1795年ライン 渡河4

 SchelsのDer Uebergang der Franzosen bei Urdingen über den Rhein am 6 und 7 September 1795(p41-64)の続き。今回も地図はこちらのReymann's Special-Karte(20万分の1)と、Old Map OnlineにあるMesstischeblattの2万5000分の1地図参照。エアバッハ師団の右翼と中央が撤収を始めていたころ、エアバッハ自身はデュッセルドルフからアンガーバッハに到着した。
 ルフェーブルはヴィンケルハウゼンとアンガーミュンデの連合軍に対するこれ以上の攻撃を控え、グルニエとシャンピオネの進撃を待つことにした。フランス軍の前進がサレムやアンガーミュンデ付近で何度も失敗していたのを見て、エアバッハは敵がラティンゲン(アンガーミュンデ南東)経由で連合軍の迂回を試みるだろうと判断。先んじてこの地を押さえることが重要だと考え、リーゼに一部の部隊をラティンゲンに、一部をゲレスハイム(デュッセルドルフ東方)に送るよう命じた。また一部はメットマン(ゲレスハイム東方)へ至る街道を封鎖するために近くの高地に布陣した。
 ライン沿いの道を通ってヴィッパ―河畔でヴュルテンベルク公と合流するのは、デュッセルドルフとベンラートの対岸にいるフランス軍の射程範囲にあるため、エアバッハはそこを諦めてメットマン経由での退却を実行しようと考えていた。フランス軍がデュイスブルクから東のミュールハイム、エッセンを経由し、ハーゲン、マイナーツハーゲン、ジーゲンと山中を経由してラーンの右翼へと先回りすることを恐れたのも理由だった。ゼッケンドルフもヴィンケルハウゼンまで後退し、騎兵はヴィットラーで合流した。カルクムに集まった兵は午前8時過ぎに行軍を始め、デュッセルドルフ近くを通ってクロスター・ロートへと向かった
 リーゼは槍騎兵をラティンゲンに先行させた。フランス軍の2個半旅団が彼らを遮断しようと接近し、連合軍と衝突した。最初はオーストリアの槍騎兵がフランス軍を押し戻したが、数が少なかったためにすぐ反撃され、リーゼの歩兵のところまで押し戻した。リーゼは断固として前進を続けて再びフランス軍を攻撃し、退路を遮断しようとするフランス軍の前進を止めた。彼はそのままラティンゲンを占領し、夜遅くまでそこにとどまり、それからメットマンへと後退した。
 エアバッハはクロスター・ロートとグレーフェンベルク(デュッセルドルフとゲレスハイムの間)を通っての行軍を続け、デュッセルドルフ経由で先行していたフランス軍部隊をその町へと追い返して退路を開いた。正午に部隊はゲレスハイム近くの高地で休息し、夜10時にはそれ以上フランス軍に妨害されることなくメットマンに到着した。夜の間にリーゼの部隊も合流した。渡河の開始から脱出までの彼らの損害は、後から合流した行方不明者を除き、死傷者と捕虜で計357人にとどまった。7門の大砲と5両の弾薬車、デュッセルドルフの物資などが敵の手に落ちた。
 ユアディンゲンで乗船したグルニエの歩兵の大半は川岸の砂地に足を取られて正午まで追撃に参加できなかった。ドゥジャン将軍はユアディンゲンに舟橋を架け始め、ルフェーブル、ティリー、グルニエ各師団の主力は6日から7日にかけての夜間に、ヴィットラー、カイザースヴァート、アンガーミュンデの間に宿営した。シャンピオネはデュッセルドルフにいた。ジュールダンは追撃を行なうために必要な騎兵と砲兵が左岸から渡るのを待ち、7日になって残る歩兵、騎兵と砲兵の全てがユアディンゲンでラインを渡った。
 5日から6日にかけての夜間、ヴュルテンベルク公の陣地には大きな問題は起きなかったが、午前7時にはデュッセルドルフ周辺での渡河の知らせがミュールハイム(ケルン近く)の彼の司令部に届いた。彼は即座に部隊をヴィッパー河畔へと出発させ、歩兵をそこに残すとさらに騎兵を率いてデュッセルドルフ方面へ急いだ。だが敵は既にデュッセルドルフを奪い、エアバッハは退却を始めていた。エアバッハの部隊のうち左翼側、ノイホフからヴィッパー河畔まで展開していたカルネヴィユレギオンとブルボンレギオンは、川沿いから引き揚げてベンラートに集結していた。
 ヴュルテンベルク公はこれらの部隊を収容するとヴィッパーの背後まで後退させ、ライヒリンゲンからラインとの合流点まで左岸に部隊を展開した。またヴィッパー右岸のゾーリンゲンに至る街道沿いにはランゲンフェルト付近に騎兵の分遣隊を配置し、エアバッハとの接触を求め右翼のブルク(ゾーリンゲン南東)とクローネンベルク(同北東)方面にも騎兵を派出した。エアバッハの師団左翼の800人を除き、ヴュルテンベルク公の軍勢は9100人ほどだった。これだけの兵力ではジュールダンの軍勢をヴィッパー河畔で食い止めるのは不可能で、しかも背後のノイヴィートでもフランス軍はラインを渡ろうとしていた。そこで彼は必要になればすぐジーク河の背後にあるウケラト近辺まで後退する準備をした。
 9月7日、フランス軍はヴュルテンベルクの部隊近くには姿を見せなかった。同日朝にはエアフルトから、ヴィッパー河沿いのエルバーフェルト、シュヴェルムへ、そこから東のブレッケンフェルトを経てジーゲンに向かい、16日にはウケラトで合流するとの連絡があった。そのため可能な限り長くヴィッパーの線を守る必要が出てきたが、そのためにはヴュルテンベルク公の兵力では足りなかった。彼はエアバッハに対して増援を求めた。
 エアバッハはこの要請を既に想定していたようだ。彼は7日朝、キーンマイアーに騎兵4個大隊と騎馬砲兵4門を与え、メットマン近くの宿営地からヴィッパー河沿いの防衛線に送り出した。彼らは8日にはヴュルテンベルク公の師団と合流している。残りの部隊はエルバーフェルトへと行軍し、午後にはシュヴェルム近くの宿営地に到着した。敵の追撃はなかった。

 Schelsが書いたフランス軍によるライン渡河作戦についてはここで一段落しており、次に彼が書いた文章の題名は「1795年9月8日から24日までのライン河畔の作戦と、ハントシュースハイムの戦い」(p107-150)となっている。このうちハントシュースハイムについてはフランス側の史料も引用しながらこちらこちら、そしてこちらで紹介済みだ。
 というわけで、いったんここまでのまとめ。読んでの通り、9月になってようやく始まった本格的戦役の序盤はフランス軍が完全に先手を取った形となった。ただし、ほぼ4個師団の攻撃を受けたエアバッハ師団が大きな損害もなくライン沿いの防衛線からの脱出に成功しているのを見ても分かる通り、連合軍側にとってもこの攻勢は想定内の範囲だったようだ。プロイセンが引いた中立ラインを越えてまで行った作戦の割に、効果が乏しかったと言わざるを得ない。
 このあたり、もしかしたらフランス軍による中立侵犯の取り組みがこの頃から連合軍側に知られるようになっていたためかもしれない。何しろ前年に彼らは中立であるジェノヴァ領を経由してテンダの防衛線を迂回することに成功している。フランス軍がそうした作戦を取った前例を知っていたからこそ、クレルフェはそうした事態に備えるよう部下に命令を出し、エアバッハもそれに合わせて作戦を組んでいたと考えられる。
 渡河作戦自体はこの時代に広く見られた「河川の湾曲部に十字砲火を浴びせて敵を圧倒する」作戦が採用されている。ポッツォロの戦いも同様にミンチオ河が湾曲し、突出している部分を対象にフランス軍が渡河を行った。その意味では定石通りの作戦であり、逆にそれだけ連合軍側にも予測しやすい攻撃だったのだろう。なによりユアディンゲンで渡河を試みたグルニエが何度も撃退されてしまっているあたり、分かりやすすぎる攻撃は対処されてしまう事例とも解釈できる。
 フランス軍が序盤でより確実に連合軍に大きな損害を与えられる作戦が他にもあり得ただろうか。例えばサンブル=エ=ムーズ軍がもう1つの渡河点として選んでいたノイヴィートに主力を投じることで、それより北方にいる連合軍を孤立させる、という方法もあったかもしれない。ただ、同様に連合軍の戦線に穴を開けようと試みたマインツでの渡河が最終的にハントシュースハイムの戦闘で挫折しているのを見ても、絶対に成功する保証はなさそうだ。
 とはいえフランス軍がまず攻勢に出てラインという防衛線を突破できたのは間違いない。またクレルフェ側もすぐに対抗できるだけの戦力を集めることはできず、しばらくは退却戦を強いられることもこの時点で分かっていた。フランス軍にとっては優勢な立場にいる間にどこまで戦果をあげられるか問われる局面だったわけだが、次回以降に述べる通り、彼らは進むことはできても連合軍に大損害を与えるのには苦労する。
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