ジュンガル史料

 ジュンガルの軍事革命について前に記したが、その論拠となる史料について確認できるものを紹介しておこう。ジュンガルの火器については、前に清の火薬について触れたエントリー内で紹介しているblogに言及している部分があったので、これを参考にしながらジュンガルがどのように火薬兵器を取り揃えていったかを確認するとしよう。
 こちらのblogでも17世紀の前半までのジュンガルでは「主戦力は依然として騎馬と刀、槍」だったと指摘している。それがガルダン・ハーンの父親の頃からロシアの火器に関心を持つようになった。そしてガルダン・ハーンの頃には火薬の原料や火器の材料となる金属を自前で調達できるようになっていたという話が秦邊紀略巻8の「嘎爾旦傳」に載っているそうだ。こちらは原著をネット上で閲覧できるものはなかったが、内藤虎次郎の読史叢録に同書の該当部分がほぼ丸ごと引用されている(124/307)ので、こちらを参照すればいい。さらに硫黄や硝石、鉄、銅といった資源については欽定皇輿西域圖志巻43(39、51/99)に、ジュンガルとブハーラ人の双方で産出していたことが書かれている。
 また同じ欽定皇輿西域圖志の巻41には、ジュンガル征服後に彼らが使っていた武器についてまとめた記述がある(97/101)。それによると使われていた砲はラクダに載せる長さ2~3尺(65~100センチほど)、口径3寸(10センチ)のもの(いわゆるザンブーラック)と、木製の架台の上に置く長さ2~3尺、口径5~6寸(17~20センチ)の大砲、そして長さ4尺(130センチ強)の鳥槍(銃)があったそうだ。
 また回砲(ブハーラ人の使っていた大砲)に関する図は皇朝禮器圖式巻16に載っている。blogではラクダの背に載せて使う砲と説明しているが、見た限り木製の架台の上に載っているようにも見える。残念ながらジュンガルの使っていたザンブーラックが、サファヴィー朝などで見られたような旋回式のものだったかどうかは不明なので、この図がザンブーラックではないと断言するのも難しそうだ。続くブハーラ人のものと思われる人名について記した宮中檔康熙朝奏摺については、残念ながらネット上では発見できなかった。
 ウーラン・ブトンの戦いより前からガルダンが火器を整えていた話については朔漠方略巻1に載っている1679年、同巻2に載っている1683年の出来事において、彼が清朝に鳥槍を貢納していた点からも窺える。1690年のジュンガルと清の戦争におけるジュンガルの火器について言及したものとして、朔漠方略巻6には彼らが鳥槍を使っていたこと、火器が多く、清側の火器営が未到着だったので前進できなかったという話が書かれている。前に紹介したブーヴェの本にもエリュート(オイラト)がその「立派な一斉射撃」bonne mousquéterie(p192)で清に大きな損害を与えたと記されている。
 これに対する清側の対応として、聖武記巻3に入っている康熙親征準噶爾記(69/109)には康熙31年(blogによれば30年)に清が火器営を設立したことが書かれている(79/109)。日本語訳はこちら(84/413)。また聖祖仁皇帝實録巻148にも火器の対応が緊要だという記述がある。
 他にも色々と清側の話が書かれているが、面白いのは朔漠方略巻18に載っている1695年のもので、ウラーン・ブトンの時は大砲が重すぎたから今回は軽いものを選べと記されている。ジュンガルが採用していたザンブーラックに合わせ、清がより軽量の子母砲に頼るようになったという流れを裏付けるような話と言える。またジュンガルの火器の使いぶりについては平定準噶爾方略にも色々と書かれているそうで、新しい時代の話だけになかなか充実した史料があるようだ。
 一方、ジュンガルのチベットでの戦争に関連してジュンガルが山上に布陣していたという話は、上にも載せた朔漠方略巻6の中にそうした話が記されている。また同巻8には、川を挟んだ対岸の高い岸辺に火器を展開したという記述もある。一方、このエントリーで紹介した文章に載っていた参考文献のうち、宫中硃批奏摺や軍機處滿文録副奏摺、康熙朝滿文硃批奏摺あたりについては、ネットで原文を見つけることはできなかった。

 というわけでジュンガルで起きていた草原の軍事革命について、現状で分かる範囲の史料を並べてみた。さすがに割と新しい時代だけあって史料の数が多い。宋金元の時代とはえらい違いだ。もちろんこれが全てではないが、彼らが火器を使いこなしていた様子は中国側の史料からだけでも色々と窺える。加えて彼らは当時、ロシアとも接点があったわけで、おそらくはそちらの史料もあると思われる。
 17世紀後半から本格的な火器の使用が始まったという点は、アメリカ大陸の一部(例えば17世紀前半に1000人単位の戦士を銃で武装させていたイロコイ連邦)よりは遅く、西アフリカの一部とほぼ同時期になる。もちろんユーラシアの中ではかなり遅かった方になると思うが、世界的に見れば彼らより遅い地域(例えばニュージーランド)もあった。
 いやそれどころかユーラシアのステップ地帯では、ジュンガルが火薬革命を始めた後もなお騎馬弓兵に頼って軍事活動を行っていた地域があったという。Brief Review of the History of Nomadic Horseback Archers in Kazakhstan from Bronze Age to 19th Centuryによると、17世紀になってもカザフでは火器が弓矢と交代することなく、前者はあくまで補助的な兵器として使われていたという(p21)。彼らが火器を主力にできなかった理由の1つは、そうした兵器を生産できる中央ユーラシアの都市部をジュンガルなどに押さえられてしまったせいだが、この文章によるとジュンガル側も清との戦争を通じて手に入れた満州スタイルの弓矢を18~19世紀にステップ地帯に広めたと書かれている(p23)。
 もう一つ注意しておくべきなのは、ジュンガルを滅ぼした清自体も火器の進歩という意味ではその後で停滞に見舞われた点だ。AndradeのThe Gunpowder Ageでは、アヘン戦争時点で清の大砲は英国製とは客観的に見ても性能の低い物と化していたこと、また歩兵のうち火薬兵器で武装していたのは30~40%にすぎず、しかもその多くは火縄銃だったと指摘されている(p241-242)。Between Social Control and Popular Power: The Circulation of Private Guns and Control Policies during the mid to late Qing, 1781-1911によると、19世紀末に中国を旅したアメリカ人はいまだに火縄銃が使われているのに驚いたそうだ(p35)。もとから清ではエリート兵に最先端の銃を持たせる一方、他の兵には質の低い武器を持たせる傾向があったようで、もしかしたら征服王朝ならではの被支配者に対する警戒感もあったのかもしれない。
 それでもジュンガルと清の両国が火器を使ってステップの覇権を巡る争いを繰り広げていたのは事実。だがその話があまり有名でないのは、おそらくどちらも歴史的に見れば敗れた側になってしまったためだろう。人は後知恵で歴史を見てしまう存在であり、そのために最終的な結果だけを見て清もジュンガルも「西欧の軍事技術に比べれば遅れた存在」と思い込んでしまっている、のだと思う。
 個人の人生を単位とすれば100年の時代のずれは極めて大きな時間だし、その間に国家の力関係が大きく変わることだって考えられなくはない。だが歴史上の話になるとそうした時間感覚を失い、中世風と言われて近世を思い浮かべる人が増えるといった現象が起こる。清やジュンガルが強かった時代に彼らがどのくらい火薬革命を進展させていたかは、現代からの目線ではなく同時代の他地域と比較して判断するように努めるべきなんだろう。
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