限界利益と帝国

 Turchinが唱える議論の中で、メタエトニーに対し個人的に違和感を抱いていることは前にも記した。一方で帝国の辺境から新しい文明が生まれてくるという傾向についてはTurchinがメタエトニーを唱える前から聞いたことがある。だから辺境に何か新たなアサビーヤの育成を促す効果があるのではないかとの仮説を立てること自体には違和感はない。
 問題はその仮説に含まれる「メタ」な民族境界を重視する点、つまり宗教や民族や言語など、様々な集団の違いを明確にするような境界線こそがアサビーヤを育てやすくなるという部分だ。宗教や民族や言語といった多様な切り口で見た場合、その境界線を挟んでどのくらいの「差」が存在するのかを定量的に見定めるのは実は難しい。Turchinの議論に対する違和感も、そうした定量化が不十分に見える部分、もしくは定量的に見てもそもそも差があるように思えない帝国がいくつも生まれている点にある。
 逆に言えば、そうした宗教や民族や言語といった定量化の難しい要因を無視し、単純に帝国の支配下ではない辺境地域においても同様に新たなアサビーヤが生まれてくるようなメカニズムを想定することができれば、「メタエトニー」理論は不要となる。いや、そもそもアサビーヤなる中身のはっきりしない物を持ち出さずに、もっと定量化しやすい観点で考えることはできないだろうか。主観によって歪む可能性のある概念ではなく、客観的に「辺境」が新たな帝国につながるメカニズムを思いつくことができれば、メタエトニーは不要になると思える。

 まずアサビーヤに代わるものとして、Tainterが持ち出した限界利益を取り上げてみよう。複雑な社会を作れば限界利益が拡大し、メンバーにとって包括適応度が高まる。この場合、複雑な社会を作れる政治体の方が高いアサビーヤを持つことになるが、複雑な社会を作るにはノウハウがいる。その点で帝国の辺境は、そもそも帝国がないか、帝国から遠く離れているところよりもノウハウを手に入れやすいだろう。
 限界利益を高める狙いは、Turchinによれば戦争で勝てる数を揃えるためである。この点は逆に帝国に近すぎる地域で独立した政治体が生き延びれない理由となる。そうした地域は帝国に飲み込まれてその一部となり、せいぜいバンドワゴンに乗っかったエリートたちが生き残れるくらいだろう。逆に辺境にいれば帝国に飲み込まれることなく複雑な社会を構築することが可能だろう。
 複雑な社会はいずれ収穫逓減に見舞われる。先に複雑な社会を築き上げた帝国は、そのうち限界利益という名のアサビーヤを失っていくようになり、逆に複雑な社会ができたばかりの辺境の方が構成員にとって魅力的な社会となる。帝国は衰え、代わりに辺境から新たな帝国が誕生し、勢力を拡大していく。こうしたメカニズムを想定すれば、敢えてメタエトニーといった議論を持ち出さずとも、単に辺境であるだけでいずれは帝国に取って代わることが可能になる。
 この点は格差の視点で見ることもできるかもしれない。社会の経済規模が大きくなるほど格差は拡大しやすくなる(Scheidel, The Great Leveler, p448)。そして経済格差は単なる幸運で決まり、かつ格差が拡大するケースが理論的にもあり得る。格差があると構成員がその社会の存続に非協力的になっていくという板垣退助の言葉通りなら、大きな帝国よりも小さな国の方が互いに協力しやすくなる可能性も高いだろう。
 ただしここには問題が1つある。既存の帝国が存在した地域では、再び複雑な社会を作り上げても限界利益を膨らませるのは難しいのではないか、という懸念だ。辺境から生まれた帝国が古い帝国を飲み込んでも、その帝国は長続きしない(アレクサンドロスの帝国)。逆に辺境から生まれた新帝国が古い帝国ではなく他の辺境地域を統合していく場合、そこに導入される複雑な社会は大きな限界利益を生み出す可能性があるだろう(ローマ帝国)。
 こうした課題を乗り越えるためには、古い帝国領土であっても新たな限界利益を生み出せるような新技術が必要になる。産業革命以降などは分かりやすい事例であり、産業化を進められるだけの複雑な社会を作ることができれば、古い帝国でも経済成長はできた(最近の中国など)。それ以前であっても、例えばコロンブス交換で手に入れた新しい作物などを通じて既存の帝国でも生産能力を高めることは可能だっただろう。
 生産技術だけではない。統治技術の向上によって限界利益を新たに生み出すことも可能だったと思われる。財政=軍事国家などは分かりやすい事例だが、そこまで行かずとも中国が導入した科挙とそれにともなう官僚制の充実は、紀元第2千年紀において帝国がさらに人口を増やしていくのに貢献したと思われる。中国以上に歴史が古い中東では、しかしイスラム以降はそうした成長志向が鈍っていたようで、その意味で中東ではもう限界利益が増やせない状態になっていたとも考えられる。
 環境面の条件も見落とせないだろう。ユーラシアについていえば西は「麦と乳」、東は「米と魚」が食を支えてきたと言われているが、これはつまり西が農業(農耕と牧畜)なくして成立しないのに対し、東は一部を狩猟採集(魚)で支えられるほど豊かな環境に恵まれていた、と解釈することも可能だ。当然ながらユーラシア東部の方が西部よりも環境的に限界利益と帝国を生み出す余力があると考えられる。
 アサビーヤは人間集団が持つ特性に注目しているが、上記で紹介した限界利益の議論はその社会が利用できるリソースをどう使いこなしているかを示すものであり、構成メンバーの包括適応度を計測する方法としては後者の視点の方が有効だろうと思われる。もちろんリソース活用に際してはある種の特性を持つ集団の方が有利、という傾向は存在するだろうが、見るべきは特性そのものではなく、あくまでその特性がリソースを活用する際にもたらすメリット、と考えた方が客観性を担保しやすいだろう。
 そう考えるとアサビーヤに必要と思われる特性の中には、実は他の特性でも交換可能なものがあるかもしれない。複雑な社会に必要な情報処理ツールが1種類でなければならない理由はない。いわば「黒い猫でも白い猫でも鼠を捕るのが良い猫」というわけだ。こちらなどで家父長制の原因にイスラム教を取り上げる言説を批判しているのも、個人的に枢軸宗教はイスラム教だろうがキリスト教だろうが、複雑な社会を作るうえで割と互換性が高いのではないかと思っているからだ。

 ただしメタエトニー的な要素、つまり宗教とか民族とか言語の中には、タイミングによっては重要な機能を果たすものもあるかもしれない。具体的には国家が生まれる過程で求められる情報処理の閾値突破における役割だ。閾値分析の元ネタとして使われているTurchinの論文によると、社会的な複雑さを示す指標のうち情報処理に関連するのは政府、インフラ、情報システム、テキスト、マネーといった分野にかかわるものとなる。
 このうち情報システムとテキストにおいて絶対に欠かせないのが文字であり、そして文字を使いこなすうえでは社会に共通言語がある方が便利だろう。もちろんかつてのシュメール語やラテン語のように自然言語としては消滅した後も知識階級で使われた言葉が存在したのは確かだが、非常に限定的な使用にとどまっていたのも事実。もちろん言語はゲノムと違っていくらでも水平伝播は可能だが、メタエトニー的要素において、言語は国家成立の過程で役に立つと言ってもいいんじゃなかろうか。
 一方、民族や宗教になるとどのくらい必要かはよく分からない。というかTurchin自身が指摘している通り道徳的な宗教が必ずしも複雑な社会にとって必須ではないのだとしたら、メタエトニーについて論じる場合も宗教を無理に入れなくてもいいかもしれない。少なくとも「道徳的」である必要はない、という理屈にはなるだろう。
 民族については定義自体があやふやな概念なので取り上げるのは悩むところ。文化という表現なら、テキストの中にある文学作品などに効果をもたらす可能性があるため全く無縁ではないとも主張できそうだが、関与する部分としてはかなり限定的だ。ただ見た目の違いが自分たちと余所者を区別するメルクマールとして使われる点については正直否定できないため、複雑な社会の成立に際してそうした差異が何らかのインパクトをもたらした可能性については視野に入れておいた方がいいんだろう。
 まとめるなら、メタエトニー的要素は特に国家成立前には重要だったかもしれないが、成立後について言うとそこまで重要だったとは思えない。少なくとも辺境においては、メタエトニー要素よりもシンプルな社会が複雑な社会に移行することでどれだけ多くの限界利益を得ることができたかという点の方が、よほど大きな意味を持っていたんじゃなかろうか。むしろメタエトニーは古い帝国の境界線にしぶとく生き残り続け、人々の分断をもたらし続ける要素であって、それが本当に新たなアサビーヤを生み出すインキュベーターであったとは思い難い、というのが私の個人的な感想だ。
 ただし今回の話はかなり思い付きの面が強いので、あまり信用しないでもらいたい。あくまでこんな考え方もある、程度に読んでもらうとありがたい。
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