Khanはこの理由を2つ挙げている。まずIQの高い人間は「抽象的思考、体系構築、合理的思考」と親和性が高いという話。左翼、リベラル、リバタリアンの思考法は合理化されたシステムから話を始めているため、IQの高い人間が多いであろうアカデミズムではそちらの方が受け入れられやすいという話だ。続いてKhanはキャッサバの調理法を紹介。西アフリカではタブーと伝統に基づく調理法を特に考えることなく多くの人が受け入れているようだが、実はこの調理法はキャッサバを無毒化して食べられるようにするという合理的な目的を達成しているという。日本だと
コンニャクイモの調理法みたいなものだろうか。
保守派はこのように歴史的経験の積み重ねによって出来上がったものに重きを置く一方、過度な合理主義に対して疑いを差し挟む思想だ、とKahnは説明している(
Burkeの思想)。ここで保守主義をボトムアップの自然選択、合理主義をトップダウンの「インテリジェント・デザイン」と呼んでいるところはなかなか興味深い。一方、ここで
Henrichの本が紹介されているところはちょっと微妙だ。彼はこの後で「いとこ婚の禁止から西欧の個人主義が広まった」という説を提唱しているのだが、
その主張には疑問があると思うからだ。
Khanの話に戻ると、彼はキャッサバの調理法のような文化的知見に基づく信頼と合理的解釈の間には均衡があると述べ、例えば飛行機が飛ぶ理由を知る人はほとんどいなくても高い水準では誰かsomeoneが詳細を知っている、と書いている。この言葉が「個別の細かい事象ではなく、より高い水準にある抽象的な全体像については知っている人間がいる」という意味なのか、それとも「誰か」とは具体的な人間ではなく彼が述べているように「制度と集団」を意味しているのか、そのあたりはちょっとわかりにくいのだが、この後の議論の展開を見る限り後者だと思われる。
そのうえで彼は、アカデミアでも事態は同じであり、その構成員は「制度と集団」を信用していると述べている。そしてその信用こそアカデミアが保守派にならない第2の理由となっているそうだ。Khanは「人は仲間内に順応する傾向を持つ」と記し、アカデミアの構成員たちは自分たちが所属する組織に「集団的な知恵が埋め込まれている」と考えてその規範に従うのだと指摘している。これはまさにBurkeの指摘した保守主義そのものの行動原理である、という点が彼の指摘の面白い点だろう。
Khanによれば集団の6割が進歩派になれば、他のメンバーもこの「集団的な知恵」に従ってどんどん進歩派へと鞍替えしていく。かくしてほんの10年ほどで中道だったメンバーの大半が完全に「お目覚め」してしまい、気が付くとアカデミアはほぼwoke一色に染まってしまった、というのが彼の説明だ。結果、かつては保守的な宗教組織から袋叩きにあっていたドーキンスが、今ではお目覚め系からキャンセルカルチャーというつるし上げを食らうことになった。「世界はドーキンスを追い越してしまった」というわけだ。さらにKhanは、むしろ宗教こそが人々の衝動を抑制する機能を持っていた可能性についても言及し、今や無神論者が疑似宗教的なコミュニティを作っていると記して話のオチにしている。
最後に出てくる、お目覚め系が一種の信仰と化しているとの指摘については、これまでも
世俗的啓蒙が枢軸宗教に取って代わろうとしているんじゃないかと書いてきたこともあり、個人的に同感だ。Khanは宗教が人々の衝動を状況に応じていろいろな方向に誘導する社会技術だったのではないかと記しているが、同じことを世俗的啓蒙に基づいて実行しようとしているのが今のwokeだという指摘も
前に紹介した。おそらくwokeの勢いが増している事態を説明するうえで、こうした解釈が英語圏で一定の広がりを見せているのであろう。
ただその背景、特に「この10年」で急速にそうした事態が進んだ件についてのKhanの説明は不十分だと思う。彼はまず理由その1として知識人が左翼的な思考法に親和的だと述べ、さらに理由その2として仲間内への順応がそれを加速したと書いているのだが、この説明ではなぜ左派リベラルが急拡大したのが「この10年」だったのかはわからない。知識人の合理的思考法が左派と親和的だったのは別に最近になって起きた現象ではないだろうし、だとすればずっと昔からアカデミアはずっと左派リベラルの牙城であり続けていなければKhanの理屈と合わない。でも最初に紹介したように、昔は今よりアカデミア内の穏健派や保守派がずっと多かった。
要するにKhanの説明は静的すぎるのだろう。そうしたメカニズムが働いていることは確かだとしても、そのメカニズムがタイミングによって異なる結果を生み出していることについては視野に入っていない。もっと動的な原因を組み込まなければ、最近になって急に左傾化が進んだ動きについて説明することはできないだろう。その点では
エリート過剰生産の方がもっと足元の実態を理解するうえで説得力があるように見える。
もう一つ、Khanの説明で不十分だと思うのは、アカデミアで左派リベラルな価値観が広まった原因として「仲間内に順応する」というメカニズムのみを取り上げている点だ。単に順応するだけでここまで左傾化が加速するだろうか。それよりは
リベラルと競争の果てで紹介したように「見せびらかし消費としてのリベラル的意見表明」こそがアクセルを吹かしたと考える方が納得がいく。単に魔女狩りに同調するだけではなく、場の主導権を握るためにむしろ積極的に魔女を告発する人間がいるからこそ、魔女狩りは猖獗を極める、のではなかろうか。
戦時に突入したロシアの情報空間でウルトラナショナリズムな言説がやたらと勢いづいているのも、これと同じメカニズムが働いているのだろう。戦争という圧力にさらされた「仲間内」で戦争に勝つという意図を示すような威勢のいい言説がもてはやされるため、ロシア国内で主導権を握りたいと思っているエリート志望者(ワナビー)はより過激な排外主義的発言をするようになる。
プリゴジンはそうした典型例の1人なんだろう。
それにしてもこの文章、最初についた
はてなブックマークがまさに文中で指摘されている「自分が間違えているかもしれないという自問自答を拒否」しているかのような反応をしているところが何とも面白い。あるいは
こちらのブックマークに書かれている「社会の統制強化への欲望」などはまさに上にも紹介した「管理主義」を手に入れようとする対抗エリートの行動を指摘しているかのよう。Khanの説明が現状について腑に落ちる点を多く含んでいるのは、おそらく事実なんだろう。
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