1795年ライン 渡河3

 SchelsのDer Uebergang der Franzosen bei Urdingen über den Rhein am 6 und 7 September 1795(p41-64)の続き。今回も地図はこちらのReymann's Special-Karte(20万分の1)と、Old Map OnlineにあるMesstischeblattの2万5000分の1地図参照。フランス軍の渡河を知らされたエアバッハは即座にキーンマイアーとともにカルクムからサルム(セルム)へと移動した。その途上、彼らの背後のハムとデュッセルドルフ方面からも砲撃が聞こえてきた。エアバッハはカルクムからデュッセルドルフ、カイザースヴァート、ホックム、サレムへと部隊を送り出し、カルクム付近の宿営地にはリーゼ将軍率いる少数の部隊のみが残った。
 1時間半ほど経過したがハム方面の知らせをまだ受け取っていなかったエアバッハはサレムと湾曲部の防衛をキーンマイアー及びゼッケンドルフに任せ、自らは6日午前2時にデュッセルドルフへと急いだ。移動にかかるのは3時間ほどで、3分の2ほどの移動が終わった時にようやく敵がハムでラインを渡りデュッセルドルフへ移動しているとの情報が届いた。
 この方面では0時半頃にフランス軍の第1陣である擲弾兵2個大隊が下エアフト河口付近から渡河を始めた。だが彼らは対岸の連合軍の塹壕の砲撃で撃退された。フランス軍はヘーアトオーバー=カッセルの砲台から対岸を砲撃し、第2陣を左岸沿いに少し下った場所からハムへと渡河させた。オーストリア軍では2時間行程の距離に散らばった5個中隊が抵抗した。だがフランス軍の第3陣1800人が上エアフトから同じタイミングで渡河を行い、グリムリンクスハウゼンの対岸に上陸した。既に弾薬を使い果たしていたオーストリア軍はもはや敵の攻撃を持ちこたえることができず、一部は南東のベンラートへ、大半はデュッセルドルフへと退却した。損害は行方不明を含めて230人ほどと、大砲3門だった。
 デュッセルドルフにはプファルツの守備隊2000人を除くとオーストリア軍3個中隊しかおらず、エアバッハが町に到着した午前4時過ぎには既に郊外をフランス軍が占拠していた。シャンピオネ将軍から送られた伝令が門に到着してプファルツ総督に降伏を要求し、拒絶するなら町を砲撃すると脅した。これに対しエアバッハは、カルクムから送り出した増援が届いたところで郊外のフランス軍を攻撃してこれを通りから撃退したが、彼らは家々に立てこもって抵抗した。一方、プファルツの関係者はエアバッハの反対にも関わらずに降伏交渉を行い、午前6時にはデュッセルドルフは降伏した。大砲353門、1万丁の銃などがフランス軍の手に落ちた。2000人のプファルツ兵は捕虜となったが、交換するまでフランス軍とは交戦しないことを条件に解放された。
 郊外での戦闘がなお続いている間に、エアバッハのところにキーンマイアーとリーゼの報告が届いた。フランス軍がアンガーバッハの向こうにある中立線を越え、プロイセンの士官の抗議は無視されたという内容だった。フランス軍はそこからリーゼの率いる予備に向けて行軍した。既に右翼で迂回され、いずれ背後に回り込まれると分かった時点で、エアバッハはライン河畔でのこれ以上の抵抗は無理だと判断した。敵が山中を経てジーゲンからヴェッツラーへと向かい、連合軍がラーンに到着する前にその右側面を回り込むことが予想できたため、ラインに沿ってヴィッパ―へと後退する意味はもはやなかった。そこでエアバッハは山中を経由して退却することにした。
 彼はデュッセルドルフ付近で戦っている兵に、カルクムからの重砲兵の退却をカバーするようにクロスター・ロートへの行軍を命じた。歩兵はこの行軍を実施し、追撃してきたフランス軍に対しては騎兵が突撃を行って追い払った。一方、エアバッハは自身の部隊の最右翼へと移動した。そこでは既にフランス軍がいくつかの地点で渡河を行っていた。グルニエが師団前衛に渡河を命じたのは午前1時頃。最初の部隊はカイザースヴァート上流、ランクストとローハウゼンの間で渡ろうとしたが、対岸にいた狙撃兵と増援によって撃退された。ユアディンゲン付近、ボートベルクとダムハウゼンの間で行われた小規模な攻撃も同じ結果になった。
 3度目の攻撃ではダムハウゼンに20隻の船がたどり着き、兵たちの上陸に成功した。だがこちらにも連合軍の増援が到着し、フランス軍は損害を出して船まで追い払われた。グルニエは連合軍の砲台に砲撃を浴びせ、それから3時頃に4度目の渡河作戦を実行した。だが彼らもまたオーストリア軍の激しい砲撃を浴びて引き返した。夜が明けたところで、ルフェーブルがアンガーバッハに到着したと予想したグルニエは5度目の渡河作戦をユアディンゲンで実施したが、これまた激しい射撃を浴びて引き上げた。かくしてグルニエはしばらく攻撃を止め、別の部隊が対岸を一掃するのを待つことになった。それでも彼の攻撃はオーストリア軍を引き付ける役割を果たした。グルニエ師団の一部は下流へ向かい、ルフェーブルやティリーの後を追って中立地へと渡河した。
 そのルフェーブルはラインハウゼンで3個半旅団を乗船させ、真夜中に右岸に渡った。ヴァンハイムとアイヒェルカンプの間に上陸した彼らは、抗議に来たプロイセンの士官に対して、前に述べたような理屈でこれは中立侵犯ではないと説明した。直後にデュイスブルクからボアステル少佐が来て抗議を繰り返したが、ルフェーブルは同じ理屈を並べてプロイセン軍の哨戒線を引き下げるよう促した。かくしてクレベールの指揮下、ルフェーブルとティリーの部隊、及びグルニエ師団の一部が渡河した。
 4時にはクレベールも対岸に渡り、朝方には既に2万人のフランス軍が右岸に到達していた。ただし大砲は少なかったという。彼らの渡河は抵抗を受けず、騒音も発しなかったため、リーゼ将軍が偵察からそれを知らされたのは午前2時頃だった。敵の前進を止められるのはシュピックの橋だったため、リーゼはホックムにいる部隊を増援し、残った最後の部隊でアンガーミュンデと近くの森を占拠した。
 ルフェーブルはデュイスブルクとデュッセルドルフを結ぶ街道を行軍した。先行したダマ将軍は擲弾兵4個大隊でシュピックの橋を襲撃したが、3回奪ったものの連合軍に3回押し戻され、自身も軽傷を負った。オーストリア軍は夜明けまで橋を持ちこたえたが、増援の到着に伴って敵の優勢が膨れ上がり、また自軍の歩兵が弾薬を使い果たしたために退却を決断した。ルフェーブルは橋を渡った後でダマ将軍を左翼のアンガーミュンデ方面に送り出し、カルクム方面の連合軍の進路を塞いだ。中央のジャコパンはヴィットラーとカイザースヴァート方面に対峙し、ルヴァル旅団はサレムに対して布陣し、そこにいる帝国軍のヴィットラーへの退路を遮断しようとした。
 ルフェーブルの正面にいたエルスニッツ大佐は、ホックム経由で追撃してきたフランス軍に対して激しい砲撃で対抗し、騎兵による攻撃も含めてホックム背後の平野でさらに3時間を稼いだ。さらにミュンデルハイムにいたゼッケンドルフが2個大隊を連れて支援に駆け付けた。だがクレベールはさらにルフェーブルやティリーの部隊にアンガーバッハを渡らせ、多くの兵をヴィンケルハウゼンに展開してゼッケンドルフを攻撃した。それでもオーストリア軍は砲撃を続けてフランス軍を牽制し、キーンマイアー将軍が湾曲部にいる大砲と兵を後退させるための時間を稼いだ。
 一方、ダマ将軍はアンガーミュンデを攻撃し、リーゼ将軍が配置した2個中隊を簡単に排除した。リーゼはカイザースヴァートへ向かう道の左側に広がる、ケンペンとハイダーホフ付近の森に逃げ込み、そこで抵抗する様子を見せたためダマはカルクムへの前進を止めた。直後にキーンマイアーがサレムから送って来た部隊が到着してダマを攻撃。フランス軍は方陣を組んだが、すぐアンガーミュンデ方面に追い払われた。オーストリア軍はそのまま他の部隊がカルクムへ後退するまでダマを牽制し続けた。
 ライン河畔と湾曲部の兵の退却を指揮したのはキーンマイアーだった。まず川沿いの部隊が後退し、残された大砲が砲撃を続けてグルニエの渡河を妨げた。ミュンデルハイムの第2線の兵が退却した後になって、これら川沿いに残された大砲も後退した。砲撃がやむや否やグルニエはユアディンゲンを含めいくつかの地点での渡河を命じ、それからアンガーロアト、エーインゲン、グリント、ミュンデルハイム、ダムハウス、ラインハイムを占領した。十分な兵が右岸に渡った後で彼はブクムとヴィットラーに兵を送った。彼らがオーストリア軍の主要街道への退路を遮断しようとした一方、連合軍ではイェラチッチ大佐が後衛部隊を指揮し、キーンマイアーは主要街道とサレムの間に部隊を配置して退路を確保した。
 4000人のフランス兵がサレム背後の地域に突入し、3個中隊を包囲するのに成功した。だがキーンマイアーがフランス軍の戦線を切り開いて彼らを救出した。この小競り合いの間に別のフランス軍がブクムを占領して退路を断とうとした。キーンマイアーは騎兵をこの村に差し向け、フランス軍は家々に立てこもって射撃を浴びせこの騎兵を撃退した。キーンマイアーは今度は歩兵でこの村を攻撃し、フランス軍を追い払うのに成功した。以後、キーンマイアーは邪魔されることなく、全軍を率いてカルクムへと退却を続けた。
 長くなったので以下次回。
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