人文系はまだ弱い印象がある、と個人的には思っている。かつて西洋では修辞学と呼ばれる学問を通じてレトリックを学ばされたそうで、それは逆にロジックに沿っていないレトリックを見分ける訓練にもなったと思うが、現代社会ではそうした機会に恵まれている学生はあまり多くないことも影響しているかもしれない。
況やアカデミズムと縁遠い人においてをや。レトリックに対する免疫が極端に弱ければ陰謀論系の動画にコロッと騙されるし、そこまで行かなくてもよくある「お勉強系動画」の雑な理屈が割と広く受け入れられているのを見る限り、大半の人はレトリック耐性がそれほど高くないように思える。動画は感情に訴えるうえで便利なメディアだと思うが、ロジックを追求するには向いていない。お勉強系動画は暇潰しにはいいので私もちょくちょく見ているのだが、中身については基本眉に唾をつけるくらいの姿勢でなければ拙い、と自戒しておく必要があるだろう。
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