その中で一応Polycrisisらしさを出そうとしている点が、気候変動という切り口を入れているところ。もちろんSDTで最も重要なのは人口動態であり、外生的な要因である気候の影響はそこまで大きくないし、プレプリントで紹介している話もそういうところに帰着している。ただ統計的な分析をしているかというとそうでもない。あくまで
Crisis Databaseの紹介が中心であり、そこから得られる現時点での知見についていくつかナラティブに紹介しているという程度の内容だ。予備的な文章とも言えるし、あるいは予算をもらっている以上、一定のタイミングで成果を出さないといけないといったオブリゲーションがあるから書いたようにも見える。というわけですごく面白いものではないが、現状この研究がどういう段階にあるかを見る程度には役に立つ。
文中ではまずCrisis Databaseで調査対象としている過去の「危機」について簡単にまとめている(Figuer 1)。対象としている動揺や不安定性の事例は169種類あり、その結果の厳しさを0から9の10段階で評価している。グラフを見ると分かるように、いささかいびつではあるが正規分布に近い傾向が見て取れる。極端に厳しい危機も、逆に穏やかに乗り切れる危機も数的には少なく、大半の危機は中程度の厳しさの範疇に入っていることが分かる。
気候を含む環境的な厳しさと危機の結果とは必ずしも一致していない。確かに7世紀のササン朝の崩壊は古代末期の小氷期と重なっているし、ブルボン朝の危機はマウンダー極小期の間に生じた(なおこの時期をプレプリントでは中世フランスMedieval Franceと呼んでいるが、どう考えても近代初期だろう)。明清交代も似た時期に起きたし、アステカやインカはスペイン人の侵攻を受ける前から気候の悪化や疫病で混乱に陥っていた。だが一方で20世紀のロマノフ朝の崩壊、10世紀の唐の滅亡、紀元前後におけるローマの共和制から元首制へのシフトなどは、環境的にはさして厳しくない時期に起きた。逆にビザンツやオスマンは気候が悪化した時期を生き延びたし、青銅器時代末の混乱をエジプト新王国とフェニキアは乗り切った。旱魃でマヤが崩壊したと言われている時期に他のメソアメリカの都市はむしろ繁栄した。
これまで危機について取り上げていた研究は、実際にトラブルが起きた事例に焦点を当て、それに関連する環境要因を引っ張り出すというパターンが目立っていた。マヤの例以外にも西アジアのアッカド帝国、カンボジアのアンコール王国、イースター島のラパ・ヌイ、合衆国南西部のプエブロなどが旱魃のために危機に陥ったとされている。だが同じように旱魃に見舞われたムガール帝国、プトレマイオス朝、そして日本の室町幕府などはそこまで窮地に陥ったわけではない。要するに調べる事例を増やすと例外が増えてくるという傾向があるわけだ。
こうしたナラティブな記述はそれだけだと証拠不十分に見えるかもしれないが、Polycrisis関連の議論がかつての「崩壊」論と同じようにチェリーピックで話していることが多いことを踏まえるなら、これだけでも反論としての機能は果たしていると言えるだろう。それにこの研究グループがデータを集めいずれ統計的に分析しようとしているのは間違いなく、現時点でこう主張するということは予備的調査の段階で統計的に見ても気候と危機の間に相関がほとんどないことが分かっているように思われる。要するにこのプレプリントでは、環境が直接危機に影響すると考えるより、構造的な要因を仲介する方が比重が大きいとみているのだろう(Figure 3)。
では環境的(及び社会的)ストレスに対して社会はどう反応するのか。それについては3つのケースを取り上げて議論している。1つは
前にも紹介した清の例だ。Figure 4にあるように干魃や飢饉は清の時代を通じていつでも存在していたが、清朝の前半期においては国家が運営する穀物庫などを使ってこうした環境の危機に対処できた。だが後半期になると社会がそうした能力を失い、政治ストレス指数も不安定性も大幅に上昇している。Polycrisisというが、実際には社会の構造次第で他の危機を打ち消したり、相互に増幅したりする局面があることが分かる。
次に取り上げられているのがオスマン帝国のジェラーリーの乱。これは特定の反乱を示しているわけではなく、16~17世紀に主にアナトリアで起きたいくつもの反乱をまとめてそう呼んでいるわけで、従って例えば
Britannica.comでは1519年から1659年までの期間を対象にしている一方、
トルコ語のwikipediaでは終わりは1610年となっている。
Goldstoneはむしろ17世紀の反乱だと解釈している。一連の反乱の結果としてオスマン帝国内の一部地域では人口の半数を失うほどの損害が出たそうだが、一方でオスマンは灌漑システムを維持し、清の前半期と同様に救済措置を施した。そのため環境的な厳しさは危機の結果とは必ずしも連動しなかった。
最後に取り上げるのは
メソアメリカのモンテ・アルバン。紀元9世紀にこの町は人口減を経験しており、マヤと同様に干魃や内紛がその衰退をもたらしたのではないかとの説が唱えられていた。ただ最近は異論もあり、モンテ・アルバンを含むサポテカ文化はその後も長く生き残り、またモンテ・アルバン以外の居住地はむしろこの時期に増加していたそうで、実際に起きたのはモンテ・アルバン内での格差拡大を嫌った人々の移住だったのではないか、とプレプリントでは指摘している。実際、メソアメリカでは集団性の高い町ほど長続きしたという傾向があるそうで(Figure 5)、エリートが独占するタイプの町からは人が逃げ出して衰退するという流れが一般的だったのかもしれない。
また
Supplimental Materialsではどうやってサンプルを選び、その深刻度をどう計算したかといった説明がなされている。何をもって危機とするかという問題については、前の世代(およそ50年前)には見られなかったほど構造的なストレスが高まった時期と社会を選び出しており、危機の結果で選ぶのは避けたそうだ。もちろんストレスをどう評価するかという問題はあり、このあたりは先行研究や協力者との連携で取り組んだという。危機の深刻度については13の項目(p4-5)の有無を調べているという。おそらく問題になるのはこの169のサンプルが危機の代表例として適切かどうかだろうが、これまで危機について言及している者の多くが個別事例を詳しく調べるという方法をとっている以上、そうではないアプローチが持つ意味は過小評価してはならないだろう。
今回のプレプリントで紹介されている事例は、いずれも環境的な危機が必ずしも社会の動揺に直結しているわけではないことを示しているのが特徴だ。前に紹介した別の
プレプリントでは、危機をほぼ回避できた珍しい事例を4つ紹介していたが、今回紹介されたのは危機に陥ったものの破滅的結果は避けられた事例と考えられる。このペースで行くと、次はむしろ危機が破滅につながった事例紹介が来るかもしれない。もちろんそうはならず、そろそろ統計的に分析したデータが出てくる可能性もあるが。
こちらが期待しているのは当然ながら後者。要するに危機の深刻度が変わる原因がどのあたりにあるのかを知りたいわけであり、それが環境でないとしたらどこに注意すべきか、そのヒントが欲しい。ただしプレプリントの最後を見ると著者たちは他の多くのグループと協力しながら仕事を進めているようであり、だとすると結論が出るには一定の時間が必要かもしれない。環境と危機の深刻度に直接の相関は乏しいとしても、では間接的にはどのくらいの影響があるのか、環境ではなく内生的な構造要因はどのくらいインパクトを及ぼすのか、そうした話を見てみたいのだが、もうしばらく待つ必要がありそうだ。
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